19. もう一つの"正しい物語"
春の上月一日――。
空は晴れわたり、冬の名残を一片も残さず洗い流したかのような、澄みきった青が天に広がっていた。
ここは、聖都フロレンティアの中心。
薔薇の大聖堂。
厳かに響く鐘の音が、静かに式の始まりを告げていた。
虹を宿すステンドグラスの光が差し込み、純白の絨毯がまっすぐに伸びる中央の参道を挟んで、列席者たちの間には威厳ある沈黙が漂っている。
聖庁の高位聖職者たち。
各国から招かれた重鎮たち。
そして、王室と直結する国家の上層部――。
誰もが、ただ静かに。祈るようなまなざしで、その瞬間を見守っていた。
中央、大理石の大階段の先。
神聖なる女神像の足元に設えられた祈壇の前――
そこに、一人の少女が立っている。
アメリア=エヴァンス。
柔らかな春の光を受けたその姿は、まるで“清らかな春”そのもののようだった。
至聖様が静かに手を掲げる。
「女神フロレンティアの御名において、
汝を聖なる薔薇〈セントローズ〉に任ず――」
その言葉とともに、白金の光がアメリアの足元から湧き上がり、淡い花弁のように空間へと舞い広がっていく。
静かに目を閉じた彼女の背に、薔薇の紋章がふわりと浮かび上がる。
それは、女神に選ばれし者にのみ与えられる、特別な証。
堂内には、感嘆とも祝福ともつかぬ、神聖な息遣いが満ちた。
そして、至聖様が再び名を呼ぶ。
「リリカ=オルトレア、クラリーチェ=フィオレンティーナ、セシリア=ブランデル、イリス=ルヴァン、ミーミア=コルヴェット。
――汝ら五名を、薔薇の乙女(ロゼリア〉として任ず」
薔薇を守り、薔薇と歩む者たち。
聖なる薔薇〈セントローズ〉の補佐を担う、その任命がなされた。
祈壇の前に並んだ五人に、それぞれの役割を示すリボン付きの薔薇のブローチが授けられる。
虹、白銀、藤黄、菫、淡桃――
色とりどりの彩が、春の光の中で優雅に揺れていた。
すべての任命が終わり、至聖様が祈りを捧げようとした――その時。
――たん、と。
誰かの足音が、荘厳な沈黙を切り裂いた。
中央の大理石の参道を、一人の青年がまっすぐに進み出る。
王太子、レオニス=ヴィアルディア。
堂内にわずかなざわめきが広がった。
彼の歩みに、誰もが息を呑む。
光の道を踏みしめるように、彼はまっすぐに大階段の元まで歩み出た。
(――ついに、始まる)
◇
堂内の空気が――わずかに、震えた。
王太子レオニスはまっすぐに進み出て、祈壇へと続く大階段の前で立ち止まる。
光に縁取られたその姿は、威厳に満ちていながら、どこか哀しみを帯びていた。
彼はゆっくりと顔を上げ、列席者たちを静かに見渡す。その視線に込められていたのは、咎めでも怒りでもなく――ただ、深い憂いだった。
「……本日は、女神フロレンティアの御名のもと、セントローズおよびその補佐ロゼリアの任命が厳かに執り行われました。
いずれも、素晴らしい資質と実績を持つ方々ばかりであり、私も一国の継承者として、この場に立ち会えたことを誇りに思っております」
朗々と、よく通る声。
だがその語調には、確かな陰が差していた。
「……しかしながら、ひとつだけ。どうしても、この場で申し上げておくべきことがございます」
列席者の間に、わずかなざわめきが走る。
「クラリーチェ=フィオレンティーナ嬢について――」
その名が告げられた瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
だがレオニスは、怒号を上げるでも断罪を叫ぶでもなかった。
ただひとつ、祈るように、言葉を紡ぐ。
「……彼女の周囲には、あまりにも多くの“噂”が渦巻いています。
それらの噂は、真偽を問わずすでに国中に広まりつつあり、セントローズ候補としての正統性さえ、問われかねない状況です」
