08
僕は砂でザラついた地面に正座していた。布越しにも伝わるその感覚は、いつもの硬くてヒンヤリした道場の床とは少し違う。両手を膝の上に置き深く息を吸って呼吸を整える。
いつも聞こえる風の音や笹の葉の擦れる音の代わりに、僕の耳には喧々な声援が聞こえてきた。
いつもと変わらない円形のリング。その周りに集まるいつもと変わらない血気盛んな観衆とそれぞれが発する唸り声や遠吠え。
ただ一つ違うのは、僕の衣装がかつて侍と言われていた人が着ていた服装だった事だろうか。
「うん!君、スタイル悪くないから大体の衣装似合うね!」妙に高いテンションでいつもの案内係の犬人の女の人は、僕を立ち鏡の前に立たせて言った。
鏡の中に現れたのは、すでに着慣れていた道着と少し色味が違うだけの衣装を着た、冴えない顔の猫人の少年だった。ちょうど格闘ゲームのキャラクターの色違いほどの差しかない。
「やっぱり毛皮が白いと衣装が映えるね!ただ、これで刀があれば最高なんだけど、残念なことに武器の持ち込みは駄目だからなぁ―――――」
目を閉じて集中しようとしているのに、数分前の会話が頭の中で思い出された。
彼女はここで働く前は服飾関係の仕事でもしていたのだろうか。
僕は形だけの座禅を終えて目をゆっくりと開いた。目の前には黒ずくめの忍者を装った服装の、たぶん鼬人。唯一、目出し帽からのぞく二つの眼は鋭く尖っていた。忍者の腕には町娘風の猫人の少女が捕まっている。
「キャー、タスケテー」
彼女がお手本のような棒読みで助けを求めると、試合開始のゴングが高らかに鳴った。
助けを求めていたはずの町娘は自力で忍者の腕から逃れると、すたすたと後ろに下がってそのままリングの外に出た。
今回のテーマは「攫われた町娘とそれを助け出す侍」らしい。漫画や小説の世界の話なら僕は絶対に負けてはいけない立場にある。しかし毎度のことながら別にどちらが勝とうがこの物語に関係はない。以前、強盗と警備員役の試合で、強盗が快勝したことがある。ちなみにその時、僕は警備員役だった。つまりは観客が楽しめればいいのだ。
観客はどちらが勝つかを予想して幾らか賭ける。忍者約三人、侍役三人の試合。どのようにしてお金が賭けられるのかを僕は知らなかったが、リング内にいる僕らは差し詰め競馬の馬、競輪の選手だ。
黒ずくめの鼬人は何もしてこない僕にしびれを切らしたのか、前傾姿勢になり、前足を地面につけて蹴り出した。
速い。
胴が長く四肢の短い鼬人は、二足歩行で歩行する時とは比べ物にならないほど四足での移動が速かった。
一気に距離を詰められた僕は防御する構えに入った。
パンチか、それとも蹴りか。どちらでもしっかり見極めてガードできれば、受け流すこともできるし、そこから反撃に転じることもできる。そこは剣道と同じだ。相手の動き方を観察し、次の一手につなげる。毎日のようにサクラの竹刀を受け続けていたおかげで、ある程度目は慣れていた。
どっちだ?と身構えていると、鼬人は数歩手前で地面を蹴って跳ね上がった。
飛び蹴りだと思った僕は腕で受け流す体勢をとる。このまま身体を横に流してしまえば、相手は着地したときに隙が生まれる。そこで反撃に転じよう。
そう思っていた僕は、空中で上半身をねじった動きについていけなかった。
横から飛び出してきた太い尻尾を両腕でしっかりと受けた。それほど重い攻撃ではなかったが僕の体勢を崩すには十分なものだった。
「くっ」
僕が考えていた計画は一瞬で崩れた。
鼬は着地した後、踵を返して攻撃を続けた。
…………またこれだ。
繰り返される追撃の中、僕は稽古中、サクラに言われたことを思い出していた。
「ねぇ、もしかして考えてから動いてない?」
僕は道場の床に尻餅をついて、面もつけていないサクラを見上げていた。
彼女が言ったことをはじめはよく理解できなかった。
「……どういうこと?」
考えてからじゃないと動けないじゃないか。と反論するとサクラは「うーん」と少し考えて竹刀の柄の部分で頭を掻いた。
「まあ考えないと動けないんだけどさ。瞬間の判断力の違いかな?」
「瞬間の判断力」
「そ。シュトレン君、相手がどう動くか考えてから自分がどう動くか決めてない?それだと自分が予想しなかった動きをされたときにうまく対応できない」
「……うん、そうかも」
「だから、その瞬間瞬間を判断して動きを合わせるの」
「……」
「例えば、相手が面を打つ。その一つの動きの中に、視線の動き、足の運び、腕の動かし方、それ以外にも沢山あるんだ。その一つ一つを目で見て判断して、自分がどう動くか決める。どう?なんとなくでも分かった?」
「要するに行き当たりばったり?」
「嫌な言い方するねぇ。でもその行き当たりばったりにやられて、君は今尻餅ついてるんだよ?」
彼女は悪戯な笑みを浮かべると「練習あるのみ!」と言って僕を立たせた。
彼女の言ったことは十分理解できていた。と思う。でもそれは何年も経験を積んで、日頃の修練の結果身につく戦い方だ。僕はそんなことができる程、武術を始めて月日は経っていない。
僕にはまだサクラのように相手の動きを見てから動ける判断力は持ち合わせていない。これだけ攻撃を受けていても、そこから脱する手立ても知らない。だからと言ってこのまま受け続けて負ける気もない僕は、一か八か右腕を相手に向かって大きく振った。
その際に横腹へ一発喰らったが、空を切った腕のおかげで鼬人を数歩後ろに下がらせることができた。
「そんな君にアドバイス!」
サクラが打ち合いの中で教えてくれた。
「自分の思い通りに相手が動かなかったときは、一旦リセットする」
