10
つい先程までの慌ただしさが嘘のように診察室に静けさが取り戻された。遠くから車のエンジンと急発進してタイヤとアスファルトの擦れる音が聞こえた。
「はぁ、面倒ごと持ち込みやがって……」
床に落ちていたペットボトルを拾い上げるとフォト・フォードは独り言をつぶやいた。
分量、間違えただろうか。まぁ犬人のくせにこの匂いに気が付かないほど鼻が利いてないんだ。ぐっすり眠っていてもらおう。
ほとんど空になっていたペットボトルをデスクの下に置いてあったごみ箱に捨てた。飲みかけのままになっていた缶コーヒーを一気に飲み干した。豆の苦みが口の中に広がる。これで眠気が引いてくれるわけではないが飲まずにはいられない。
……立派なカフェイン中毒者だな。
空になった缶も同じごみ箱に放り入れた。
それにしても、あんな睨まれ方をするとは思わなかったな。次に会った時には引掻かれるかもしれない。
さて、一服でもするか。と診察室を出ようとしてライターが無いことに気がついた。着ている服のポケットというポケットを探したがどこにも入っていなかった。煙草があっても肝心の火がなければ意味がない。
仕方ない、売店でも行くか。
そう思って診察室を出ると廊下の方から声が聞こえてきた。
薄暗くなった廊下の向こうから「せんせー。フォードせんせー!」と聞こえてきた。無視したい気持ちが大きかったが、急患だったら一大事だ。後で何を言われたものかわかったものではない。
「フォード先生はこっちだよー」と誰もいない廊下の方に言うと、パタパタと走ってくる足音が近づいてきた。廊下の角からひょっこりと姿を現した耳の長い影がきょろきょろしているのが見えた。そして俺を見つけたのか、耳をぴんと立ててこちらに近寄ってきた。
「やっと見つけた!こんな所にいらっしゃったんですね」
軽く息を弾ませながらそう話すのは、今年の春から働き始めた兎人の娘だ。名前は……忘れた。
「廊下は走るなと学校では習わなかったのか?」
「すいませんっ!でもちょっと急いでて……」
話すたびにぴょこぴょこ跳ねるその姿は見ているだけで癒される。
「け、警察の方が、お見えになってます!」
警察。という言葉がその小さな口から飛び出してきて、悠長にこの子を眺めている場合ではなくなった。
「あーん、僕に用事?」
「あ、いえ。誰でもいいと言われたんですけど、他に誰もいなくて……」
と申し訳なさそうに兎の子は言った。さっきまで元気だった耳が垂れ下がっている。
「あぁ、いつものことだから気にしなくていいよ」
「すみません」
表に出ないように心の中でため息をついた。いつものことだ。上の爺共は面倒なことがあれば全部俺に回してくる。この病院に来て数か月の子にもわかるほどに、気の毒な人として記憶されているほどに……。そして俺は腕を組んで少し考えたふりをして「よし、お引取り頂こう」と名案でも思い浮かんだかのように手を叩いた。
「……え」
しょんぼりしていた兎の顔が今度は不安の表情に覆われた。この小さな面積でコロコロ変わる表情は本当に豊かだった。見ていて飽きない。
「頼めるかな?」
「無理です無理です無理ですっ!」
彼女は小さな頭を飛んでいきそうな勢いで横に振った。
「大丈夫さ。『ただいま先生方は立て込んでおりますので、お引取りください』って言うだけだよ」
「……でも」
「ほら、いつもカリカリしてる看護師長のイメージで、目をキッと釣り上げて『お引取り下さい!』。これで一発さ」
と自分の細い目を吊り上げていると、肩に軽い衝撃が走った。
「悪かったですね、いつもカリカリしていて。後、そんなに目は細くはありません」
「あ、師長……」