目を伏せる者、息を詰める者、
そっと視線を逸らす者。
「けれど、私はただ名を挙げて糾弾するために口を開いたのではありません」
レオニスの声は、なおも静かだった。
「――この国の未来を託すべき存在に、疑念が生じること。
それこそが、女神フロレンティアの威光に影を落とし、民の信仰心を揺るがすのではないかと、私は危惧しているのです」
天蓋の高みから、女神像が彼の背を見守っている。
「お願い申し上げます。
この件について、今一度、聖庁による再考の機会が設けられることを。
それはきっと、誰かを傷つけるためではなく――
この国を、そして神の名を、より清らかに保つためにこそ、必要なのだと信じております」
その声は、厳しくもどこまでも真摯だった。
沈黙。
ただ、春の光だけがステンドグラスを透けて、大聖堂の床を照らしていた。
堂内には、しんとした沈黙が降りている。
驚き、戸惑い、そして――うっすらと滲み出す疑念。
列席者たちは、一様に表情を揺らめかせた。
聖導卿は眉間に皺を寄せ、枢機卿たちは互いに視線を交わす。
貴族たちは低くざわめき、平民代表たちは息をひそめて言葉を飲み込む。
まるで誰もが、「最初のひとこと」を言い出せずにいるようだった。
何かを言うべきか。
けれど何を言えばいいのか。
その迷いと空白が、礼拝堂の荘厳な空気を、かえって
静かにざわつかせていた。
その中で、クラリーチェ=フィオレンティーナは、変わらず立っていた。
真っ直ぐに、崩れもせず、逸らしもせず。
ただ、女神像の前に静かに立ち、両の手を胸の前で組んでいる。
その姿はまるで、吹雪の中でなお凛と咲く、一輪の花のようだった。
誰が何を言おうと、彼女は変わらない。
そして、その時――
世界は、静止した。
◇
世界の強制力は、“正しい物語”を求めている。
それは、ヒロインがセントローズとなり、王太子と結ばれるハッピーエンド。
世界の強制力は、ルールを遵守する。
設定は変えられない。シナリオも変えられない。
私は、ゆっくりと深呼吸して、目の前に現れたそれを見つめる。
強制力は、なぜアメリアさんを参入させる必要があったのか?
それは、“正しいエンディング”を迎えるためだ。
なぜ、次を待たずに途中から?
だからこそ、思った。
この世界には「二周目」はないのだと。
(プレイヤーが何回遊ぶかは、世界の外の話だ)
では、二周目の訪れない世界で、二周目以降のシナリオは出せないのか? 設定に存在するのに?
何をもって世界は「一周目の終わり」を――エンディングを迎えたと判定するのか。
世界の強制力は、ルールを遵守する。
二周目以降とは、
一度はエンディングを迎えたことがある状態、とも言えるはずだ。
一周目の終わり、エンディングの確定。
それは、王太子がアメリアさんに告白し、彼女がそれを受け入れること。
そこが、きっと“エンディングの確定ポイント”。
ならば、その後なら。
“エンディングを迎えた”と確定された後なら、このシナリオを起こせるのではないかと。
▶︎選択肢:
□ 黙って見守る
□ 異議を申し立てる
『薔薇の誓い』
クラリーチェ様を守れる、ただ一つのシナリオ。
二周目以降が条件の、特殊エンディング。
◇
騒然としかけた聖堂の空気の中で、私はゆっくりと一歩前へ歩み出た。
大階段の下から、王太子が静かに視線を向けてくる。
私の隣、クラリーチェ様は、ただまっすぐに前を見つめたまま、微動だにしていない。
祈壇前に立ち、振り返る。
そこには、聖導卿、枢機卿、各国の代表たち、列席した貴族や庶民――すべての視線が注がれていた。
けれど、私は俯かなかった。
「……申し上げたいことがあります」
その声は大きくはないけれど、誰の耳にも届くように
――祈るように、響かせた。
「王太子殿下の言葉は、決して“異を唱える”ものではありません。