僕の面に一撃入れて言った。
「リセット?」
「そう!相手のペースに合わせることなんてない。自分が引いてもいいし相手を引かせてもいい、何度でもリセットしてやれ!」
そう言って僕の直線状からサクラの姿が消えて、次の瞬間には胴を打たれて強い衝撃が体に伝わった。
「シュトレン君、猫人だからこういうの割と得意かもね。教えてあげよっかぁ?」
痛みに膝をついていた僕の背中を竹刀でつんつんしながらサクラは言っていた。
今も若干、わき腹にその時の痛みが残っている。
鼬人は数歩離れたところで構えていた。まだ動く気配は無い。
今度は僕からだ。
さっきは彼の動きに僕は合わせられなかった。予想通りに動かなかった。……相手も同じだ。
僕は地面を蹴って飛び出した。
何の考えもなしに飛び出したわけではない。鼬人が正面から受けてくれると「予測」して行動した。
僕はまだ、こんな博打みたいな闘い方しかできない。でもこれが今できる僕の精一杯だ。
一歩踏み出したところで相手は身構えた。さっきの僕と同じで僕の攻撃を受けようとしていた。
僕は左手を顔の前に出した。殴りにいったわけではない。ただ手を大きく広げて差し出した。
その差し出した左手を彼は受けようと右腕をあげた。
その一瞬の行動が勝敗を分けた。
僕は左足を軸に体を回転させて相手の直線状から消える。そしてそのまま遠心力を利用して、右腕で胴を打った。腕は鼬人の右わき腹にしっかりと入った。
「ぐっ」
鼬人は短くうめき声を上げると、そのまま地面に膝から崩れ落ちた。
それと同時に試合終了のゴングと歓声が部屋全体に響き渡った。
鼬人の忍者を成敗した後、次に出てきた大型の犬人忍者のパンチをしっかりと顔面に受けて、僕は堅い地面に沈んだ。感覚の無くなっていた鼻から血を垂らしながら、係りの人に引きずられてリングの外へ出た。
やっぱり体格差のある相手に勝てるようになるには、まだまだ練習も経験も足りないな……。
僕はカチカチのベッドの上に座らされながらそう思っていた。
「君もすっかりここの常連になっちゃったねぇ。はい、目ぇ閉じて」
僕は猿人の爺さんに言われた通り腫れていた目を閉じた。
顔に手が当てられてそこから体温が伝わってくる。いつも、これだけならいいのにと思うのだが、数秒後に爺さんの掌から粘着質のヌルヌルとした液体が出てくる。
「嫌な顔しない。もう治療してあげないよ?」
「……してませよ。というか顔隠れてるのにわからないでしょ」
この爺さんは両の手から治癒力のある液体を分泌することができる。怪我が外傷だろうが内傷だろうが関係がないようで、粘液を塗ってしまえばある程度回復させることができるという。僕が初めてここに来た時も体中に塗りたくられたそうだ。
この地下格闘技場で怪我をする人を見ても、怪我人が出てくるところを見ないのはこの人のおかげに他ならないことを、二回目に訪れた時に知った。
治療方法を初めて知った時、それはそれは心底嫌だった。知らない爺さんの掌から出たヌルヌルした粘液を塗られるなんて考えたくもなかった。しかし顔面を腫らしたまま、青あざを作ったまま帰るわけにはいかず、背に腹は代えられないという形で治療を受けた。
粘液を塗られた部分の毛が濡れてベトベトするが、ものの数秒で何もなかったかのようにさらさらに乾く。どういう原理なのかは知らないが、乾いた端から痛みは消えて、麻痺していた感覚が元に戻っていく。果たしてこの乾き方は粘液が蒸発したのか、体内に浸透したことで起きたのかは訊かないようにしていた。
「どこか他に痛むところは?」
「もう大丈夫です」
回数を繰り返していくうちに、最初は気持ち悪いと思っていたこの治療方法にもすっかり慣れてしまっていた。
はだけていたシャツのボタンを閉めてベッドから降りた。
「最近、ここにドーベルマンの男の人って来てませんか?」
僕はペットボトルに入っていた水を飲んでいた爺さんに訊いた。
「ドーベルマンの……。あぁ、あの子かな?最近見てないな」
「……そうですか」
僕はもう手当たり次第、誰彼構わずにヒロのことを訊いていた。日が経つにつれて彼の目撃情報は無くなっていた。もしかしたらここにはもう現れないのかもしれない。そう思い始めていた。
「気を付けた方がいいよ」
お礼を言って部屋を出ようとした僕に爺さんは言った。
「何にですか?」
急に気をつけろと言われても僕には心当たりが全くなかった。
「少し前に君と全く同じ事を訊いてきた奴がいた」
「僕と、同じ?」
「そうだ。そいつも君の探している犬人の男を探しているようだったぞ」
それを聞いてヒロを探している奴が僕以外にもいることを初めて知った。
「そいつは、おそらく君のことも探していた」
「僕のことも?何で……」
「さぁな、理由は知らん」
「まさか教えてないでしょうね?」
「教えとらんよ。この歳で面倒ごとに巻き込まれるのは御免だからな」
あんまり一人で外を歩き回るのは止した方がいい。と不審者が現れた時に教師が生徒に言うセリフを聞いて、僕は部屋を後にした。
ヒロと僕をその人物が何の目的で探しているのかは、なんとなく察しがついた。
僕がヒロのことを探しているのはユウの事件を調べるため。
そいつがヒロと僕を探しているのは、おそらくヒロがユウの兄弟で行方不明の警察だから。僕がヒロを探して事件のことを嗅ぎまわっている事が疎ましく思うから。
まだ背中越しにしか会話をしていない僕とヒロの二人を探す人物がいるとしたのなら、この共通点しかない。
通路の出口に通じるドアノブに手をかけて一瞬手を止めた。
だとしたら、このままここを出て行くのは危ないか?
