18. 一つの"正しい物語"
朝の鐘が鳴る前、私はまだ薄暗い自室でひとり、窓辺に立っていた。
食欲があまりわかなかったので、食堂へは行かず、自室でお茶を飲む。
窓の外には、凍るように澄みきった空気の中で、冬の庭が静かに広がっている。
葉を落とした木々は白い吐息のような霧の中に溶け込み、芝生には霜の膜がうっすらと降りていた。
いつもと変わらない冬の景色。なのに今日は、すべてが少しだけ違って見える。
――今日が、最終選定試験の日だから。
誰にも告げられずに積み重ねてきた日々。
ひとつひとつの行動が、この日のための布石だった。
計算し、誘導し、調整して……。
でも、どこまでが正解だったのか、もうわからない。
「……あとは、祈るだけだね」
自分にそう呟いて、そっとカーテンを引きかけたそのとき、
凍てついた空気の向こうで、かすかに一羽の鳥が鳴いた。
小さな命が、この寒さの中でも変わらず朝を告げるように。
――世界は、何も知らずに始まろうとしている。
その事実が、少しだけ救いだった。
◇
礼拝堂へと続く回廊は、朝の冷気をそのまま封じ込めたようにひんやりとしていた。
足元に敷かれた赤絨毯は、冬の石床の冷たさをわずかに和らげてくれるけれど、足音はどこまでも吸い込まれていく。
こつ、こつ、こつ。
小さく規則的なその響きが、天井の高い廊下に静かに反響していた。
壁のステンドグラスから差し込む朝の光は、淡く色づいた影となって床を染めている。
――静かだ。
そして、美しい。
なのに心臓の鼓動だけが、ひとり騒いでいる。
選定試験の日の朝。
この礼拝堂で、今日、運命がひとつ決まる。
不安はある。けれど、迷いはない。
ここまで来たのだから。
「……大丈夫。全部やれるだけのことは、やったから」
誰にでもなく、そっと呟いた声が、冷えた空気の中に吸い込まれて消えた。
礼拝堂の扉はもう、すぐそこだ。
◇
礼拝堂の扉に手をかけ、深く息を吸い込んだ。
そして、そっと押し開ける。
――冷たい石の床を伝ってくる足音。
――祭壇を照らす冬の朝陽。
――静寂の中に息づく、聖域の空気。
そのすべての中心に、クラリーチェ様は立っていた。
ぴんと背筋を伸ばし、深紅のリボンを結んだプラチナブロンドが、窓から差し込む光をやわらかく反射している。
その姿はいつも通り――凛としていて、穏やかで、美しいほどに整っていた。
まるでこの瞬間のために存在するかのように、彼女はそこにいた。
私の胸に残っていたわずかな緊張が、ふとほどける。
(……よかった。いつものクラリーチェ様だ)
彼女の背中を見つめるだけで、少しだけ勇気がわいてくる。
今日のこの日を、私は絶対に無駄にはしない。
◇
礼拝堂の空気が、きりりと引き締まっている。
静謐な緊張が場内を満たしていた。
やがて、聖導卿様がゆっくりと壇上へと進み出られ、深く祈りを捧げる。
祭壇の奥に揺れる光が、ステンドグラスを通して淡く広がり、神聖な気配をいっそう強めていく。
……いよいよ、最終選定試験の時が来た。
「これより、セントローズ候補最終選定試験の儀を執り行います」
聖導卿様の穏やかで澄んだ声が、礼拝堂の空間に染み渡っていく。
候補者たちは皆、聖壇の前に並び、静かに待機していた。
私も、その列の中にいる。心臓の鼓動が、意識の奥に重く響いていた。
ひとりずつ、名が呼ばれ、祈壇へと進む。
そのたびに、堂内の空気が微かに変化していくのを感じる。
――セシリア様、
――イリス様、
――ミーミア様、
そして――その名が告げられた。
「クラリーチェ=フィオレンティーナ候補、前へ」
