【夏】 ―主人公編⑧―
たしかに斬ったと思ったところに、ごろつきの首はなかった。ごろつきは前方に吹っ飛んでいき、壁にぶち当たってずるりと床に倒れた。
濡羽卿オニキスが、隣で大きな黒い剣をおろした。
「贔屓の店を、血で染めるつもりか?」
床に転がったごろつきからは血が出ていない。どうやらオニキスが剣の刀身を野球のバットのように振って、ごろつきを吹っ飛ばしたらしい。
「ツキ、大丈夫か! はやくこっちに来なさい!」
うしろからアルベールの声がした。そうだ、ケガは――
アルベールは親衛隊員に支えられて、苦しそうな顔をしている。二の腕の血のしみが、さきほどより広がっていた。
「じっとしていてください、王太子殿下」
オニキスがアルベールに歩み寄り、右手を二の腕の傷にかざした。しばらくの間のあとオニキスが手を外すと、アルベールの傷はすっかり塞がっていたようだった。護衛騎士であるオニキスは、治癒魔法を使うことができるのだ。推せる。
「オニキス様……ありがとうございました」
私が礼を言うと、オニキスは鋭い視線で私を一瞥したあと、
「礼ならあの男に言うんだな」
と言って、リア王のそばに戻って行った。
そのあと衛兵や親衛隊員が大挙して店にやって来て、リア王たちの「お忍び」は終わった。
オニキスがぶっ飛ばしたごろつきのひとりから芋づる式に他の四人も捕まり、すぐに処分も下されたようだった。どんな処分が下ったのかは聞いていない。
数日が経ち、ついにリア王の帰国の時が訪れた。リア王一行の出立を、王宮の外でお見送りする。リア王と国王、アルベール、ロザリアの四人が、馬車の前で長い別れの挨拶を交わしている。私はその隙に、濡れたように黒い牡馬にまたがるオニキスにこっそりと近づき、声をかけた。
「あ、あの、オニキス様……これからも、どうか健やかに生きていてください」
推しは遠くから見守る主義だけれど、最後にこれくらいなら許されるだろう。
「ツキ……」
オニキスが、ま、また私の名前を――
「ひと月前のケルベロスの件、おまえはどう思う」
「え……」
オニキスは遠くを見つめて続ける。
「このあたりにあんな怪物が生息しているはずがない。なにものかが放ったのか、あるいは……」
オニキスは一旦言葉を切ると、私のほうを見おろした。
「最近、この世界になにか大きな歪みを感じるんだ」
大きな歪み。オニキスの真剣な表情に、推しに対するときめきとはまた別の、胸のざわめきを感じた。
――まあ、もう私には関係ないか。
「お、おい、ツキ――! こっちに来てリア王陛下にご挨拶しなさいっ」
アルベールの声が飛んできた。私はオニキスに一礼し、アルベールのもとへと走って戻った。
こうして私の『推し活・夏の陣』は幕を閉じ、リア王一行は夏の嵐のように私たちの日常をかき回して、この国から去って行った。
「やっと明日から、いつもどおりの日々だな」
アルベールが安堵した顔で、私に言った。
「殿下ったら。また四六時中ツキを連れまわすのは、やめてあげてくださいね」
隣でロザリアがにっこりと微笑む。
私はアルベールとロザリアの顔を順番に見た。
「あの、少し……体調が優れなくて。今日はこれであがってもよろしいでしょうか」
私は適当な嘘をついた。
「おお、おまえも疲れが溜まっているのだろう。ゆっくり休みなさい」
アルベールは疑いもせずに、早引きを許してくれた。医者を呼ぶというので、丁重に断った。
私はふたりに一礼し、踵をかえして兵舎のほうへと向かった。
さようなら。
私はセーブポイントになっている、兵舎の自室へと急いだ。どうせもう戻ってくることなどないのに、一応セーブしておかないと気が済まない、悲しきゲーマーの性だ。
早く、早く。帰ろう。明日から私は箱庭ゲームの世界で、可愛いモンスターたちとスローライフを送るんだ。
自室の扉に手をかけようとしたその時、
