第3章 遠き理想 -5-
「……さーて。わたしはそろそろひと仕事しないとねー」
「お前、後で覚えとけよ」
「真由美ちゃん、顔が怖いよ? そんなに怒ってばっかりだとわたしよりもずっと早くおばさんになっちゃうぞ?」
「よく言う。お前の方こそストレスでしわが増えるんじゃないか?」
くくっ、と笑いながら永井は笑う。
「失礼な。わたしは白衣のエンジェルだよ? エンジェルはストレスとかしわとかたるみとかむくみとか体重とかそんなネガティブなものとは無縁な存在なんだよ」
「そうか。疲れてると思って飲みに誘おうかと思ったがやめておこう」
「やばいちょー疲れてる。もう明日には死にそうな勢いで疲れてる。だからおごって?」
わざとらしく眼がしらを抑えて肩を叩き出した浦田だが、長年の付き合いの永井がそんな冗談にいちいち乗っかってくれるはずがない。
「誰がおごるといった。割り勘に決まってるだろ、割り勘に」
「ちぇー。まーちゃんのケチー」
「いいからさっさと仕事を済ませてこい。――あと次にその名前で呼んだら絶交だぞ」
「うん。――はぁ、綺麗なおねーさん役を務めるのも安くないなぁ」
浦田はそう言いながら、電話の子機を手に取った。
「だったらやめればいい。もとから東城にそこまで肩入れする理由はないだろう?」
「でもほっとけないじゃん? あんなに真っ直ぐに可愛い男の子は他にいないよ?」
「……あいつが二十歳なる頃にはお前はほぼ三十路だぞ?」
浦田の言葉から何を感じ取ったのか、永井は顔を引きつらせていた。
「べ、別に大輝君を育てたり誘導したり恩を売ったりして、理想の男に仕立て上げようとかそんなことは考えてないんだからね!」
「全然否定になってないように感じるんだが……」
永井の深いため息に、浦田はごほんごほんとわざとらしく咳払いしてから内線を繋げた。
「院長ですか? 大輝君の件なんですが……」
相手は院長――東城の保護者だ。
つまり、そもそも院長が休みということ自体が嘘なのだ。
それでもそう言って事後処理まで済ませてくれる辺りが、浦田の優しさだ。
――もっとも、院長に対してこんなプライベートな通話をかける時点でかなり損な役回りであることは自覚しているし、それを無償で行うほどは優しくはないので、いずれ何かの形で返済してもらう気ではいるが。
『大輝くんが来たのは婦長から聞いたよ。勝手に君が手当てをしたこともね、浦田くん』
「いやぁ、別に白衣を着てたわけじゃないですしそれはほら、近所の綺麗なお姉さんが転んだ子供の手当てをハンカチでしてあげる程度の認識で……」
「自分で綺麗とか言うな。あともうすぐお姉さんなんて歳でもなくなるぞ」
永井のツッコミを涙目の睨みで一蹴する浦田の電話の向こうで、院長は笑いを堪えているらしく震える声で返事をしていた。
『まぁ僕としては構わないしお礼を言っておくよ。でも、他の人に見られて細かい話になると色々まずいかもしれないから、注意は後で婦長からしてもらうけど』
「……院長、わたし泣いちゃいますよ?」
『はいはい、女の武器は涙らしいから取っといた方がいいよ。――で、何か用かな?』
「大輝くんが色々やってること、追求しないでおいてあげてほしいなぁ、とか、そういう感じのあれでして……」
『するわけないだろう?』
電話の向こうで、院長は平然と答えた。
「――え? そんなにあっさりですか?」
『もちろん。だって、追求しなきゃいけないことなんて今までにも一杯あるしね。そもそも彼が記憶を失くした直後のことだって、医者の僕から見ればおかしなことだらけだろう』
東城は能力者を開発する研究所に閉じ込められていた。
そこでは演算を阻害する催眠ガスなどが常時撒かれていたり、能力の演算能力拡張に薬物を用いたりで、血液検査をすれば一般的にはあり得ない反応などすぐに出る。
そもそも記憶を失くした直後にしても、怪我で死ぬことがないように肉体の傷は全て神戸が治療してしまっているが、東城の衣服はボロボロのままだった。その矛盾だけでも、疑問を抱くには十分だろう。
『でも僕は気にしない。大輝くんはこの二カ月で何かあったみたいだし、僕の疑問のいくつかも彼は答えを得ているかもしれない。記憶がない、ということも乗り越えているように僕には映っているよ』
優しく、院長は言った。
『だから僕のすることは、彼が帰って来る場所を用意することだよ。かつての彼がどうだったかは知らないけれど、今の彼の居場所は僕がいて、君がいて、永井先生がいて、白川くんや四ノ宮くんのようなクラスメートがいるこの場所だ。だから、彼が笑って帰って来られる彼の居場所を護ること。それが僕の“親”としての役目だよ』
電話の向こうで語られた院長の声は、優しさにだけ満ちていた。その発言は本当に院長の心の底から出てきたことが分かるようだった。
「おぉ……。院長カッコよすぎます……。泣いちゃいそうです。惚れちゃいそうです」
『それは嬉しいね。まぁ、だから大輝くんの教育で永井先生に呼び出されるのなら僕は喜んで学校に行くとしよう』
横に永井がいるのを知ってか知らでか、院長は言う。
『大輝くんは一年も僕に迷惑をかけることをずっと嫌がって気遣ってきたからね。こういう迷惑をかけられてこそ、家族っていう感じがするだろう?』
「それは私の仕事がかさんでいるような気がするんだ……」
横で聞こえていた永井先生はがっくりとうなだれた。
「じゃ、大輝くんのことは不問に付してくれる感じですか?」
『構わないよ。それが僕のポリシーだし、そこに大輝くんを気遣ってくれる人が頼んでくれた以上、無下に断る理由はどこにもないね』
院長は笑いながら言った。
『さて、じゃあ大輝くんが笑って帰られるように、僕は家で待つとしようかな』
「え? 院長、仕事は?」
『今日は診察も手術もなく書類だけだよ』
「いや、それをどうするかというお話でして――」
『副院長に頼んどいてね。君のお願いを聞いてあげるんだから、それくらいはよろしく』
「いや、そんなことをこんなわたしみたいな下っ端ナースの身で伝達するとすんごい怒鳴られるんですけど……。実際、前にすんごい怒られて泣きそうになったりとか――」
『世の中無償でお願いは叶わないのさ。ギブアンドテイクは資本主義の基本だよ』
ぷつり、と通話が切れた。
受話器の向こうからはツー、ツー、と空しい音しか聞こえない。
「……あの院長、すっごいヒドイ。これ、パワハラだよきっと。わたし鬱になっちゃうよ」
「自業自得だな。日ごろの行いが悪いからだろう? ほら、婦長が睨んでる」
永井はため息交じりに言って、渋々だが東城の説教は諦めて帰ることにした。あとには、さまざまな方面で厄介事だけが残っている浦田だけが取り残された。
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