姉と凶眼少女
9話目投稿。話を上手いこと区切って投稿するのが、けっこう難しいです。
なんでこんな事になったんだろう。
悠人は茶虎の猫が描かれた、青いエプロンを着けながら、まだ整理のつかない頭をどうにか宥めようとしていた。だができず、困惑した表情で辺りを見渡す。
いつもの見慣れたリビングがあった。姉の始めてのボーナスで買った、40インチの液晶テレビがまず目を引く。ブルーレイレコーダーも完備されており、デザイナーという職業柄か、こういったものに姉は妥協しない。キッチンにある食器も良質のものばかりで、特に姉が趣味で集めている、ガラスのコップやグラスやらは、悠人も数を把握し切れていない。
昔からあるソファーはよく父と一緒に座って、まだブラウン管だったテレビを見ていたが、今は誰も座っていない。
食卓である木製のテーブルに手を掛け、菜樹が椅子に座っていた。テーブルには清潔なクロスが掛けられていて、父と母が仲良く並んだ写真が飾られている。菜樹はその写真を優しく持って、対面の人物に見せていた。
その対面の人物こそが、悠人を混乱させている人だった。
亡くなった悠人の両親の話を聞きながら、眉を下げている少女。しかしその威圧的な凶眼のせいで、悼むどころかてめえも両親の元へ送ってやろうかと睨んでる風にしか見えない。
でも本当は誠実で心優しい、昨日知り合ったばかりで、ついさっき好きになった女の子。
相田蕗が、何故か家のリビングに居て、これから作る夕食を振る舞うことになっていた。
原因はわかっている。今そんな気にしなくていいのよと綺麗に笑っている菜樹が、いきなりの夕食の誘いに当惑している蕗を、半ば拉致するように連れてきたせいだ。
(な、なんでいきなり家に呼んでるんだよぅ……)
悠人だって好きな子が家に来て、嬉しくないという訳ではない。むしろ小躍りしたいほど喜んでいる。なのにユートーヘタレ族の新しい舞踊を披露しないのは、あまりの急展開に頭が追いついていないからだ。
(もうちょっと、こう、落ち着いた気持ちの時に来てもらえたら、もっと上手く出来たのに……)
蕗を夕食に誘ってから、悠人はまだまともな会話をしていない。混乱した頭で上手にもてなしてみろというのも無茶な話だ。その分菜樹が蕗と雑談し、場を繋いでくれているのだが、なんだか少し妬ましい。
「悠人、お腹も空いたし早くご飯作ってよ」
恨みがましい目で見ていると、菜樹が急かしてきた。
「うるさいなあ。わかってるよ」
「なに貴方。もしかして、さっき蕗ちゃんが裾を掴んだのを、私が手を振ってたのを知らせる為だったってこと、まだ拗ねているの?」
「ち、ちがっ、そうじゃないよ! そうじゃないから!」
「悠人って小さい男ねえ。そう思わない、蕗ちゃん?」
「えっ? あの、えと……」
どういえば良いかわからず、蕗は言葉を濁した。
ていうかお姉ちゃん、いつの間に下の名前をちゃん付けで呼んでるんだ。僕だってまだ名字でしか呼んでいないのに。
そんな感じに一層恨めがましい視線を送っていたが、鉄壁ガードの笑顔に弾かれ、悠人はすごすごとキッチンに向かう。キッチンの手前で二人を振り返ったが、「早くする!」と菜樹に叱責され、慌てて入っていった。
こうして必然的にリビングには菜樹と蕗、二人だけが残されることになった。
キッチンからは料理器具を出す音や、野菜を水洗する音などがしばらく続いたが、二分も立たない内にトントンという包丁で食材を切る音や、炒める音が鳴り始めた。そこで菜樹は他愛のない話をするのをやめた。
菜樹には、どうしても悠人に邪魔されずに、一対一で蕗に訊きたいことがあった。
料理中の悠人は、会話程度の雑音が聞こえないくらいに集中する。邪魔されたくなければ、今しかチャンスがない。
菜樹は好奇心をその目に隠せずに、蕗に尋ねた。
「ねえ、蕗ちゃん。貴女たちってどうやって知り合って、友達になったの?」
「長塚君が友達と思っていてくれてるのか、わからないですけど……」
「そんなことないわよ。悠人もちゃんと貴女のこと想っていてくれてるわ。必要以上に、かもしれないけど」
必要以上という意味がわからず、小首を傾げながらも、蕗は悠人と出会った経緯と、モデルをしてもらっている事を説明した。最初は相づちを打つだけだった菜樹だが、次第に口元に妖しい笑みが浮かんできた。
「――という訳なんです。……済みません。いくら償いをしたいといわれても、モデルを頼むなんて、ずうずうしかったですよね」
蕗はその笑みに気付かず、ぺこりと頭を下げる。
「ううん、大丈夫。悠人はそんなこと気にしてないから。初めは嫌がってかもしれないけど、今は絶対、嫌がってなんかいないから。むしろ進んでやりたいと思っているはずよ」
「そうでしょうか?」
「ええ。姉である私が保証します」
そう菜樹が言い切ると、その凶眼のせいでわかりにくいが、蕗が安堵の表情で平たい胸を撫で下ろしていた。
(なるほど……どうやら蕗ちゃんは悠人のことを悪く思っていないようね)
まあ悪く思っていたらモデルなんか頼まないかと思いながらも、さてどうしたものかと考える。対応を間違えて、あの女の二の舞なんてまっぴらごめんだった。
今のところ悪い印象はないが、蕗の人柄をもっとよく知りたい。でも雑談程度の会話など、高が知れている。