後ろを振り向くとそこには猫人の師長が立っていた。細い銀縁眼鏡の向こうから、キリっとした目をまっすぐ向けていた。
「こんばんわ師長。いい時にやって来てくれた」
「……追い払えばいいんでしょうか」
「いやいや、追い払うんじゃない。お引き取り願うんだ。あくまで穏便にね」
さすが物分かりがはやい。この病院始まって以来、最年少で看護師長まで上り詰めただけはある。
彼女は一瞬面倒くさそうな顔を表に出したが、分かりやすくため息をつくと元の師長の顔に戻った。
「あまり新人にこういう仕事は押し付けないでください。余計にややこしくなるだけですから」
師長は眼鏡を指で押し上げながら言うと新人の兎人に「ついていらっしゃい」と声を掛けて病院の受付のある方へ歩き出した。
「あ、師長」
「まだ何か?」
「ライター。貸してくれない?」
「…………吸いすぎは体に毒ですよ」
彼女はそう言ってポケットの中からライターを取り出した。売店で売られている安っぽい半透明のプラスチック製のライターだ。
「お互いにね。後で返しに行くよ」
「……差し上げますよ。どうせ売店のライターです」
差し出されたライターを俺が受け取ると、彼女は踵を返してコツコツ靴を鳴らしながら廊下を歩いて行った。兎の子も俺に向かって軽く会釈をして彼女の後ろをついて行く。
二人の姿が薄闇に溶けて消えるまで見送って俺は廊下の窓を開けた。
ひとしきり降った雨は、もうすっかり止んでいた。開けた窓から温度の下がった空気を風が運んでくる。立ち昇る湿った土の匂いが季節を感じさせた。
上半身だけ外に出し煙草に火をつけた。
……若いっていいねぇ。
吸い込んだ煙を雨上がりの夕焼け空に吐き出した。煙は夏の湿気った空気に薄れて消えていった。
♢
狐につままれた。まさしくそんな気分だった。数回優しくされただけで、この人はいい人だ、信用できる、医者だし。と思ってしまった自分が憎い。
僕とヒロが診察室から連れ込まれたワゴン車はすぐに走り出し、病院の敷地内を後にした。
車内には僕とヒロ以外に警察の格好をした五人。運転席と助手席にそれぞれ一人ずつ。助手席の奴は地図を広げて運転手に道を指示していた。僕の両脇には二人、腕をしっかり固められている。そして後部の座席には眠らされたままのヒロと最後の一人が居た。
どこに向かって走ってるんだろう。
車は警察署がある方向とは違う道を走っていた。帰宅ラッシュの時間帯と重なり、街を横切るように伸びている道路はどこも混んでいる。少し車を走らせるとまた止まる、を繰り返していた。
「……サイレン、鳴らさないんですか?」
何度目かの信号待ちで僕は口を開いた。
一瞬車内の空気がピリッとした。
きっと返答はないんだろうな。そう思っていたが助手席の男が足元から回転灯を取り出して言った。
「この車、覆面なんだ。もう急ぐ必要は無くなったからこいつを使う必要はないんだ」
それに、起こしたくない。と後部座席を指差して言った。
「……目的は?」
「目的?うーん、それはまた落ち着いてから話すよ。それより、もう離していいよ。いつまで腕掴んでるの」
助手席の男の言葉に僕の両脇の警察官は顔を見合わせた。
「いいんですか?この子、結構力強いですよ」
右隣にいた男が言った。
「いいのいいの、離したからって別に暴れる訳じゃないで……」
彼が言い終わる前に、僕は拘束が緩んだ右腕を引き抜くと、そのまま犬っ鼻めがけてパンチした。
「あっ」
しかし運転手が僕の様子に気づいていたのか、ブレーキを一瞬だけかけた。そのせいで拳の狙いが上に外れてフードをかするだけに終わった。
どうにでもなれ。
そんな思いで左手で中途半端に垂れた耳を掴みにかかったが、両隣の男に取り押さえられた。