ヒロと僕を探している奴が、もし犯人だったら?探している目的は口封じの他ならない。
さっき爺さんから聞いた話だと、そいつは今日この格闘技場に来ている可能性が十分にある。誰彼構わずヒロのことを訊いて回っていた過去の僕の行動を後悔した。もう訊いて回った人の顔なんて全然覚えていない。
突然この扉の向こうにいる人たちのことが怖くなった。ついさっきまで観客として僕の試合を見て歓声を上げていた人たちの中に、犯人が息を潜めていたのかもしれない。もしそうだとしたらこのまま戻っていくのは不用心か?だからと言って出入り口をここ以外に知らない。
さっきの部屋に戻って閉店の時間までかくまってもらうか?いや、今何時だと思ってる。まだ夕方にもなってない。閉店まで十時間は裕にある。
だんだんと不安が焦りに変わってきた。ドアノブを握る手に力が入る。
このドアを開けて、地上につながる階段までまっすぐ走ればそれほど時間はかからない。店を出てしまえば僕を追ってくることはできないはずだ。それに、そもそもこの向こう側にそいつがいるとは限らない。
……僕はドアノブをひねった。
「あ!シュトレン君お疲れ様!ドアとにらめっこしてどうしたの?」
狭くて真っ暗な通路を抜け、梯子を上り、手探りで「取っ手」を探し出すとゆっくりとそれを持ち上げた。砂埃とともに柔らかい光が差し込んできた。
何処だここ?
そう思ってできた隙間から辺りを覗こうとすると、持ち上げていた「床」を誰かに引っぺがされた。
急に明るいところに出たせいで、暗闇に慣れていた目が部屋の灯りに眩んだ。
「やぁ、真っ白な毛並みが台無しだねぇ」
頭上から聞こえてきた声には聞き覚えがあった。
「ルーイ?」
「ほら、手出して。ちょうど今なら誰もいないから」
そう言って手を差し出してくれたのは、鹿人のバーテンダーのルーイだった。
バーカウンターの、いつも座っているところの反対側。普段ルーイ達バーテンダーが働いているところの床に出た。
僕はルーイの手を借りて地上に出た。
「うわ、埃まみれ」
「最近使ってないからね、ここ」
バーの照明に照らされて自分がひどく埃まみれになっていることが分かった。
「待って、払わないで。埃飛び散るから」
ルーイはそう言ってカウンターの下から粘着テープのコロコロローラーを取り出した。
「はい、しゃがんで背中向いて」
僕は言われた通りにルーイに背中を向けた。
「ここって秘密の抜け道か何かですか?」
僕は背中をコロコロされながら訊いた。
「うん、ずいぶん使われてないかな。僕は知らないけど昔はいろいろあったらしいよ。はい、前向いて」
「いろいろ?」
「そう、いろいろ。今でこそずいぶん平和になったけど、昔は荒れてたみたいだから」
今が平和。あれが平和?