クラリーチェ様が歩を進める。
一歩ごとに、そのたたずまいが周囲の空気を浄化していくようだった。
祈壇に手を重ね、まっすぐ目を閉じる。
その姿が、まるで聖典に描かれる聖女のように見えたのは、きっと私だけじゃなかったと思う。
光が、ふわりと生まれる。
月の輪郭と薔薇の花弁のような紋が、天へと淡く広がっていく。
銀の光が、穢れなく静かに、クラリーチェ様の想いを象徴していた。
堂内の空気が、息をのむように澄みきっていた。
(……やっぱり、特別なかただ)
誰にも真似できない“気高さ”と“静謐”――それが、彼女にはある。
続いて呼ばれたのは、あの人。
「アメリア=エヴァンス候補、前へ」
アメリアさんが進み出る。
その背筋には、不思議な芯の強さが感じられた。
祈壇に手を重ねると、ゆっくりと、あたたかく柔らかな光が立ち上がる。
銀と金が内側から溶け合うような、清らかな光。
(……強い光)
どこまでも優しくて、どこまでも真っ直ぐで、誰にもまねできない“清明さ”。
光の中で、アメリアさんの瞳はまっすぐ未来を見ているようだった。
そして――私の番が来る。
「リリカ=オルトレア候補、前へ」
(大丈夫。ちゃんと“合わせて”ある。95――クラリーチェ様と同じ値)
私の目指すのは、目立つことでも、勝つことでもない。
ただ、きちんと通過すること。
私は静かに歩みを進め、祈壇に手を添えた。
(クラリーチェ様のそばにいたい。だから私は――選ばれない道を選ぶ)
光が、そっと生まれる。
前よりも少しだけ濃く、そして少しだけ、強く。
七色の光がふわりと揺れて、まるで音を持ったように、静かに広がった。
すべての祈りが終わったとき、聖導卿様が再び壇上に立たれた。
「本日、すべての候補者が、基準を満たしていることを確認いたしました。
これをもって、最終選定試験は終了といたします」
堂内に、安堵の息がいくつも流れた。
……でも、大事なのはここからだ。
運命の瞬間は、このあとに来る。
聖導卿様が、厳かな声で続ける。
「次に、明日の任命式への“内示”を告げます」
礼拝堂が、しん……と、静まりかえった。
「新たなセントローズに選ばれし者は――」
誰かが、小さく息を呑む音がした。
アメリアさんが、ほんのわずかに指を握る。
そして、名が告げられる。
「アメリア=エヴァンス」
その瞬間、天から降るように、光が彼女を包んだ。
揺るがぬ神意。
堂内に、静かで確かな拍手が生まれていく。
(やった……!)
私の中で、何かがほろりと崩れて、柔らかくほどけた。
それは、悲しみでも、喜びでもなく――
願いが、ひとつ、届いたという実感だった。
聖導卿様は、続けてロゼリアの内示を告げられ
私たち五人の名を順に呼ばれた。
◇
――やがて、ひとりが歩み寄る。
「……アメリアさん、おめでとうございます」
セシリア様だ。
彼女らしい落ち着いた声で、けれどどこか、誇らしさの滲んだ表情で。
「貴女が選ばれたこと、嬉しく思います」
続いて、イリス様。
「うん、ほんとに良かった! ずっと応援してたんだよ、私!」
ミーミア様がぱっと明るい笑みを浮かべ、両手を合わせて拍手を送る。
その言葉に、アメリアさんは小さく微笑み、皆ひとりひとりに深く頭を下げた。
――そして、私たちの番。
「アメリアさん」
私とクラリーチェ様が、並んで歩み寄る。
「おめでとうございます」
「……選ばれるべくして、選ばれたのだと思います」
私の言葉に、アメリアさんはふわっと微笑み返してくれる。
クラリーチェ様は、どこまでも穏やかで美しい声音で、静かに祝辞を述べられた。