「ほら、言わんこっちゃない。ジャックさん、大丈夫ですか?」
苦笑いしながら左後ろから、か細い声がした。思わず声の方を向くと僕の腕をしっかりと固めている鱗で覆われた腕が見えた。
……え、女の人?それに今この人、ジャックって……。
僕が勝手に男だと思っていた人は蜥蜴人の女性だった。今もギリギリと僕の腕を締め付けている。右隣の男より強い。
「ふふ、驚かせようと思ったのに、逆にびっくりさせられたよ。今度ハルさんに話すタネができた。まさか君、そんなに暴力的だったなんて……」
ジャックと呼ばれた助手席に座っている男、その口からハルさんの名前が出てきてやっと気づいた。
「やあ、シュトレンくん。やっと分かってくれた?」
「……ジャック、さん?」
たった今僕に殴られかけたはずなのに、ニッコリと顔いっぱいに笑みを浮かべていたのは警察で巡査で、しょぼくれていたハルさんの犬、ジャックさんだ。
「ほら、最初から説明しとけばよかったんだ。それなのにジャックさんがドッキリしたいとか意味不明なこと言うから……。あ、もう離すよ」
右隣の男がそう言うと、がっちり掴まれていた腕が解放された。
「そんなこと言うなよニコラス!大成功だったかじゃないか」
そう言うジャックさんをよそに、ニコラスと言呼ばれた男は肘をついて窓の外を見ていた。
「どこが……」
窓に映った猫目は窓ガラス越しに僕と目が合うと、窓の外に視線を戻した。
「ジャックさん、なんで」
「……話すと長いよ。いてっ」
助手席の背もたれに肩を回して言ったジャックさんの頭に、運転席から平手が打ち下ろされた。
「ちゃんと説明してやれ」
運転席の男に頭をさすりながら「はーい」と返事をしたジャックさんは話し始めた。
「僕らは今、警察として動いてるわけじゃないんだ」
「……どういうこと?」
「君も知っての通り、ヒロは行方不明者扱いになっているんだ。それはルーヴさんから聞いているね」
僕は頷いた。
「じゃあこれは知ってるかな。今、ヒロに麻薬取締法違反の容疑がかけられている」
「……!」
「タイミングが悪くてね、ヒロが行方をくらませてすぐ、この街で麻薬の取引が行われるというタレコミが入ったんだ。たぶん、このことはヒロも知らない」
「そんな、もしかしてこのまま警察署まで行くんですか?まだよくは知らないけど、彼は薬に手を出すような人じゃない……」
僕がそう言うと両隣の二人が気構える様子が空気で伝わってきた。
「まあまあ、落ち着いて。さっき僕言ったでしょ。警察として動いてないって」
「……」
「ヒロが麻薬に手を出すような奴じゃないってのは、僕らが一番よくわかってる。たとえ、兄弟を失った後だとしてもね……。だから僕らは同僚として、上司として、部下として、友人として、今ここにいる」
「俺は別に、非番で暇だったから……」
ジャックの言葉に隣の猫男が付け加えた。
「正直じゃないなーニコラスはー」
そう言ってジャックはニコラスの頭に手を伸ばすが「うるさい」と叩き落とされていた。
「ま、そういうわけで今は僕のうちに向かってる。僕一人暮らしだし、男一人匿うぐらいの空きはあるからね」
へへん。と鼻頭を掻いて言った。
「……その後は、どうするんですか?」
僕は疑問に思って訊いた。すると予想もしない答えが返ってきた。
「なにも」
「なにも?」
ジャックは少し気まずそうに言った。
「突然だったんだ。フォトさんから連絡もらって、すぐに病院に駆け付けた。だからこれからの予定は、今考え中」
「……」
「そんな顔しないで」
僕がどんな顔をしていたのかは知らないがジャックさんは目を覆った。
「ジャックさん、ヒロの家ってわかりますか?」