「おいッ! 貴様ッ!」
怒鳴り声がした。ザンギエフだ。早く帰りたいのに、勘弁してよ、もう。
「貴様に言いたいことがある!」
ザンギエフは肩をいからせ、薄暗い廊下をこちらへとどすどす歩いてくる。
私のせいで、温泉で何時間も待ちぼうけを喰らわされたことか。それともこのあいだ、私がアルベールにケガを負わせてしまった失態のことか。
「なんでしょう」
最後だから、いちおう聞いてやるかと振りかえる。
ザンギエフは私の部屋の前まで来ると、私が背にしている扉を思いきり叩き、怒りをむき出しにした顔で私を睨みつけた。いきなり暴力行為にでるとは、誇り高き親衛隊の風上にも置けない男だ。
「貴様、今日もさぼりか? また腹が痛いとでも言うんじゃないだろうな」
ザンギエフは嫌味ったらしく、私の早引きをとがめた。わざわざそんなことを言いにきたのか? 小さい男だ。腹が立ってきた。私はザンギエフを睨みかえして言った。
「いつも気にかけていただき、ありがとうございます。寂しくなるなぁ――私、今日かぎりでここを辞めますので。お元気で、セ・ン・パイ」
「な、なんだとッ……」
さすがに私が辞めることは想定外だったらしい。私は狼狽えるザンギエフを押しのけて扉を開け、自室に入って鍵をかけた。扉の向こうで歩き去ってゆく足音がした。
はあ。私は小さな固いベッドに腰掛けた。この寝心地の悪いベッドにもおさらばかと思うと、嬉しいような寂しいような。
壁に目をやる。見慣れたカレンダーが、もうすぐ夏が終わると教えている。もう、この世界で半年も過ごしていたんだ。いろんな思い出ができたな。
感傷に浸っていると去り難くなってしまう。よし、さっさとセーブを書いて、ログアウト――
「ツキ! いるか!」
扉の向こうから声がした。続いて、激しく扉を叩く音がする。
「いるんだろう! 開けなさい!」
ガチャガチャとノブが動いている。
「開けないなら、蹴破るからな! どいていろ……」
私は鍵を開け、扉を引き開いた。
アルベールがいまにも扉を蹴ろうという体勢で、そこにいた。
「ツキ……」
髪を振り乱したアルベールは、荒い息づかいで私の名を呼んだ。
うしろに、困惑の表情を浮かべたザンギエフが立っている。――しまった。辞めるなんて余計なこと、言わなければよかった。
「……殿下、とりあえずお入りください」
私はアルベール越しにザンギエフを睨みつけて言った。
廊下でこれ以上騒がれたらたまったもんじゃない。なにも言わずにいなくなりたかったが、いちおう義理を通すか。
アルベールは私の部屋に入って来て、後ろ手に扉を閉めた。ザンギエフの苦々しい顔が、ドアの向こうに消えた。
アルベールはひとつ深呼吸をすると、私の部屋を見まわして言った。
「ツキ、おまえは、ずっとこんな粗末な部屋で寝泊まりをしていたのか……いままで気がつかなくてすまない」
そりゃあセーブポイントなんだから、いち攻略対象であるアルベールが干渉できる範疇を超えているだろう。勝手に変えられたら、困るし。
「ザンギエフから聞いたぞ。ツキ、ここを辞めるとは、いったいどうして……? なにか不満があるのなら、言ってみなさい。なんでもおまえの望みどおりにするから」
思ったとおりアルベールは、必死に私を引き留めにきた。
「……故郷に帰らなければならない事情がありまして。短いあいだでしたが、お世話になりました」
私はアルベールの目を見られずに、うつむいたまま言った。
「事情とはなんだ? 家族の病気か? それとも、戦が始まったのか! 私に――いや、我が国にできることなら、なんなりと力になろう」
「い、いえ、そういうわけではないのですが……」
そんな切実な理由を並べられると、本当の理由が情けなくなってきてしまう。アルベールは少しだけほっとしたような表情を浮かべ、
「ならば、どうか考え直してくれないか、ツキ……」