「貴女の真摯な姿をずっと見ておりました。これから、きっと多くの人々を導いてゆくのでしょう」
「……クラリーチェ様……ありがとうございます」
彼女の目が、少しだけ潤んでいた気がした。
拍手が再び広がる中、私たちはそっとその場を下がる。
◇
やがて、候補者たちはひとり、またひとりと礼拝堂を後にしていく。
セシリア様は控えめにアメリアさんを気遣いながら寄り添い、ミーミア様は「任命式のドレスは用意して貰えるから大丈夫だよ〜」と楽しげに話しかけ、イリス様も側で頷いている。
……みんなが、自然に彼女のそばにいる。
その輪の中には、もう“選ばれし者”としてのアメリアさんがいた。
クラリーチェ様も、最後にもう一度だけ振り返って、静かに微笑んでから、堂を出ていかれた。
私は、ほんの少しだけその場に残って――
礼拝堂の扉の前から、皆の後ろ姿を見送っていた。
冬の朝の陽光が差し込む中、神聖な空気の残る静かな空間に、一歩分だけ、空白が残されていた。
(……よかった。これで、一つ進む)
静かに、胸の中でそうつぶやいて。
私はその空白をひとりで通り抜け、礼拝堂の外へと歩き出した。
――私の本番は、ここからだ。
◇
学園の中心部からは少し離れた場所にある温室。
薄く曇ったガラス越しに、やわらかな陽光が差し込み、冬でも枯れない常緑の葉が鮮やかに生い茂っている。
その真ん中に、人影が二つ。
王太子レオニスと、セントローズ内示を受けた少女――アメリア。
彼は、ひとつ深く息を吸い込んでから、まっすぐに彼女を見つめた。
アメリアさんは、小さく頷き、胸の前で手を組んでいる。
温室の外、低木の陰から、私はそっとその様子を見つめていた。
……王太子エンドは確定したようだ。
温室の中から、はっきりとは聞き取れないけれど、確かに“何か”が交わされていた。
王太子の声は、いつになく真っ直ぐで。
アメリアさんの肩が、ほんのわずか震えて――
やがて、静かに顔を上げた。
それは、もう迷いのない表情だった。
温室の中の世界が、ふたりを中心に、穏やかに満ちてゆく。
陽光に照らされた草花が、揺れるたびにきらめきの粒を散らしていた。
(……よかった)
胸の奥に、ゆっくりとした温かさが広がっていく。
祝福する言葉も、見届けたという名乗りもいらない。
ただ、ここにいて、見ていたということだけが、今の私には大切だった。
風がそっと吹き抜けて、木の葉がさらりと鳴った。
その音に紛れるように、私はゆっくりとその場を離れた。
温室のガラスの向こう、ふたりの影が少しずつ重なっていくのを、最後にもう一度だけ、振り返って。
冬の陽が傾いていく。
私は、春の気配が淡く宿る、静かな光に包まれたそこをそっと立ち去った。
◇
夕陽が校舎を朱に染めはじめたころ、私は、再び礼拝堂の前に立っていた。
震える手が、静かに扉を押し開ける。
きぃ、と音を立てて開いたその向こう。
誰もいないはずの礼拝堂。
中央の祈壇、その手前。
女神像の前に、ひとりの影が佇んでいた。
クラリーチェ=フィオレンティーナ。
その背筋は、いつも通り凛としていて。
けれど、ほんの少しだけ――その肩が、寂しそうに見えたのは、気のせいじゃないと思う。
光の落ちた礼拝堂の中で、彼女は祈るでもなく、ただまっすぐに女神像を見つめていた。
その静けさは、まるで深い湖のようだった。
(……クラリーチェ様)
あなたのその背に、私は、誇りと、哀しみと、そして尊さを見た。
この日、この瞬間のあなたを、
私は、決して――忘れない。
私はゆっくりと、クラリーチェ様に歩みを進めた。
定められたこの世界で、
ーー未来を掴む為に。