「ところで君は何したの?この通路通ってくるってことは中々だよ?」
「……目をつけられたかもしれないんです」
「そう。追っていると思えば、気づけば追いかけられてる。探偵って大変だねぇ。」
はいおしまい。そう言ってルーイは僕の両肩をポンと叩いた。
「気を付けなよ。何処に敵が潜んでるかわかったもんじゃない」
「はい」
「コロコロのサービス料はツケといてあげるから出口までダッシュ」
「……はい」
バーカウンターから少し顔をのぞかせて誰もいないことを確認すると出口まで走った。
「あ!待って!」
ダッシュしていた僕はつんのめって扉に激突しそうになった。
「何ですか!」
「今日『彼』が来てたよ!病院に行くって言ってた!」
どうしてそれを早く言ってくれなかったんだと思ったが、文句は飲み込んでおいた。
「……ありがとう!」
バーの扉を少し乱暴に押し開け、僕は全速力で病院に向かった。
うだるような暑さと日射の中を走ったせいで、吹き出た汗が着ていた衣服をびちゃびちゃに濡らしていた。毛皮とくっついて気持ち悪い。
空調の効いた院内に入っても、ゆっくり休憩なんてしていられなかった。自販機で買ったスポーツドリンクを一気飲みした。また熱中症にでもなったら誰かに笑われる。
病院の中を注意されない程度の速さで探し回った。
キャップにフードを被った姿しか見たことがない。素顔をしっかりと見たこともない。でも一目見れば僕にはその人だと分かる自信があった。ユウの双子の兄だ。いくら性格が違っても、そこまで容姿に差は出ないだろう。
黒くて短い体毛に尖った耳、橙色の瞳。ユウはそうではなかったかもしれないが筋肉質な身体。強烈な蹴りを腹に受けた時の痛みは忘れられたもんじゃない。今度試合する機会があったら、次は絶対にあんな無様に負けてなるもんか。
「……」
僕は一度足を止めて、流れる額の汗を腕で拭った。
……違う違う、そうじゃない。ヒロ・ドーベルを探すのは捜査の為だ。変なリベンジ精神に火をつけてる場合じゃない。それはまた今度の話だ。
患者衣を着た猫人の子供が二人、スリッパをパタパタさせながら僕のすぐ横を駆けて行った。一人は全身真っ黒な子。もう一人は逆に真っ白な子。
後ろを追いかけていた白い子が、僕の方を振り返って手を振った。赤い目を細めて、年相応の笑顔を顔いっぱいに咲かせていた。
僕も小さく手を振った。
僕は自分の両腿を叩いて気合を入れ直した。
病院内を探し回ってかれこれ一時間が経過した。僕は待合室のソファに腰を下ろしていた。腕に点滴の針を刺した患者がよたよたと僕の目の前を歩いて行く。大きく揺さぶる尻尾が僕の顔を撫でた。
この時間にまだ病院内にいる人はきっと、ここに入院している患者かその家族、見舞いに来てる人、人探しに暮れている人ぐらいじゃないだろうか。
ガコンッと自動販売機が缶を吐き出す音がした。
「昨日の今日ですごいな君は」
診療時間の終わった待合室で、白衣姿の見知った狐人を見つけた。
「諦めが悪いのは嫌いじゃないが、鼻水垂らしながらしなくてもいいだろう。ほら、あったかいのだ」
「あ、ありがとうございま―――熱っ」
投げてよこされた缶コーヒーは季節はずれも甚だしいほどに熱かった。
「火傷するなよ猫舌君」
「……しませんよ。何年猫舌だと思ってるんですかフォードさん。ていうか真夏なのに熱いの売ってるんですね」
「まあ、ここにはいろんな種族の老若男女が訪ねてくるからね。このくそ暑い真夏にホットが飲みたいって言う要望もあるんだ。でもそのおかげで君はあったかいコーヒーが飲めてるんだ。感謝しろよ」
ブラックの缶コーヒーを飲みながらフォードさんは言った。相変わらず目の下にはクマをこしらえていた。僕はというと空調の利いた院内を汗に濡れたまま歩き回ったせいで、身体はすっかり冷え切ってしまい悪寒すら覚えていた。すすってもすすっても鼻水が鼻の奥の方からあふれてくる。
「それで、お願いって何だい?風邪薬の処方か、それとも探偵の仕事の方か?」
「仕事の方なんです……。今日ここに探している人が来たみたいなんですけど、何かいい探し方無いですか?」
「あー、そうだな。館内放送でもかけてもらおうか?まだいるなら呼び出せるかもしれない」
フォードさんは指で天井につけられたスピーカーを指さして言った。
そんな事で見つけられるものなら、もうとっくに見つけてる。僕は頭を抱えた。ルーイに彼がここに向かった事を教えてもらってから、僕がここに到着するまでそんなに時間は経っていないはずだ。ここについてからは一人も見逃さないように、受付から中庭、病棟に至るまで探し回った。それでも見つけられなかった。ルーイを疑うわけではないけど、そもそもヒロはここに来ていなかったんじゃないだろうか。来ていたとしても、もうこの病院を後にしているかもしれない。
今日一日の行動が徒労に終わったと思うと疲れが急にどっと圧し掛かってきた。ここ数日、本当に成果がない日が続いていた。
向いてないのかな。この捜査……。
自然と吐き出された吐息が熱くなっている気がした。
風邪を引いたときに時に似てるな。そう思っていると額を押さえていた僕の左手を押しのけて別の手が当てられた。今度はその手が襟を避けて、するりと僕の首元に移動した。冷えた缶コーヒーを持っていた手はひんやりして心地よかった。