どうしたものかと視線を蕗から外すと、蕗の鞄が目に入った。もしかすると参考になるかもしれない。そう考えた菜樹は、蕗に視線を戻し尋ねた。
「ねえ、蕗ちゃん。確か今日、悠人の帰りが遅くなったのって、絵のモデルを頼んだからよね」
「あ、はい。……申し訳ありません、心配をおかけして」
「そんなこと気にしなくていいわよ。だいたいあの子は下校時刻ぎりぎりになって帰ってくるのが常だったし、出迎えに行ったのは単にきまぐれだったんだから。それに、そこら辺の普通の人間が、悠人にどうこう出来るわけないしね」
「確かに、そうですね」
蕗は悠人の容姿を、菜樹はそれに加え身体能力を思い浮かべる。
「まあ、本人は全く気付いてないのだけどね」
菜樹の苦笑いに、蕗はどんな表情をすればいいかわからないのか、とても困っているように思えない、鬼の首でもとれそうな恐ろしい表情で頷いた。
「本当に、困ったヘタレの弟だわ」
しかし蕗の凶眼に全く怯まずに、菜樹はため息を吐いた。蕗をちゃん付けで呼んでいる分、宵一郎よりも強者かもしれない。
そんな菜樹の言葉を聞き、蕗は今にも襲い掛からんような武者震いをした。実際は何かいいたい事があるが、遠慮していえないだけなのだが。
「っと、話が逸れたわね。私が聞きたかったのは、その絵を今持っているかどうかなの。もし持っているのなら、見せてもらえない? あっ、もちろん嫌ならいいわ」
そういいながらも、懇願の色を隠せないでいた。
「い、いえ。私の拙い絵でよかったら」
その妙な迫力に押されたのか、蕗は鈴の音の声をどもらせながらも、鞄を開ける。とても大事にしているのがわかるくらい、優しい手つきでスケッチブックを取り出した。
その時、僅かばかり蕗の表情が綻んだのを、菜樹は見逃さなかった。
「これが、今日描いた長塚君の絵です」
まず初めに見せたのは、悠人が目をつむりながら口を半開きにした、一見情けない男にしか見えないものだ。しかし描き手が蕗でモデルが悠人であるから、一時の安らぎを堪能していると好意的に解釈できる。
蕗の外見に反し、どこか透明感のある優しいタッチで描かれた絵は、少しは菜樹の心を揺さぶったが、この絵だけでは蕗の内面を理解することはできなかった。残念だがいい絵が見られただけ、よしとすることにしよう。そう思いながら、蕗の絵を褒める。
「へえ。上手いじゃない。でもこの表情、もしかしなくても寝てるわね。まったく、やるからにはきちんとモデルをこなすべきなのに、姉として情けないわ」
菜樹は額に手を当て、ため息をついて「ごめんなさいね、こんな弟で」と謝った。そのため息に落胆が混じっていることは、本人しかわからない。
「いえ、これは……その、私が悪いんです」
「え、どういうこと?」
「急に倒れた長塚君を介抱していたら、つい衝動を抑えきれず――」
「襲ったのね!」
「ち、違います! 寝顔を描いてしまっただけです!」
菜樹のトンデモ発言に、蕗はおんどりゃあタマとんぞお! というヤクザそのものの目付きで菜樹を睨んだ。いや、本当は睨んでいるつもりではないが。
「あはは、ごめんなさい。つい先走っ――じゃなくて、からかいたくなっちゃって」
蕗相手に真っ赤になっちゃって可愛いと思って、つい本音が漏れそうになった菜樹は、本当に強者だった。
「……いえ、いいです」
初対面でここまでフレンドリーな人と会ったことはなかったのだろう。すでに気力を消耗している蕗は、力なく呟いた。
蕗はそれでもなんとか気力を振り絞り、今までまともに合わせなかった顔を、正面から見据えた。一転、真剣な表情で尋ねる。
「一つ尋ねたいのですが」
「いいわよ。答えられるものなら、なんでも答えてあげる」
菜樹は緩んだ顔を隠すことなく、その凶眼を真正面から受ける。慣れない自分への対応に一瞬怯んだが、蕗は一度口を引き締めてから開いた。
「長塚君、なにか持病があるのでしょうか?」
「え?」
予期せぬ質問に、菜樹が間の抜けた声で返す。
「彼、私と話している最中に急に倒れたんです」
それはきっと人と話すのに緊張しすぎたとか、情けない理由なんだろうと、ほぼ正鵠を射た事を思い浮かべ、菜樹は力なく笑った。
「笑いごとではありません」
蕗は珍しく本当に少し怒った鬼神の表情で、菜樹を見据えた。
「彼の病気はいったいなんなのですか?」
いつのまにか懸念を確信に変え、本心から心配している蕗に、菜樹は別の意味で頬を緩ませ、その杞憂を晴らす。
「まあ、ある意味病気だけど、特に害はないから気にしないで」
「でも、害がなくても、病気なんですよね」
「心配しなくても大丈夫よ。まあ、一生直らないかもしれないけど」
「な、治らないって、不治の病ですか?」
「いや漢字が違うから」
鈴の音の声が乱れ、動揺を隠せない蕗に、菜樹は苦笑して頬を掻いた。
「他にも突然奇声を発したり、奇妙な行動をとっていました」
「うーん、それも病気の一種なんだけど、大丈夫。生きるだけなら、なんの心配もないから。安心して」
あまり納得した様子ではなかったが、蕗は頷いてみせた。蕗は笑顔で答える。
(でも、本当に生きるだけなら保証できるだけで、生きていくのに障害がない訳じゃないのだけれど)
悠人の病はそう簡単に、癒えるものではないのだから。
(それで、貴女は悠人の病を治せる人間なのかしら?)
