2話:少女の手紙と波の足跡
まだ幼い頃から、私は外国というものに強い憧れを抱いていた。まるで大航海時代の船乗りのように、夢にも似た輝かしい何かを水平線の彼方に見出していた。
海の向こうに広がる、自分達とは違う異国の暮らし。高校生になって、世の中の現実というものを知った後でもその思いは変わらなかった。
そしてついには大学二年生の夏、オーストラリアへの長期留学が決まる。狭いアパートの部屋で、通知を受け取った時には飛び上がってしまいそうなくらいに喜んだものだった。
それほどまでに外国へ恋い焦がれていた私が、手紙にあった少女の言葉に共感出来たのは、ある意味当然の事だったのだろう。
“広い世界を旅してみたい”
そのボトルメールと私が出会ったのは、一年間の留学の、丁度半分が過ぎた頃だった。
※
オーストラリア南東の都市ブリスベンから、北へ車へ数時間ほど行った所にそのビーチはある。
この時期は夜になると、海ガメの産卵が見られることで有名だ。波の音だけが響く砂浜を、私とティムは二人並んで歩いている。
ティムというのは、私が留学先の大学で出会った友達だ。彼は日本語を専攻しており、その由縁で私と知り合ってそのままこうして仲良くなっている。
背は私より少し高いくらい。だからこうして並んで歩いると、丁度彼の口が私の目線の位置にある。
「しずかですね」
彼がそう言って、私は無言で頷いた。
私と彼の会話にはルールがある。それは、互いに相手の言葉を使って話しかけるという事。私は英語を使い、ティムは日本語を使うといった具合だ。
そうしておけば、二人とも公平に話せる。もし、どちらかの言葉に変な所があっても、聞く方が補ってくれるからだ。
気を使っているのか、それともそれしか知らないのか。今だに彼の言葉は敬語で、それがまたくすぐったい。
「Can we see it?」
だから今の言葉は、私が言ったものになる。
この時期は丁度海ガメの産卵期だ。今夜もきっと産卵が行われるだろうし、私たちもそれを見に来ている。
しかし上陸して来た海ガメはとても警戒心が強い。産卵に入るまでには、入念に安全をチェックする。よく、海ガメが産卵のために穴を掘っている映像があるのだが、あれを実際に観察しようと思っても海ガメに逃げられてしまって上手くいかないのがほとんどだ。
観察できるのは唯一。卵を生んでいる、まさにその時間だけ。
砂浜を歩いていると、不意にティムの手が私の肩に触れる。
「ミユキさん」
名前を呼ばれて目を開けた。彼が先の方を指差す。私達がいるあたりから十メートル程離れた波打ち際に、一匹の海ガメが佇んでいた。体の後ろ半分を砂にうずめて、どこか荘厳な雰囲気を漂わせている。
「It's time.」
「はい」
近づいて写真を撮ったりなんかしない。遠くからそっと、何も言わずにその光景を見守った。
海ガメは産卵する時涙を流すという。それを科学的な観点から説明すれば、乾燥を防ぐための粘液ということになるのだろう。
でもそれでは、どこか無機質に感じてしまうから。私はそれを、我が子への愛情が込められた涙だと思うことにしている。
「I won't forget this」
そう呟いて何気なく隣のティムに寄り掛かると、彼は私の肩に腕を回してきた。
その腕は思った以上に逞しい。ちょっとだけドキッとする。
私が小さく身をよじれば、彼は少し慌てたようになった。
「っ・・ごめんなさい。いやでしたか」
「......No」
誤解しないでいただきたい。
ティムと私は“友達”だ。少なくとも、今はまだ。
※
海ガメが波間へと帰ってから、二人で産卵が行われていた所まで行った。
今はもう上に砂が被せられていて、下に卵が隠されているなんて、言われないと分かりっこないだろう。
それに目が留まったのは、その時だった。
「This is・・・・」
砂に半分埋まったそれを、私は引っ張り出す。