それは、この国の未来を思う心から出た、まっすぐな問いかけです」
私は一度、視線を女神像に向ける。
そして、再び前を見据えた。
「クラリーチェ=フィオレンティーナ様には、確かに、さまざまな噂があります。
けれど、それが彼女の“真実”だと――いったい誰が、決められるのでしょうか」
空気が静まり返る中、私は言葉を続ける。
「私は、彼女の姿を、誰よりも近くで見てきました。
努力も、誠実さも、痛みも、誤解も――全部、見てきました」
胸に手を当て、私はさらに一歩、前へと進む。
「この任命式は、ただの形式ではないはずです。
“誓い”とは、自分の中にある真実を、世界に差し出すこと。
だからこそ――私は、今ここで異議を申し立てます」
驚き、困惑、興味、疑念。
あらゆる感情が会場に渦巻いているのを感じる。
けれど私は、それでも、止まらない。
「お願いです。
クラリーチェ様の在り方を、“噂”ではなく“まなざし”で見てください。
言葉ではなく、“姿”で感じてください。
そして――この国の未来を、“誇り”で選んでください」
祈るように、訴えるように。
それは、セントローズやロゼリアという“称号”に向けられたものではなかった。
クラリーチェという“ひとりの人間”の尊厳に対する、真っ直ぐな訴えだった。
――堂内に、静けさが戻る。
誰もが息を呑んでリリカを見つめる中――
王太子レオニスが、静かに歩みを進めた。
その足取りは、重くも、確かな意志を孕んでいる。
壇上で立つリリカの前に進むと、彼はまっすぐその瞳を見つめた。
「……君の言葉は、胸に響いた。否定することなど、できない」
低く、よく通る声。
けれど、そこにあるのは威圧でも叱責でもなく、どこまでも静かな誠意だった。
「誰かを、噂で裁くべきではない。君が言うとおりだ。
そして……君がクラリーチェ嬢に向ける想いも、疑う余地のないものだと、私もわかっている」
レオニスはほんの少し視線を落とし、それから静かに続けた。
「だが……これは、国家の式典だ。名誉の選定であり、象徴の任命である。
個人の感情だけでは動かせないものもある。
……だからこそ、私はここで“問い”を投げかけた」
彼は一呼吸置いてから、静かに問い返す。
「リリカ=オルトレア。君は、その問いの意味を 本当に、理解したうえで口にしたのか?」
その言葉には、怒りも疑いもなかった。
ただ、リリカの“覚悟”を確かめるように、ひとつの問いを差し出していた。
「真実を選ぶことは、ときに“痛み”を伴う。
信じるという行為には、代償が伴うこともある。
それでもなお、君は……この場で、異議を唱えるのか?」
それは試すのではなく、導こうとする声だった。
リリカのまなざしに、真正面から向き合う――王太子としての、あるいは、ひとりの青年としての答え。
聖堂の空気は、再び静寂に包まれていた。
すべての視線が、リリカに――その“選択”に、注がれている。
王太子の問いに答えるべく、もう一歩前に出ようとしたその時。
後ろから、そっと手を掴まれた。
――クラリーチェ様だった。
振り返れば、彼女は静かに、私に微笑んだ。
私は、クラリーチェ様の瞳を見つめたまま、
ーーそっとその手を握り返した。
静寂。
誰もが言葉を失い、ただ大聖堂の空気を見守っていた。
ゆっくりと、クラリーチェ様が歩を進める。
白銀の礼装には一切の乱れがなく、肩にかかる長いプラチナの髪が、冬の光を静かに受けて揺れていた。
そして、彼女は女神フロレンティアの像の前で立ち止まり、そっと掌を掲げる。
その手にあるのは、漆黒の銀を宿す小さな指輪。
光を吸い込むようなその装飾の内側に、かすかに七色の輝きが封じられている。
《契約なき誓約の指輪》
それは、契約の加護を持たぬ代わりに、使用者の“真の意志”を誓いに変える秘宝。
「……女神フロレンティアよ」