「……風邪の引きかけだな。君の人探しには協力できそうにないが、従業員用のシャワー室なら貸してやれる。その格好のままだと本当に身体を壊してしまう」
「でも……」まだ何にもできてない。と言おうとしたら「うるさい」と、ぴしゃりと遮られてしまった。
「君の仕事がどれだけ大切なのかは知らないが、身体を壊してしまっては元も子もないぞ」
「…………で――うわっ」
今度はでもの「も」も言わせぬ間に肩に担がれた。
「こう見えても私も医者なんでね。病気になりかけの奴を放っておけないんだ。それよりもお前軽いな。ちゃんと飯食ってるか?」
「食べてますよ。ちゃんと歩けますから下ろしてくれませんか?」
「ははは、歩ける歩けないじゃないんだよ。逃げられたら困るからね、このままシャワールームまで直行だ」
「……」
「お、大人しくなったな。そのまま口閉じてろ」
「……」
僕は黙って担がれたまま、関係者以外立ち入り禁止の文字が印字された扉をくぐった。
途中で何人かの看護師さんとすれ違ったが一言二言挨拶するだけで、僕を担いでいることを言及する人がいなかった。そのことに多少の違和感を覚えながら、従業員用のシャワールームとやらに連れてこられて降ろされた。
脱衣所とシャワーが一つあるだけの、本当に軽く汗を流すだけの為にあるよな部屋だった。
「脱衣所はそこ、ドライヤー室はシャワーの向こう。タオルは持ってきてやるから先に入ってろ。……逃げるなよ」
フォードさんはそう言うと部屋を出て行った。
……何でそんなに逃げることを心配してるんだろう。…………まぁいっか。
僕は考えるのをやめてシャワーを浴びた。耳の先から暖かいお湯が足先まで伝っていく。芯までとはいかないが冷え切った身体には十分すぎるくらいの温かさだった。
暫く棒立ちでお湯を浴びて体が温まるとシャワーを止めて大きく身震いした。身震いを数回繰り返して、毛先から水が滴らなくなるとドライヤー室に入った。中央に立って壁についたボタンを押すと、扉以外の全方位から温風が噴き出した。頭から順に乾かしていく。タオルがあった方が早いのだけれど、無いものは仕方ない。僕は手で毛を逆撫でながら乾かしていった。
もういいかな。
全身一通り乾いたことを確認するとドライヤーのスイッチを切って外に出た。
「あれ、」
脱衣所の棚に脱ぎ散らしていた服が見当たらなかった。代わりに白いスポーツタオルと新品の下着に半袖のTシャツ、半ズボンがきれいに置かれていた。
『急な要件ができた。今日のところは帰ってしっかり休みなさい。追伸:汗臭い服は院内のクリーニングに出しておいた。後日取りに来なさい。フォト・フォード」
服の上に乗せられていた紙切れに、走り書きされたメモが残されていた。
タオル、使わなかったな……。
僕は用意された服に着替えるとタオル片手にシャワー室を出た。
……誰もいない。
通路には人の姿が見当たらなかった。連れてこられた道順は覚えていたから迷わずに外に出ることができた。待合室の窓からのぞく夕日が、黄昏時を知らせていた。
もうこんな時間か、返すのはまた明日でいいか。
そう思って持っていたタオルを鞄の中にしまった。
ヒロ探しをこのまま続けることも一瞬頭をよぎったが、言われた通り今日は帰ることにした。寒気は無くなったがまだ若干熱っぽさを感じる。
僕はそのまま病院を後にした。
二重になっている病院の自動ドアを抜けると、湿度の高い空気が全身にまとわりついてきた。風が湿った土と草の匂いをそっと運んできた。
ひと雨きそうだな……。
僕のヒゲが夕立の気配を予感していた。ヒグラシの鳴く夏の夕暮れの下、足早に家路へついた。
物事はいつも思い通りに運ばれないもので、僕は途中にあったコンビニで傘を買ってこなかったことを後悔していた。
後悔先に立たず。と言われても後悔してしまうものは仕方がない。コンビニを横切るときに傘を買おうと一瞬立ち止まったのに、その時は「まあいいや」と思ってしまったのが運の尽きだった。コンビニの店員が店頭に傘を出していたのだから、雨が降ることくらい分かっていたのに……。
雷が遠くの方で轟き大粒の雨がアスファルトを打ち付ける中、僕は線路の下を通る地下トンネルで雨宿りをすることにした。タオルを被っていたお陰でそれほど濡れなくて済んだ。
止んでくれるのかな、これ。
側溝を滝のように流れてくる水の流れを見ながら、いつから置いているのか分からない建築資材に腰かけた。灰色だったはずのコンクリートに深緑色の苔が生えかけている。
トンネルの上の線路を電車が通過するたびに古い蛍光灯が明滅した。騒々しい電車の通過音が過ぎ去ったら今度は静けさがトンネル内を支配した。外では勢いの止まない雨の音が聞こえる。何処からか水が漏れているのか、天井から滴る水の音もする。それなのになんだろうこの不気味さは……。
トンネルの際から薄暗い雲空を眺めていると、反対側から雨に濡れた階段を下りてくる足音が聞こえてきた。足音からして二人。僕と同じように雨宿りしに来たんだろうか。それともただ通りかかっただけかな。
その時そんな事を考えていた自分がどれだけ暢気だったんだろうと、ほんとにそう思う。あれだけ言われていたんだ。気をつけろと。一人になるなと。