「それはなんですか?」と、ティムが言った。
「Turtles left behind?」
汚れたボトル。と言うのが一番的確だろう。
表面の茶色っぽい染みは、それが長い間風雨に当たってきたことを意味している。空っぽかと思ったが、なんと中身があった。
蓋を開けて、取り出してみる。手紙が一通と、写真が一枚。これで全部のようだ。
「Letter....and a picture」
「見てみましょう」
ティムが写真を手に取る。そこには二人の男女が映っていて、こちらに向かって微笑みかけていた。
随分と前に撮られたものなのだろう。その景色は色褪せている。だがその中に切り取られた彼らの思いは、まだまだ色濃く残っていた。二人は本当に幸せそうだ。
ティムが私に手渡してきたので、じっくりと見てみる。
恋人同士だろうか。
そんな事を考えて、自然と頬が緩む。喜びは感染すると言うが、本当にその通りだ。写真の二人を見ていると、こっちまでほんわかした気持ちになってくる。
「ミユキさん、これをみてください」
ボトルに入っていたもう一つの物、手紙。
所々掠れているそれを、ティムと二人で読み進める。文章は日本語で書かれていた。その事がちょっとだけ嬉しい。
読んでいくと、こんな一文があった。
『私には、一つの夢があります。それはこの広い世界を旅することです』
そう書き綴った少女の思いは、私にもよく分かる。私も小さい頃、海の向こうに夢と希望を思い描いていた。そして今、こうしてその夢を叶えている。
『瓶は大きな船。この手紙は私自身』
この一節で少し笑ってしまった。ボトルメールとボトルシップをかけているのだとしたら、随分と頭の切れる子だと思う。
『これを読んでいる貴方に、一つだけお願いがあります』
何だろうか。
『私と一緒に旅をしましょう』
「へえ・・・!」
手紙を読み終えた私は、思わず日本語でそう呟いてしまった。
行く先は完全な波任せ。ボトル一つで海原を進む旅。それはまるで、子供の頃に読んだ冒険小説のようで。たった一通の手紙に込められた少女の思いに、私は胸を打たれた。
仲間に加わりたい。自然とそんな感情が湧き起こる。
ティムにその事を話すと、彼もまた同じ思いだった。曰く、男は何歳になっても冒険の二文字に憧れるらしい。
何となく、馬に乗ってオーストラリアの荒野を颯爽と駆けるティムの姿が思い浮かぶ。きっとカッコいいだろうなと、心の中で呟いた。
※
二人で悩みに悩んだ末、私達はボトルの中に二枚の五セント硬貨を入れた。コインの裏面にはハリモグラの図。表ではエリザベス二世が微笑んでいる。
それは、ガラスで出来たこの小さな船が、オーストラリアを訪れたという確かな証だ。
二枚にしたのは、もちろんティムの分と私の分。これから『私達』は、手紙の少女や写真の男女と共に海原へと漕ぎだして行く。ボトルの中で、離れ離れになることもなく。
「・・・これで、ずっと一緒ね」
聞こえないように呟いたつもりだったが、ティムの耳に入ってしまったらしい。蓋を閉めながら、彼は不思議そうに訊いて来た。
「何か言いましたか」
肘で脇腹を突っついてから、答える。
「フフ、I won't tell you」
するとティムは笑った。
私も釣られて笑った。
※
放り投げたボトルメールは、波間に見え隠れしながら沖へ沖へと流されていく。私たちは何も言わずに、波打ち際からその光景を見送っていた。次はどこへ行くのかと、確率の未来に想いを馳せる。
「Best wishes to them.」
ティムが唄うように口ずさんだ。それは旅立つ者に送る餞のフレーズ。日本語で訳せば、「幸運を」ぐらいの意味になるが、ここでは野暮というものだろう。
ここはオーストラリア。だから見送りは、英語で行うのがふさわしい。
彼の発音を真似て、出来る限りネイティブっぽく。私は言った。
ベストウィッシュ。
これからの船旅が、どうか素晴らしいものでありますように。