そう言って、両手で私の肩をつかんだ。
「そう言われましても……もう、決めたことなので……」
ああ。やっぱり扉を開けたりなんかするんじゃなかった。セーブなんて二秒でできるんだから、無視して帰ればよかったんだ。
アルベールは潤んだ瞳で私を見つめて、右手を私の耳に伸ばした。その指が、そっと耳たぶに触れた。びくりと身がすくんだ。
「……この耳飾り。身につけてくれていたのだな」
小さな紅い宝石のピアスだ。送られてきた装備品のうちで唯一、任務中でも邪魔にならなそうだったから、身につけていただけだ。
「その薔薇の花束も。温泉に行った時のものだろう。わざわざこうして、取っておいてくれたのか」
壁のカレンダーの脇に吊るされた、ドライフラワーの薔薇の花束を見つめて、アルベールは言った。
これは、花瓶がなかったから置き場所に困って吊るしていたら、勝手に乾いていただけだ。
「ツキ、お願いだ。辞めるなんて言わずに、これからも私のそばに――」
「なぜ、そんなに引き留めるのですか! 私がいなくなっても、親衛隊員の代わりはいくらでもいるでしょう……!」
私はアルベールの胸を押して、距離を取ろうとした。アルベールは私の両手首をつかんでぐっと引き寄せ、真っ直ぐに私を見つめた。
「なにを言っているんだ。おまえを親衛隊員などと一緒にするはずがないだろう。危険な役目は、ほかの者に任せておいていいんだ」
違う。私は親衛隊員だ。
そうでなければ、あなたのそばにいられた理由がなくなってしまう。
「ツキ。とっくに気づいているんだろう。私の気持ちに」
やめてくれ。あなたには、ロザリアがいる。あんなに愛し合っていたでしょう。なのに――
アルベールはつかんでいる私の手に、優しく唇を触れた。
「……今日は、払いのけないのだな」
なぜ、そんなに綺麗な瞳で私を見つめるの。
いままででいちばん切ない顔のアップが、どんどん近づいてくる。
「おまえのことが、好きだ。ツキ……」
アルベールの唇が、私の唇に重なった。
とっくに気づいていた。私が親衛隊員として雇われたわけではないことも。アルベールが私に向ける、熱い視線の意味にも。私は親衛隊としての責務を果たすことで、アルベールのそばにいる言い訳をつくっていたんだ。
こんなの駄目だってわかっていた。だから必死で、フラグを避けようとした。
つまらないすれ違いを演じて。
でももう限界だった。これ以上ここにいたら――
アルベールが唇を離して、私の目を覗き込んだ。
「ツキ。これからも、私のそばにいてくれるな?」
これ以上ここにいたら、あなたを本当に好きになってしまう。
「…………では……次の、季節の……あいだだけ……」
私が途切れ途切れに言うと、アルベールは悲しそうな表情を浮かべたが、
「約束だよ。きっと故郷の事情も好転するさ」
そう言って微笑んだ。
「体調がよくないのに、悪かったね。ゆっくりお休み」
アルベールは扉を開けて部屋を出て行こうとしたが、立ち止まってこちらを振りかえり、
「ツキ、また明日」
そう言って、じっと私の返答を待っている。
「……また、明日……」
私が言うとアルベールは優しい顔でうなずき、静かに扉を閉めて出て行った。
私はいま、どんな顔をしているのだろう。たぶん、しかめっつらで、赤くて、ひどい顔だ。
――俺以外の男に、そんな顔見せないでくれよ。
〈あの人〉の言葉が、頭の中に響く。最近では思い出す頻度も減っていたのに。
ごめんなさい。あなた以外のひとと、キスしてしまった。
小さな窓に切り取られた空を、ツバメがひらりと旋回して飛んで行った。夏の終わりに、あたたかな地を求めて南へと渡る鳥。私はそのツバメを、撃ち落としてやりたい衝動にかられた。
もうすぐ秋が来る。箱庭ゲームは、少しの間SNSを封印すればネタバレを防げるだろう。
もう少しだけ思い出をもらったら、すぐに帰るから。