蕗に投げかけているようで、実際は自問である問いかけ。
しかし、答えは見つからず、見せてもらった絵も回答には足りていなかった。
彼女は本当に、悠人に相応しいのだろうか?
意地でもその答えに辿り着きたい。菜樹は未練がましく、眠った悠人のページを半ばめくるように、丹念に見直す。そのおかげで、次のページにも絵が描かれていることに気付いた。
「もしかして今日描いたのって、この絵だけじゃないの?」
「はい。もう一枚あります」
「見てもいいかしら」
「どうぞ」
承諾を受けて、菜樹はゆっくりとページを捲った。少しばかりの期待はあったが、おそらく見極める手がかりは得られないだろう。だが蕗の絵は個人的に気に入ったので、蕗を知るヒントが見つからなくても構わないと思った。
だが、蕗を甘く見た考えは、その絵の全貌を見た途端に粉砕される。
悠人がそこにいた。
いや、悠人がモデルなので、悠人が描かれているのは当たり前なのだが、そういうことではない。
まるで悠人の存在を丸ごと切り取って、白紙に写し取った。そんな錯覚がするほど、圧倒的な存在感がその絵にはあった。絵の具すら使っていない、鉛筆のみで描かれたものであるのに。
もちろん悠人の毛髪一本まで、高性能のカメラで撮った写真のような精密さはない。粗さはあるし、ぼかした箇所もある。姿形の問題ではないのだ。
これは、いわば悠人という概念を切り取ったような、そんな絵だった。
悠人の内面を描いた、その心を描き出そうとした、そんな絵。
「まだ、足りません」
蕗に声を掛けられたと気付くのに、数秒を要した。それほどまでに、菜樹は蕗の絵に心を奪われていた。
「……えっ。足りませんって、なにが?」
衝撃が抜け切らない頭で、菜樹はその意味を問い返す。
「なにが、と問われるとはっきりといえないのですが……」
蕗も核とした答えを持っていないのか、探すように言葉を濁す。
「長塚君はこの程度のものじゃない。大事ななにかが、この絵には抜けていると思うんです。それがなにかは、私にもまだ掴めていないのですが、この絵がまだ不完全だという確信はあります。だから、私はそれが一体なんなのか、知りたい。長塚君の心を知りたいんです」
言葉数が少ない蕗にしては、珍しく長いこと語った。それは蕗が悠人の全てを描き出したいという、熱意の表れだった。
菜樹はなにもいわない。
固い表情で口を閉ざしている菜樹に、蕗は自分がまずいことをいったかと思い、体を震わせ下を向いた。
「すみません、勝手なことをいってしまって。ただの私の変な勘違いですよね」
不安そうな蕗に、それでも菜樹はなにもいわない。いや、いえなかった。
とうとう出会えた。悠人を任せられる人が。
そのことに大きな喜びを感じながらも、一抹の苦さが確かにあった。自分の手で成し遂げたいことを、他人の手に委ねなければならない苦さが。
菜樹では悠人を変えることができないのはわかっている。それでも悔しいものは悔しい。
だからこそ、その託すべき人間がとうとう現れたことに、菜樹はなにもいえなかった。
ふと苦笑が漏れた。それは諦めと、仕方がないなという、後ろ向きな納得が混じった、そんな笑みだった。
「ねえ、蕗ちゃん。昔話聞きたくない?」
「昔話、ですか?」
ずっと黙っていた菜樹の唐突な話に、蕗は訳もわからず瞬いた。菜樹はまた、しかし今度は感傷が混じった苦笑を見せた。
「台所でご飯作っている、情けなくなっちゃった男の子の昔話」
「聞きたいです」
間髪いれずに返ってきた返事に、苦笑が本当の笑みに変わる。
「じゃあ、そうねえ。どこから話そうかしら」
菜樹はぽつぽつと、悠人が何故今の悠人に変わってしまったのか、その理由を語り始めた。
たぶん幼なじみより、姉ちゃんの方が出番が若干多いです。
対抗馬なのに、不憫な歌詠……。