【夏】 ―王太子編⑥―
数日が経ち、我が父王が無事に聖地から帰国した。私はそれを待って、ツキを普段より少し遠方への公務に連れ出した。
本来であれば、国賓であるリア王が滞在している最中に、王太子の私が王宮を空けることなど許されないのかもしれない。だが、嵐の時期が来る前に、どうしても視察しておかなければならない治水事業だと、父王に無理を言って一日だけもらったのだ。
今日向かう場所は、事業の経過報告を受けて以来、ぜひツキを連れて行ってやりたいと思っていた場所であった。
なによりも――濡羽卿オニキスから、ツキを少しでも遠ざけておきたいという思いがあった。
「ツキ、酔ってはいないか? いまから行くところは、少し遠いから……」
いつものように馬車の向かい側に座るツキに、私は訊いた。
「……大丈夫です」
ツキはあれからも変わらずそばにはいてくれているが、口数はいっそう少なくなり、今日の行き先はどこなのかと尋ねもしない。仮面をかぶっているように表情を変えず、じっと窓の外を見つめている。祭りに目を輝かせていたツキを思い出し、胸が締めつけられる。
「……そうか」
私は行き先の説明をする気力も失って、ツキの整った横顔をただ見つめた。深いガーネットのように美しい瞳。その先に、私はいない。すばらしい天候にもかかわらず、馬車の中は雨雲が立ちこめているように、暗かった。
馬車が目的地の山中に着いた。馬車から降りた私たちを、現場の担当者とおぼしき男たちが出迎える。
「王太子殿下、お待ちしておりました。現場のほうへご案内いたします」
ここからは道が険しく、馬や馬車では通れないので、私たちは数名の護衛を引き連れ、歩いて現場へと向かった。緑が深まった森の中を半時間ほど歩くと、にわかに開けた渓流沿いに出た。
「はじめて訪れたが、なかなか清々しい場所だな、ここは」
澄み切った空気が肺を満たす。気温も王都よりずっと涼しい。体を動かしたせいもあるが、清らかな川のせせらぎに包まれていると、ここ数日の体の重さが少し楽になったような気がする。
「お気に召していただけたようで、なによりでございます」
担当者の男は満足気に言って、手元の資料に目を落とし、続けた。
「えー、それでは私のほうから、治水事業の進捗状況を、えー、ご報告申しあげます。まず、下流の堤防に関しましては、えー、ひと月ほど前に完成しておりまして、えー」
「……そんなことはあとでいい。温泉はどこだ?」
男のもったいぶった物言いに耐えきれずに訊いた。そう、治水事業を進める過程の河川の調査で、この近くに温泉が湧いているのが発見されたのだ。我が国にも温泉はあるにはあるが、たいへんめずらしい。
ツキは、生まれ故郷には至るところに温泉があったと言っていた。不慣れな土地で日々を過ごすツキを、いくばくかでも慰めてくれるのでは――と、ツキが馬車で長距離の移動ができるようになるのを、心待ちにしていたのだった。
「えー、温泉、でしたら……」
男は手元の資料をぺらぺらとめくり、「えー」とまた何度か繰り返すと、
「えー、ここから少し、上流にございます」
と答えた。
「よし、案内してくれ。ツキ! 聞いていたか? 温泉だよ……」
うしろを振り返ると、ツキの姿がない。
「ツキ? ツキはどこだ!」
うしろの護衛たちに尋ねると、ザンギエフが私の顔色をうかがうように答えた。
「腹が痛いと、さきほど用を足しに行きました。すぐに戻ると……」
「そうか……」
それなら仕方があるまい。それに――逆に好都合だ。
「では、ザンギエフ、おまえはここでツキを待て。私は先に行っているから、ツキが戻ったらすぐに追いかけるように」
「かしこまりました、殿下」
ザンギエフをその場に残し、私たちは上流へと川沿いに道なき道を進みだした。足元には草がぼうぼうと生い茂り、歩くたびにちくちくと足首に刺さる。長いブーツを履いて来なかったことを後悔したが、この程度のことは苦にもならない。私はうしろでよろよろと着いてきている従者に、目くばせして訊いた。
「……あれは持って来ているな?」
「もちろんでございます」
従者は肩に提げた大きな革製の鞄を示し、にんまりとしてうなずいた。
「えー、もうそろそろ、見えてくるはず……」
担当者の男が汗をふきふき言った。
「そうか、ご苦労であった。――ここからはプライヴェートだから、おまえたちはここで待っていなさい」
私は担当者の男と護衛たちに命じた。ベテランの護衛のひとりが難色を示したが、
「こんな山奥で襲われることもあるまい。それに、すぐにツキが来る」
私が言うと納得したのか、
「では、ここから見張っておりますので、くれぐれもお気をつけて」
と引き下がった。
私は従者から鞄を受け取って、ひとりでさらに上流をめざした。温泉は川の中から湧き出しているらしく、さしあたり岩で堰き止めてあると聞いている。少しは浸かることもできるかもしれない。
私は鞄を開けて中身を確かめた。そこには私が注文したとおり、簡易的な水着と、大輪の薔薇の花束が入っていた。ツキの瞳の色と同じ、真紅の薔薇だ。ツキが来るまでのあいだに、この花びらを温泉に浮かべておこうという算段だ。
川沿いの道はさらに険しく、道とも呼べぬごつごつとした岩場になった。ここ数日、リア王の相手でずっと王宮にこもっていたせいか、体力が落ちているらしい。足はもつれて、額には玉の汗が浮かぶ。それでもツキの喜ぶ顔を想像すると、足がひとりでに前に出る。私は足元に注意しつつ、一歩一歩歩みを進めた。
だが、ツキは本当に喜んでくれるだろうか。また私に、笑いかけてくれるだろうか。濡羽卿に見せた乙女のような表情と、さきほどの仮面をかぶったような無の表情が、交互に思い出される。呼吸が苦しくなってきた。
こんなことをしても、無駄なのかもしれない。すべてが私のひとりよがりなのかもしれない。足が、重い、重い――
ついに足が止まり、私は膝に手をついて荒い呼吸を繰りかえした。すると、足元の岩の隙間から湯気があがっているのに気づいた。温泉に着いたのか。
顔をあげると、湯けむりでかすむ前方の川の中に、立っている人影が見えた。こんなところに先客がいるのか? 向こう側を向いているので顔は見えないが、髪の毛を頭の上で丸く結いあげている。――まる裸だ。その人影はしゃがんで、手で湯をすくって体にかけた。ちらりと乳房が見えた。
「――ご婦人か! 失礼した!」
私は急いでうしろを向いた。
「そ、その……なにも見ていないから……」
女の裸などロザリアで見慣れているはずなのに、胸の鼓動が跳ねあがって止まらなかった。それに、屋外で水着も着けずに入浴するとは、なんと奔放な――
「……王太子殿下」
背後からあどけない少年のような声がした。
「このような醜態を晒し、面目次第もござりませぬ」
その聞き慣れないお国言葉は――
振りかえるとその人影はこちらを向いて、膝ほどまでの湯の中にひざまずいていた。
「ツキ……なのか……?」
湯けむりの向こう側から、燃えるような紅い瞳が私を見ていた。