トンネルの反対側に現れた二人組は傘ではなくバットのようなものを持っていた。木製ではなく金属性の物だ。引きずる音がそれを物語っていた。
僕は身の危険を感じて立ち上がった。
格闘技場で聞いた僕を探している奴らだろうか。いや、そうでなくてもあんな危なそうな人物、黙って通り過ぎてくれるとは限らない。
逃げよう。多少雨に濡れようが絡まれるよりかは幾分マシだ。
そう思って僕は階段に一歩足をかけて足を止めた。
……まじか。
こちら側からも人が複数人降りてきた。しっかりとは見えなかったが確実に二人以上いた。
咄嗟に僕は踵を返した。
返してどうするんだ……。
反対側からヤバそうな二人組が迫っているというのに。
僕は覚悟を決めて、そのまま歩を進めることにした。
どうか、前の二人組がただのチンピラでありますように。
僕は今までの人生で願ったこともない、今の状況じゃないと絶対に願わない願いを心の中でどこかの神様に願った。
平静を装いながら歩いた。今のところ前の二人も普通に歩いているだけだ。そのまま……。
通り過ぎろ。
その願いは儚く散った。
ピアスを幾つも空けた犬人の横を通り過ぎようとした瞬間、そいつの右手が僕の行く手を遮った。
……壁ドンだ。
僕はその腕をくぐって全力で地面を蹴った。逃げろと本能が叫んでいた。
「ニャっ」
地面を蹴り出したのに前に進まなかった。それどころか後ろに尻餅をついていた。
打ち付けた臀部と一緒に尻尾の付け根がやけに痛かった。どうやら尻尾をつかまれて後ろに引っ張られたようだ。
恐る恐る見上げると、へたり込んでいた僕の目の前に五つの影がそびえ立っていた。
湿ったコンクリートの冷たい感触を手のひらで感じながら、僕はその影に見下ろされていた。そのうちの一つがしゃがみ、僕の顔を覗き込んだ。つい先程、僕の尻尾を引っ張って倒したピアスの犬人だ。
「……お前か?チョロチョロ嗅ぎ回っているのは」
顔がよく見えるように、筋張った手が引いていた僕の顎を持ち上げた。
僕は視線を絶対に合わせないようにしていたが、それも限界に達しようとしていた。
「おい、聞いてんのか!」
犬人が振り上げた拳が頬をかすめて、背後のコンクリートでできた壁に突き立てられた。
普通ならそこで壊れるのは拳の方だが、パラパラと音を立てて崩れたのは壁の方だった。
引き抜かれた彼の拳は銀灰色に変色し、その毛一本一本に至るまで硬くなっているのが見て取れた。
かすめた頬から何かが伝う感触がした。
「多分こいつだろう。片耳に黒が入った白色の猫人って奴は。訊いていた通りの外見じゃないか」
「うるせぇ、お前は黙ってろ」
犬人は後ろに立っていた鳥人の男が言った事に牙を剥いた。
鳥人は、そんなことが慣れてしまっている様子で、少し羽を広げただけだった。
「それでどうなんだ?」
「……」
どうなんだ?その質問に対して僕はどう答えたものかと必死に考えていた。
後ろの鳥人の言った事が正しいのであれば、闘技場で猿人の爺さんやルーイの言っていたことは本当なのだろう。この人たちが探しているのは僕で間違い無い。
しかし「はいそうです」と正直に答えて無事に帰れる筈はない。だからと言って否定したところで、そうですか、と解放してくれる保証は一切ない。信じてもらえる可能性は微塵もない。
不幸な事に、今日は財布も携帯電話も持ってきていた。そこには僕に関する情報がしっかりと記載されている。取り上げられたら非常に厄介だ。
僕が返答を渋っていると犬人は僕の額に指を立てた。毛皮に爪が少し食い込んできたのが分かった。
「……五つ数える間に、イエスかノーかで答えろ。顔に縦線なんて入れたくないだろう?」
彼がそう言い終わると爪の食い込みが強くなった。
「五……」
僕の顔に縦線を入れるカウントが始まった。
僕はもとより返事をする気はなかった。ここから無事に帰るにはどうにかして逃げ出す。それしかなかった。
「四……」
動かせる目だけで周りを確認した。後方はトンネルの壁。当然逃げれない。僕を取り囲むのは五人。虚をついてすり抜けることはできるだろうか?前の三人の足の間を抜けることはできても、後ろの二人まで出し抜けるだろうか。そもそも走って逃げきれなければ意味がない。
「三……」
いっそのこと、闘ってこの場で五人を倒して悠々とトンネルを出る。……無理だな。
「二……」
僕は決めた。可能性としては低いが一番高い。
「一……」
僕は息を静かに吸い込んで呼吸を整えた。気づかれないように右手で側溝の泥をつかんだ。
「零」
その言葉を言い終わる直前、犬人の腕が再び音を立てて固まり始めるのが分かった。瞬間的に僕はその腕を左腕で払い除け、右手一杯に掴んだ泥を広範囲に振りまいた。
「ぐっ」
振りまいた泥は目の前にいた犬人をはじめ、後ろの奴らの隙を作る事が出来た。犬人は一歩後ろに引き、かかる泥を防ごうと腕で顔を隠そうとした。
僕はその隙に素早く立ち上がり、大柄な牛人の足元をすり抜けた。濡れた地面に足を取られたが何とか八方ふさがりの場から脱することができた。
あとは後ろを気にせずに全力で走る。
それだけのはずだった。
トンネルの出口まであと少しのところで、また足を取られて転んだ。だが先程とは違って濡れた地面を滑った感覚ではなかった。何かに足をつかまれるような、そんな感覚。