クラリーチェの声は、凛として響いた。
怯えも、憤りも、嘆きもない。ただ、静かに、澄みわたっていた。
「我が名は、クラリーチェ=フィオレンティーナ。
この身に流れるもの、育まれしもの、すべての過去を、ここに捧げます」
彼女は一歩、祈壇に膝をつく。
「多くの疑念が、私に向けられています。
けれど私は、清き誓いを以ってここに立つ者。
この指輪に契約の証なくとも、私の心は、誰よりも確かであると――女神、あなたに誓います」
そのときだった。
彼女の周囲に、ふわりと光が立ちのぼった。
胸元から、静かに、確かに――クラリーチェ様の“ルクス・センティア”が発現する。
それは、無垢なる銀と、柔らかな青を織り交ぜた、祈りの旋律そのもののような光。
呼吸するように揺れながら、彼女を包みこむように広がっていく。
まるでその光に応じるかのように――
女神像の胸元に嵌められた宝玉が、ふいに、淡く、そして次第に強く光り始めた。
「……!」
誰かの息を呑む音が、響いた。
次の瞬間――
天上のドームから、荘厳な光が射し降りる。
それはまさしく、神の恩寵とも呼ぶべき輝きだった。
女神像の掌から解き放たれたその光は、静かに、しかし確かにクラリーチェの頭上へと注がれていく。
祈るように目を閉じるクラリーチェ様。
その姿を照らす光は、清らかで、あたたかく、どこまでも尊い。
――女神が、その誓いを聞き届けた。
その瞬間、聖堂にいたすべての者が、ただひとつの真実を知った。
――この少女は、嘘を語っていない。
クラリーチェ=フィオレンティーナは、誇り高く、真実を胸に生きる者なのだと。
◇
―― 一か八かの賭けだった。
絶対の確信なんて、なかった。
選択肢が本当に現れてくれるのかどうかさえ、不安でたまらなかった。
でも――何もしなければ、きっと“詰み”だった。
だから、信じて進むしかなかったのだ。
私は選んだ。
そして、掴み取った。
クラリーチェ様のために。
◇
ゲームでは、この後、クラリーチェ様は大聖堂を静かに後にする。
まっすぐに前を向き、開かれた扉から差し込む光の中へと歩んでいく。
その光はまるで、彼女が自由を得た証であるかのようだった。
彼女を縛っていた、あらゆる誤解や不信、しがらみから――
ついに解き放たれたかのように。
◇
クラリーチェ様が静かに立ち上がり、振り向いたその時、
祈壇の前に――ひとりの少女が進み出た。
アメリアさんだった。
柔らかなドレスの裾がふわりと揺れ、彼女はまっすぐに至聖様を見る。
「……今の私は、セントローズ――そうですね?」
静かな問いかけに、至聖様は一度目を伏せ、それから深く頷いた。
「……はい。あなた様はこの世界で唯一の“聖なる薔薇”であらせられます」
その言葉に、一礼を返すアメリアさん。
そのまま向き直ると、クラリーチェ様と正面から向き合う。
彼女の声は、透きとおるように澄んでいた。
「女神フロレンティアは、あなたの誓いを聞き届けられました。
あなたが真実清廉であることは、もはや証明されています」
堂内が、息をひそめてその言葉を聞き届けていた。
アメリアさんは、まっすぐクラリーチェ様を見つめ、宣言する。
「――故に、私はセントローズとして、クラリーチェ=フィオレンティーナをロゼリアに任命いたします」
一瞬、空気が揺れた。
大聖堂に広がるざわめき――だがそれは騒乱ではなく、驚きと戸惑い、そして安堵にも似た感情の波だった。
(え、なにこれ……でも、この方が円満…………なのか!?)
不意打ちともいえる展開に、私は思わず心の中で混乱を叫んでいた。
けれど――
クラリーチェ様は、静かに微笑む。
「……謹んで、拝命いたします」
深く、優雅な礼をもって、アメリア=エヴァンス ――聖なる薔薇に応える。
その姿は、誇り高く、どこまでも清らかだった。




