【春】 ―王太子編②―
あたたかい風が吹き、山々にいっせいに緑が芽吹く。永遠に続くとも思われた長い冬が終わり、我が国にもようやく春が訪れていた。
「行ってくるよ、ロザリア」
王宮の外まで私を見送りに来たロザリアの頬に、軽くキスをする。
「行ってらっしゃいませ、殿下」
ロザリアは恥ずかしそうに伏せていた目線をあげ、頬を赤らめて微笑んだ。
背後に控えている一団に目をやる。私が乗る四頭引きの馬車を囲んで、十数名の騎馬隊が旗を掲げ、出発の時を待っている。いつものことながら、ザンギエフの馬がつぶれてしまわないか心配になる。
そして、馬車を引く馬の隣には、ことさら安っぽい鎧兜を身につけた兵士が、体をこわばらせた様子で直立している。その兜の下から、束ねた長い髪の毛が尻尾のようにはみ出していた。ツキだ。緊張するのも無理はない。今日が初仕事なのだ。
「ツキ、行くよ。乗りなさい」
私が声をかけると、ツキは落ち着きなく左右を見回し、勢いをつけて、隣で草を食んでいる馬車馬にまたがろうとした。馬と御者が同時に驚き、目をむいた。私は吹き出した。
「あはは、そっちじゃないよ。この中だ」
先に馬車のキャビンに乗り込んでみせる。ツキはこの国のことをまだよく知らないのだ。私が教えてやらないと。
「し、失礼します」
ツキが、おそるおそる車内に乗り込んでくる。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だ。少し揺れるが、この中なら安全だから」
私はツキの緊張を解きほぐそうと、つとめて優しく声をかけた。このキャビンは王族仕様の特注品で、矢の雨が降り注いでもけっして突き破ることのない、堅牢なものだ。
「はあ……」
ツキは慎ましやかに言葉を返す。ツキは私の対角線上に向かいあって、遠慮がちに腰掛けた。壁が厚いので、キャビンの大きさの割に車内は狭い。私とツキの膝は触れ合いそうなほど近かった。従者が外から扉を閉め、馬車がゆっくりと動きだした。
一団は城下町の大通りを進む。春の訪れとともに町の人々は活気を取り戻し、市場には色とりどりの品物が並んでいる。まるで止まっていた時計の針が、にわかに動き出したかのようだ。馬車に向かって手を振る人々に応え、窓ガラス越しに軽く手を振りかえした。
馬車は市街地を抜け、郊外へと続く道へ入った。ここからは悪路で少々尻が痛むが、心は羽が生えたように軽やかに、規則的なリズムを刻んでいた。
窓枠に肘を預け、美しく萌え立つ遠くの山々を見やっていると、ツキが沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「あ、あの、王太子殿下。私は今日から、なにをすれば……」
「うん? おまえは、私のそばにいてくれればいいよ」
私が答えるとツキは軽くうなずいて、腰にたずさえたレイピアの鞘をぎゅっと握り、「はっ」と力強く返事をした。鎧に包まれたその体はいまもなお、こわばって縮こまっている――そうだ。
「それはそうと、その鎧。あまりにも粗雑だな。すぐに、もっと良いものを作らせよう」
「……恐縮の至りにござります」
また、故郷の言葉が出ているようだ。なんとも初々しく、飾り気のない態度が好ましい。
私はまた視線を窓の外に戻した。
「いまから視察に行く地域には、それはもう見事な菜の花畑が広がっていてね。そこから採れる油が、我が国の――」
「で、殿下っ」
私の説明をさえぎり、ツキが声を張りあげた。
「兜を取ってもよろしいでしょうかっ」
車輪が石でも踏んだのか、馬車の車体が大きく跳ねた。
「あ、ああ……」
私としたことが、この程度の気遣いも忘れていたなんて。
「気がつかなくてすまなかったな。ずっと息苦しかったろう。それに」
私は手を伸ばし、ツキの兜の下からはみ出した長いうしろ髪にそっと触れた。
「この尻尾が窮屈そうだ」
私がそう言うと、ツキは「は、ははっ」と、はじめて少し笑った。
ツキはもどかしそうに兜を外した。その蠱惑的な瞳が、私をとらえる。ああ――アダムとイヴが見つけた禁断の果実のように、紅い紅いおまえの瞳――とは対照的に、ツキの顔は真っ青だった。うっ、とうめき声をあげ、口元を手で押さえこむ。これは……
「ツキ、酔ったのか?」
「す、少し、外の空気を……」
ツキはよろよろと、キャビンの扉に手をかけた。
「危ないっ! 転げ落ちるぞ!」
私はとっさにツキの肩を強くつかんだ。馬車から転げ落ちるだけならまだしも、騎馬隊に踏まれれば大けがをする。
ツキが、ばっとこちらを振り返る。その美しい顔が切なくゆがみ、宝石のような瞳にみるみる涙があふれ――
ツキは体を折り曲げると、私の股間に向かって盛大に嘔吐した。車内に酸っぱい胃液の匂いが充満する。
「うおッ! 馬車をとめろッ!」
いち早く車内の惨状に気づいたザンギエフが、窓ガラスの向こう側で叫んだ。
私は自らもえづきそうになるのを必死にこらえ、涙を流して吐き続けるツキの背をさすってやった。馬車が急停止し、従者が飛んできて、この日の公務はそこで中止となった。
〈王太子〉視点のまま、次話へ続きます。
【2026/3/26】 一話が長すぎるとの気づきを得たため、読みやすいよう分割いたしました。