急いで立ち上がろうとするが、そうはできなかった。右足に何かが纏わりついている。恐る恐る自分の足を見ると、右足が灰色の羽毛で覆われていた。
何だこれっ。
僕は必死に手で剥がそうとしたが、まとわりついたその羽毛は細かく散るだけで抜け出せなかった。羽毛は僕の足から伸びて、鳥人の腕とつながっていた。
その鳥人が腕に力を込めたのが分かった。それに応じて僕の右足に纏わりついていた羽の圧力も強くなる。そして掴まれた足を引きずられた。
湿ったコンクリートの上を引きずられながら、何かこの羽の束を打ち切ることのできるものを探した。刃物じゃなくてもいい。角材でも鉄パイプでもいい。
必死になって探したがそんなものは落ちていなかった。資材が置かれていたのは反対方向の出口だ。
コンクリートに爪を立てて抵抗するも、その抵抗は虚しく僕は元居た場所まで引きずり戻された。
顔の毛を泥で汚された犬人が牙をむいて僕を見下ろしていた。彼は僕の胸ぐらを乱暴に掴むと何も言わずに拳を振り下ろした。
鈍い音がした。気がする。
ジンジンとした痛みとともに口の中に鉄の味が広がった。
「逃げ出したってことは、イエスってことでいいんだな?」
犬人が鼻先が付くんじゃないかと思うほど顔を近づけて言った。鼻息の粗さが彼の怒りの程を表していた。彼が何に対して腹を立てているのかは言動からして明らかだった。
「俺の顔に泥を塗りやがって」
どうやら僕が排水溝の泥を引っ掛けた事が余程頭に来ていたらしい。
彼の腕を振りほどこうと抵抗したが敵わなかった。犬人の腕力には猫人の腕力は到底比べ物にならず、ビクともしなかった。
「んぐっ」
胸ぐらをつかむ手が強くなり、もう一度犬人の腕が振り上げられた。
殴られる衝撃に耐えようと歯を食いしばったその時だった。
トンネルの中に何かが倒れる音が響いた。
「なんだ!」
犬人の影と重なって見えなかったが、突然大柄な牛人の男が倒れたらしい。
犬人が振り向くと同時に、唯一点いていた蛍光灯が割れて辺りが急に暗くなった。
電車がトンネルの上を通過し始めた。耳をつんざくような轟音が数秒間続いた。
その時何が起こったのかはよく分からなかった。暗がりと轟音の中に放り出され、目が慣れて見えだした頃には一人の影がこちらに近づいてくるのが分かったのがやっとだった。電車が通過してトンネルの中に静けさが取り戻された時、僕の胸ぐらを掴んでいた犬人はいつの間にか居なくなっていた。
「立て」
「……え?」
僕に近づいてきた影が短く言った。
「聞こえてるだろう、さっさと立て。まだ終わっていない」
その声には聞き覚えがあった。僕はその声に従って立ち上がった。彼の顔を少し下から見上げる。帽子にフード。すらっと伸びたマズルに、鈍く光る緋色の瞳。
「俺は後ろの四人をやる。お前はそっちのをやれ」
彼は僕に鉄パイプを押し付けて、後ろを指差した。
後ろを振り向くとそこにはあの犬人が立ち上がろうとしていた。腹を押さえて口からは涎を垂らしている。
「なんだテメェは!どっから湧いてでやがった?!」
彼は眉間にしわを寄せて怒りを一層強く表していた。
僕は渡された鉄パイプを構えた。
「よく観察しろ。弱点を探れ。あとはいつも通りだ」
耳元で囁かれた声に振り向くと、もうそこには後ろの四人に向かって行く背中が見えただけだった。
再び前に視線を戻すと、すでに犬人がこちらに突進して来ていた。
まっすぐ突き出された拳を僕はパイプで受け流した。すでに彼の腕は硬く変質しているようで、金属同士がぶつかり合う音がした。
僕は終始、繰り出される拳を躱すか受け流す事に徹した。顔面スレスレを拳が通過し、白い毛が散った。
「なんだ?防戦一方か猫ちゃん?」
彼はそう言うと僕の持っていた鉄パイプを掴んで壁の方に押しやられた。
「逃げ場はないぞ」
犬人はパイプを掴んでいた手と反対の腕を振り上げた。
僕は足で思いっきり脛を蹴ろうとしたが、寸前のところでパイプを持っていた手で止められた。
「ぐっ」
蹴り出した足に衝撃が走った。
「残念だったな」
蹴りを止めた腕がそのまま僕の鳩尾を打ち上げた。その衝撃で鉄パイプを手放してしまった。鉄の味がしていた口の中に胃酸がこみ上げて来た。
「さっきの続きと行こうか?」
犬人の腕が再び僕の胸ぐらを掴み、壁に押し付け持ち上げられた。足が地面を離れふらついた。
まともに息ができない。苦しい。……でも、こんな状況でも不思議と頭は冴えていた。
犬人は僕を殴るため片方の腕を硬化させて構えた。
僕はこうなる時を待っていた。こいつの両手がふさがる瞬間を。
サクラが稽古中に教えてくれた、もしもの時の護身術。『蹴り上げる、もしくは突き上げる!』彼女はどこをとは言わなかったが、多分あっているだろう。
僕が持ち上げられている今ならちょうどいい高さにある。
僕は思いっきり、力の限り足を振り上げた。
「っ!!」
眼前にあった犬人の目がカッと見開かれ、音にならない声を漏らした。そして僕の胸ぐらを掴んでいた手も殴ろうとしていた手も、自分の股間を押さえて前かがみにうずくまった。追い打ちに握り持っていた泥を目に向かって投げつけた。
「くそっ、てめぇ、ふざけんなよぉ」