「……ヒロの家?分かるけど、今はあんまりお勧めしないなぁ」
「そうですか」
指の隙間から目をのぞかせてジャックさんは言った。
「あと、言い辛いんだけど、僕らは明日から少しの間、自由に動けないんだ」
「……」
「署に外部の調査が入るんだ。それに僕らも立ち会わないといけない」
「……」
「だから……、とりあえず僕の家行こう?」
「……」
「お願いだから誰か返事してぇ」
いつの間にか日が暮れて暗くなった道路を車のヘッドライトが照らしていた。
先行きは、かなり不安だ。
車は住宅の立ち並ぶ地区まで来ると、街灯の少ない路上に止められた。
「ここでいいか?」
「うん、大丈夫」
周りを見渡して言うと車のエンジンもヘッドライトも消えた。
「じゃあシュトレン君、手伝ってくれる?」
ジャックさんは助手席から降りて車外へ出た。僕も両隣の二人と一緒に車を降りる。
「ここからは僕一人で背負っていくよ」
ジャックさんは二人に手伝われながらヒロを背負っていた。
「……えらく重たくなったな」
足元は少しふらついていた。
「大丈夫ですか?私達も……」
蜥蜴人の人が心配したがジャックさんは首を横に振った。
「ありがとう、でも大丈夫。それにあんまり目立ちたくないから少人数で動きたいんだ」
ブチさん、とジャックさんは運転席の犬人に声をかけた。
「みんなをお願いします」
「……ああ、お前も気をつけろよ」
「はい」
車は僕たち三人を路側に残し夜の街へ走って行った。
「じゃ、僕らも行こうか」
明かりが一つも付いていない、ブロック塀に挟まれた細い道をジャックさんは歩き出した。僕はその後ろを付いていく。
細い砂利道はクネクネと続き、すでにどの方向に進んでいるのか分からなくなっていた。道というよりは敷地と敷地の間にできた隙間、という感じだった。
……猫が好きそうな道だなぁ。
そんなことを思いながら歩いていた所為で、前を歩いていたジャックさんが立ち止まっていることに気づくのが遅れた。危うくジャックさんの背中で寝ているヒロに追突するところだった。
ブロック塀の続く壁に突如として現れたスチール製の扉を前に、ジャックさんは自分のポケットを探っていた。
「ごめんシュトレン君。鍵、開けてくれる?」
そう言って彼は僕に取り出したキーケースを手渡した。掌に予想していたよりも重量のあるキーケースが乗せられた。
「……どれですか?」
思っていた通りケースを広げるといくつもの鍵がぶら下がっていた。
「えーと、どれだったかな。普段使わないから分かんないや。一番古そうなやつが確かそうだよ」
「え、自分の家の鍵でしょう?」
「あー、うん、まあね、裏口だから」
「?」
ジャックさんの言動に若干の違和感を覚えながら、言われた通り古そうな鍵を探した。それはすぐに見つかった。ジャックさんが携帯のライトで照らしてくれたおかげで、光を反射して煌めく鍵の群れの中に、傷やへこみがいくつも入った鍵を見つけることができた。
その鍵を鍵穴に差し込むと少し引っ掛かりはしたが、右にひねると錠は外れてくれた。
扉を押し開けて僕が先に中へ入った。灯りが無くてよく見えなかったが、土と水と黴の匂いがした。どうやら植物が植えられた裏庭に出たようだ。
「そのまま表に回って。鍵は一番右端」
ジャックさんが後ろ手でドアを閉めながら言った。
僕は言われた通り建物の表に向かった。歩きながら、そういえば何号室か聞くの忘れてたな、と思って灯りのついた玄関に差し掛かかった。しかし勝手にこの建物がアパートだと思っていた僕の目の前に現れたのは、普通に家の玄関で、この建物にある一つだけの扉だった。
一人暮らしで一軒家?
