【春】 ―王太子編③―
【2026/3/26】 一話が長すぎるとの気づきを得たため、読みやすいよう分割いたしました。
次の公務から、ツキには必ず酔い止めの薬草を飲ませることとし、兜をかぶることも禁止した。また吐瀉物を浴びせられてはたまらない。
私は視察先には常にツキを伴い、明媚な国の名所を見せてまわった。貴族との狩りに同行させた際には、ツキは背筋をぴんと伸ばした美しい姿勢で弓を引き、一発で獲物を仕留めてみせた。訊けばこれも故郷で身につけた技能だという。先方の貴族も、ツキをいたく気に入ったようだった。
そうして早くも、ツキが私の専属になってからひと月が過ぎようとしていた。
「五月祭り、ですか?」
馬車の向かい側に座るツキが、可愛らしく小首をかしげた。兜こそかぶっていないが、今日もいつもの鎧姿だ。私が贈った装備品の数々は一度も身につけているところを目にしていないが、まあ、気に入るまでいくらでも作らせればいい。
「ああ。夏の豊穣を願って毎年この日におこなわれる、伝統的な祭りなんだよ」
ツキはいつになく興味深そうに聞いている。どうやら祭りが好きらしい。
「そこで私が国民を代表して、豊穣の女神に供物をささげるんだ」
本来ならばこんな役目は第三、第四王子あたりに任せておいてよいのだが、ツキに祭りを見せてやろうとわざわざ出向いたのだ。きっと国民も喜ぶだろう。私がいかに民に慕われているかをツキに見知させる、いい機会だ。
「さあ、そろそろ着くよ」
ツキはその紅い瞳をきらきら輝かせて、窓の外を見やった。近頃では馬車での移動にもだいぶ慣れ、酔い止めの薬草も必要なくなりつつあるようだ。
日が暮れかかった祭りの会場にはそこここにかがり火が焚かれ、伝統的な飾りつけがほどこされて、非日常的な空気が漂う。馬車から降りたツキが、わあ、と感嘆の声をあげた。
「殿下、あの柱はなんなのですか?」
飾りを指差してツキが訊く。その顔にみずみずしい笑顔がはじける。これだけで、出張った甲斐があったというものだ。
私たちがぞろぞろと護衛に囲まれて姿を表すと、会場に集まった民がざわつきだした。女神へのささげ物は夜になってからなので、まだもう少し間がある。
「おまえたち、少しうしろに下がっていなさい」
私は前方で警護を固める護衛たちに声をかけた。
「ですが、殿下……」
ザンギエフが懸念の表情を浮かべる。
「おまえのような図体のでかいのがいたら、民が怖がるだろう」
ザンギエフは腑に落ちない顔をしながらも「かしこまりました」と後方に下がり、ほかの護衛たちも続く。
「民との交流も、大事な仕事だからな」
私はすぐ横に控えるツキに向かって、こっそりと片目をつぶった。ツキは先ほどとはうってかわって、私に射抜くような鋭い眼差しを向け、こくりとうなずいた。
「王太子様だ!」
「アルベール王太子殿下!」
私の姿を認めた民が、わっと歓声をあげた。私は軽く手をあげながら、その人だかりに近づいた。次々に握手を求められ、それに応える。
「息子がさきの戦から帰ってこれたのも、王太子様のおかげです」
「あの橋ができてから、隣町との行き来がずいぶん楽になりましたよ」
民が口々に感謝の辞を述べる。ツキは聞いていただろうか? 横目でちらとツキのほうを見やると、ツキは引き締まった表情で左右を見回していたが、私と目が合うと少し頬をゆるめ、親指をぐっと立てた。
なんの仕草かはわからないが、賛辞を贈ってくれたのだろうか。心がじわりと震えた。ツキ、おまえのためなら、私はどんなに勝ち目のない戦にも臨もう――
その時、近くのトウヒの木のてっぺんにとまった一羽のカラスが、カア、とひとつ鳴いた。夕闇を涼やかに通りすぎていた風が、ぴたりとやんだ。
右手に杖をついた腰の曲がった老婆が、左手で手刀を切るようにして人だかりのなかをかき分け、よたよたと私に近づいてきた。
「ありがたや、ありがたや。王太子様のお手を握れる日がくるなんて、よい冥土の土産になります」
老婆は杖のないほうの左手で私の手を握り、額の前で拝むような動作をした。
「そのようなことを言わずに、長生きしておくれ」
そう言って次の民に手を差し伸べようとしたが、老婆は私の手を強く握って離さない。
「ありがたや……」
目の前の小さな老婆のものとは思えない強い力に、背筋がすっと冷たくなった。膿んだように濡れた老婆の瞳がすばやく動き、ぬらりと光った。
「冥土の土産に、もうひとつ」
風もないのに老婆の黒いローブがひるがえる。老婆の右手に握られた古めかしい杖の先が、ばちばちと強烈な光を放っていた。
「そのお命、ちょうだいするよ」
「殿下、危ないっ――」
衝撃とともに体がぐらりと傾き、目の前に尻尾のような髪の毛が躍り出てきた。
ツキだった。
「ツキ――!」
私は必死で手を伸ばしたが、指先はむなしく空をつかんだ。
激しい雷鳴が鳴り響き、ツキの体がまばゆい光に包まれた。