涎を垂らしながら犬人は弱々しく喚いた。
僕は何度か咳をして、やっとの思いで息を吸うことができた。
「……あんたが硬くできるのは、肘から先の腕だけ。そうじゃないですか?」
堪え難い痛みを感じているであろう犬人を横目に、僕は落としたパイプを拾い上げた。
「僕が足で蹴った時、あなたは腕で防いだ。全身どこでも硬化できるなら足を硬化させればいい話だ。わざわざ腕で止める必要はない」
僕は彼のそばに歩み寄った。引きずった鉄パイプがカラカラと音を立てた。
「教えてください。誰に頼まれて人探しをしていたんですか?」
僕はパイプを犬人の顔の前に突き立てた。
きっと彼には見えていないだろうけど、どこから聞こえて来た音かはわかるはずだ。
「……言うわけ、ないだろうが、」
彼は息も絶え絶えに声を絞り出した。
「そうですか」
彼はどうやら口が固いらしい。
この場合どうしたらいいんだろう。小説や漫画で出てくる小悪党みたいに、簡単に喋ってくれたらよかったのに。現実ってやつは全くもってうまくいかない。
喋らない相手を喋らずには、雇い主よりもいい条件出すか、拷問くらいだろうか……。ダメだな、どっちもできない。後者に至っては完全に悪役のすることだ。
とりあえず気絶させよう。
そう思ってパイプを振り上げると同時に、背後から人が投げ飛ばされて来た。二人も。
犬人の上に重なるように投げられた彼らは完全に伸びていた。
投げ飛ばされてきた方を振り返ると、彼は帽子をかぶり直しているところだった。
「……どいつもこいつ喋りやしねぇ」
背後では牛人が倒れ、僕を引きずり込んだ鳥人が壁にもたれ掛かっていた。
「持ち物を調べろ。こいつらが誰なのかわかるかもしれん」
彼は僕の方を見ずに言った。
「……ヒロ・ドーベル、さん、ですか?」
「……」
僕の質問は静まり返ったトンネルの空気に吸い込まれたのか、彼は何も答えずにうなだれている鳥人を調べ始めた。
「……」
僕も仕方なく、倒れている牛人の持ち物を調べに入った。それはすぐに見つかった。ズボンの後ろポッケに入っていた革製の財布。だいたいこの中に個人情報は詰まっているだろう。
牛革かな。なんて思いながら立ち上がるとすぐ後ろで声がした。
「……まずいな」
フードをかぶり直しながら彼はトンネルの出口を見上げていた。
「?何がですか」
僕も何がまずいのか気になって近寄って聞いてみた。
「……聞こえないのか、その耳は飾りか?」
僕はトゲのある言い方にムッとしたが、堪えて外の音に耳を立てた。
大粒の雨の音の向こうに、パトカーのようなサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
「……パトカーの音?」
その問いかけも彼に無視された。
「誰かが通報したんでしょうか?良かったじゃないですか、警察にあいつらを取り調べてもらいましょうよ。そしたら何かわかるかも……」
今度は僕が全部言い終わる前に鋭い眼光がこちらに向けられた。初めて目があった気がした。
「馬鹿かお前は。俺は警察からも追われている。それに今は警察は信用できない」
彼は少しイラついたように犬歯をちらつかせた。
「警察がうろついていないか見て来い」
僕は服を掴まれて階段を上っていくように促された。
「……」
本当にユウの双子なのか?
僕の中に疑問が浮かんだ。ここまで性格に差が出るなんて有り得るのだろうか。
僕は渋々雨の降る中、地上を確認した。
警察はおろか、人っ子一人いない。
「誰もいませんよー」
振り返って言ったが返事は返ってこない。階段を上まで登り切ってしまうと一番下までは見えなかった。
……またか。
返事くらいしてもいいだろう、と仕方なく今上がってきたばかりの階段を降りた。
まったく、いい大人なんだから会話のキャッチボールくらいしっかりしてもらいたい。そう思いながら悠長に階段を降りていくと、壁に寄りかかって倒れ込んでいる姿が目に入った。
僕は一瞬足を止めた。
なんで?
はじめに疑問が浮かんだ。
あいつらの中にまだ動ける奴がいて不意打ちでもしたんだろうか。
僕は恐る恐るトンネルの中を覗き込んだが、倒れている人数は変わらず位置も動いていなかった。
じゃあなんで倒れてるんだ。
僕は急いで駆け寄って深くかぶっているフードを退けた。
「……!」
彼は目を半開きにさせて呼吸を荒げていた。
一瞬、噛みつかれるんじゃないかと躊躇われたが額にそっと手を添えた。
「……熱い」
彼はかなりの高熱を出していた。半開きになっていた目がそっと閉じられた。
僕はすぐに、かなりまずい状態だと判断した。多分この人は動き回っていい状態じゃない。
ポケットから僕の携帯電話を取り出し、救急車を呼ぼうと三桁の番号を押して一度取り消した。
ついさっき言われた言葉が頭をよぎった。
警察にも追われている。
そうだとしたら普通に救急車を呼んでしまっては記録に残ってしまう。もしかしたら病院側から情報が漏れてしまうかもしれない。
僕は電話帳に念のためにと思って登録しておいた電話番号にダイヤルした。
頼む、出てくれ。
その願いが通じたのかどうなのか、数回コールした後、電話が通じた。
「……なんだ少年、忘れ物でも――」
電話口からいつも通りの眠たそうな声が聞こえてきた。