疑問に思いながらも鍵を差し込むと、鍵はすんなりと鍵穴に入っていった。扉を少し開けて中を覗き込むと、少し昔の雰囲気が漂う玄関が現れた。散らかった靴が生活感を程よく醸し出していた。
「……何してるの?」
玄関をドアの隙間から覗き込む僕を見て声をかけたのだろう。ジャックさんが不思議そうな、困ったような顔をしていた。
「本当にここに住んでるんですか?」
「うん、賃貸みたいなもんだよ。そんなに不思議?」
さ、入って。とジャックさんは僕を促した。
ドアを開けて中に入ると、それらしいスイッチを見つけて、つまみを上にあげた。すると天井についた蛍光灯が少し時間をおいて点灯した。
「お、当たり。たまに着かないんだ、ここの蛍光灯」
僕が先に靴を脱いで框にあがった。ジャックさんもそのあとに続いた。
「じゃあ、僕はこの寝坊助を寝かせて来るよ。そっちに居間があるから、ちょっと待ってて。あとで作戦会議しよう」
そう言うとジャックさんは靴を脱ぎ散らしたまま、灯りもつけずに階段を上っていった。僕はその靴を靴箱に適当に仕舞って、玄関の鍵を掛けた。
居間、こっちかな。
玄関から伸びる廊下を奥に進んでみる。友達の家を初めて訪れた時の感覚に近かった。人の家の匂いがした。
少し進んですりガラスのはめられた木枠の引き戸が現れた。敷居に沿ってその引き戸を開けると、ガラスが振動してガラガラと音を立てた。
台所……。いや、ダイニングキッチンか。
壁に沿ったシンクにガスコンロ、部屋の中央にはテーブル、隅に一人暮らしにしては大きめの冷蔵庫が鎮座していた。
入って直ぐの壁についていたスイッチを押すと、パチンと音がして蛍光灯に灯りが点された。
部屋に一歩踏み出すと床の木材が少したわんで軋む音がした。この家に足を踏み入れてからうすうすは感じていたが、この建物自体がかなり昔に建てられたもののようだ。木造の建築様式に、ところどころ改築したような痕跡が見受けられる。
きっとここにはいろんな生活があったんだろうな。
今ここにはない情景が僕の頭に浮かんだ。
台所の小窓から夕焼け空がのぞいていた。時刻は夕暮れ刻。エプロンをつけた母親が台所に立っていた。鍋で焚いているスープの匂いが漂い、包丁とまな板のぶつかり合う音が家の中に響く。娘がテーブルの上に食器を並べて母親の手伝いをしている。「ただいまー」と玄関から元気な声が聞こえてきた。娘は食器を置いて声のする方へ「おかえりー」と出迎えにいく。息子と父親が一緒に帰ってきた。「お帰りなさい、もうすぐ準備できるから手を洗ってらっしゃい」母親がエプロンで手を拭きながら言った。息子は「はーい」と返事をして、トタトタと廊下を走った。これから一家団欒の夕食が始まるのだ。
「……座らないの?」
ジャックさんの声が居間の入り口で突っ立っていた僕の背後から聞こえてきた。
「寂しいですね」
「……何のこと?」
今は若い男の一人暮らし。きっとこの家も長い築年数の中で初めて見る生活なんじゃないだろうか。
「なんでもないです」
「そう?……まあいいや。そこ適当に座って。お茶でいい?」
「ああ、はい」
ジャックさんはシンクに置いてあったガラスのコップを洗うと、掛けてあった白い布巾で水けをふき取った。シンクの上にはカップラーメンの器が置きっぱなしになっていた。よく見るとコバエがその周りを飛んでいた。
僕は冷蔵庫を開けた。中身はほとんど空だった。外ポケットにはお茶と思しき液体が入ったボトルと調味料の入ったチューブがいくつか入っていた。あとは缶ビールが数本転がっているだけだった。中身はいかにも男の一人暮らしという感じだ。僕はお茶の入ったボトルを取り出すとジャックさんに見せた。
「これ、お茶ですか?」
「うん?ああ、ありがとう。氷はその下の引き出し」
引き出しを引くと製氷機から出た氷が詰まっていた。
ジャックさんから受け取ったコップに氷を入れた。カランカランと涼し気な音がした。そこにジャックさんがお茶を淹れた。茶色い液体が注がれたコップが僕の前に差し出された。
「はい、どうぞ」
そう言ってジャックさんは椅子に座った。
「……ありがとうございます」
僕も一番近くにあった椅子を引いて座った。
「さてと、これからどうしようか」
ジャックさんはお茶を一口飲んで言った。
「さあ、どうしましょう?」
「君もノープランってことか」
僕もお茶を一口飲んだ。少し濃いめの麦茶が喉を通っていった。
「別に、ノープランってわけじゃないんです。ただ、ヒロが目を覚まさないと訊きたいことも聞けなくて……」
「そういう事か、じゃあ叩き起こそうか?寝てるだけだから多分起きるには起きると思うよ」
ジャックさんは家の二階の方に目をやって言った。
「いや、今はいいです。そののままで」
「そう?じゃあ寝かせてやって。多分あいつのことだから睡眠時間削って一人で捜査していたと思うから」
そう言うとジャックさんは少し暗い表情になった。
「ところでさっき、車の中でヒロの家には行かない方がいいって言ったのはどうしてですか?」
「ああ、それね」とジャックさんはまた表情を変えた。
「ヒロに麻薬取締法違反の容疑がかかっていることは話したね?」
僕はうなずいた。
「それの所為でさ、ヒロの家の周りに警察官が張ってるみたいなんだ。だから安易にヒロの家には近づかない方がいいと思うよ」
「……そうですか」
「……ヒロの家に何かあるの?」
「ヒロの、というより、ユウのことを調べたくて」
「ユウ?……ああ、弟だね。確か家は一緒だったはずだよ。入院してることが多かったからほとんど一人暮らしみたいなもんだったらしいけど」
「?両親は一緒じゃなかったんですか?」
「……うん、ヒロの両親は数年前に離婚して、片親だったんだけどその人も事故で亡くなってしまって……。それ以来は弟と二人で暮らしていたみたいだよ」
「……」
「それで今回の弟の事件が重なっちゃって……つらいよね。僕もなんて声をかけてやったらいいかわからなかったよ」
ジャックさんは余計に表情を暗くした。
僕が思っていたよりもヒロはずっと独りだった。ユウを亡くしてから一人になった。行方をくらましてからも独りで事件の捜査に明け暮れていたのだろう。あれだけ粗暴になってしまっているのも、なんだかわかる気がした。
少しの間、暗い空気が流れた。
ぎゅー、と間の抜けた音が聞こえてきたのはその数秒後だった。
「はは、いろいろあって今日お昼食べそびれちゃってさ。夕飯まだでしょ?何か食べる?」
さっきの暗い表情はどこへやら。ジャックさんは照れ臭そうにして言った。
「……いただきます」
実は僕もお腹を空かせていた。昼どころか朝も適当にしか食べていない。
「と言ってもカップ麺くらいしかないんだけどね」
ジャックさんはそう言って椅子から立ち上がった。シンクの下の引き出しを開けて「なにがいい?醤油?塩?」と僕に訊いた。
「何でもいいですよ」と答えながらも自分で見に行った。引き出しの中をガサゴソ探っているジャックさんの手元を見ると、そこには引き出し一杯に詰められたカップ麺が雑多に詰め込まれていた。
「じゃあシュトレン君これで」
そう言って手渡されたのは容器に魚の写真が前面にプリントされた塩ラーメンだった。魚介出汁たっぷり使用、と書かれている。
あ、おいしそう。
「さて、お湯沸かそう」とジャックさんが立ち上がった。「やかんは……」と探していると、ピンポーンと呼び鈴のなる音が聞こえてきた。
……誰だ、こんな時間に。
「インターホン鳴りましたよ……」
僕はそう言って顔を見上げると「嘘だろ、早すぎる」とジャックさんは呟いていた。
早すぎる。その言葉に緩んだ緊張が再び張り詰めた。ラーメンのことで一瞬忘れていた。今、麻薬取締法違反の容疑がかかっているヒロが二階にいるんだった。どこかから事情を知る人が見ていて通報されたのかもしれない。
「ジャックさん、モニターってどこにあるんですか?誰だか確認しないと」
「……うちのやつモニターついてないんだ」
ジャックさんは少し考えた後「シュトレン君はここにいて」と玄関に向かって行った。僕は居間の入り口から玄関を覗き見ることにした。その間にもう一回呼び鈴が鳴らされた。
「はーい」とジャックさんが答えて静かに扉にチェーンを掛けた。そして鍵を開けて、少しだけできた隙間から外をうかがった。
何か会話したのだろうか。それとも見えたのだろうか。扉を閉めると両手で顔を覆って天を仰いだ。
……何してるんだ?
不可解な行動をとるジャックさんを見ていると彼はドアチェーンを外し、扉を開けた。
開いた扉から現れた人物に、僕は安堵と疑惑の二つの感情を抱いた。
「……フォードさん?」
「お、少年もここにいるという事は、あいつもいるな……」
玄関先に現れたのはスーパーの袋を片手にぶら下げたフォードさんだった。
「何してるんだお前」
天を仰いでいるジャックさんを見てフォードさんは言った。
「………………おかえりなさい」
ジャックさんは物凄く小さな声で言った。