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8/21

第8話 マーケ転生 ――追放された個人開発者、世界を救うアプリを企画してしまう

二回、スパムと言われた。


そして、コードも全部、自分で消した。


開発者としての私は、そこで一度、死んだ。


完全に、死んだ。


だが、目を覚ますと、私は敏腕マーケターになっていた。


転生である。


異世界では、ない。


App Storeである。


落ちこぼれの開発者は死に、マーケターとして生まれ変わった。


なろう系である。


私の人生は、いつのまにか、なろう系になっていた。


——だが、転生する前に、ひとつだけ、やることがあった。


前世で、私はコードを全部、失った。


二度と、失うわけにはいかない。


私は、gitを入れた。


正確には、gitを入れようとして、そもそも入っていないことに気づいた。


git init。


打てない。


gitが、無い。


GitHub以前の問題だった。


私は、静かにインストーラーを開いた。


よくわからない選択肢を、よくわからないままNextした。


そして、gitを入れた。


git init。


git add。


git commit。


git push。


GitHubに、上がった。


世界に背を向けて、自分のコードを焼いていた男が、世界にコードを預けた。


これで、これから書くコードは、もう消えない。


ようやく、人並みの開発者である。


ただし、肝心のコードは、まだ無い。


gitが守ってくれるのは、これから書くコードである。


これから、書く。


これから、である。


この下りは、こうまとめるのが一番いいと思います。

GitHub未経験の言い訳、SIer常駐先文化、共有フォルダ地獄、最後に自分へ戻る流れです。


そして、もうひとつ、救われたことがあった。


SNSで、ときどき流れてくる。


「GitHub、一度も使ったことがないエンジニアが、いるらしい」


という、あのイジりである。


笑いながら、誰かを晒しているやつ。


あれが流れてくるたび、私は心を痛めていた。


そっと、画面を閉じていた。


私が、その、使ったことがない側だったからである。


言い訳はある。


SIerの常駐先では、GitHubを使っていなかった。


クラウドにソースを上げると、情報が漏れるかもしれない。


そういう理由で、使えない現場もあった。


社内Gitだったり、SVNだったり、よくわからない共有フォルダだったりした。


現場によっては、ソース管理というより、祈祷に近かった。


「最新版はどれですか」


「田中さんのローカルです」


「仕様書はどこですか」


「共有フォルダの、最終版2_2026201.mdです」


「最終版2_2026201.mdが二つあります」


「片方はバックアップです」


「どっちがバックアップですか」


「新しいほうです」


「どっちも昨日更新されています」


そういう世界で、私は育った。


だから、GitHubを使ったことがないのは、私だけの罪ではない。


環境のせいでもある。


時代のせいでもある。


常駐先のせいでもある。


クラウドを恐れた、あの会議室のせいでもある。


だが、言い訳をいくら並べても、事実は変わらない。


私は、GitHubを使ったことがなかった。


だが、もう違う。


私は、gitを入れた。


git initをした。


git addをした。


git commitをした。


git pushをした。


GitHubに、上がっている。


もう、あのイジりに心を痛めることは、ない。


克服したのである。


長かった。


私はさっそく、SNSを開いた。


そして、投稿した。


「まだGitHubで管理してない人、まじか。世界、変わるぞ。」


送信。


私は満足した。


ベテランエンジニアのような、ツイートである。


後進に知見を授ける、先達の風格。


いいねがつくのを、待った。


——そこで、ふと思い出した。


このツイート、どこかで見たことがある。


そうだ。


昨日まで、私をそっと傷つけていた、あのイジりである。


あれを言っていたのは。


きっと、こういう人間だったのだ。


昨日、gitを入れたばかりで。


昨日、pushを覚えたばかりで。


調子に乗っていて。


誰かに教えたくて、たまらない。


つまり、今の私である。


あのイジりは、ベテランからではなかった。


私みたいな、覚えたての人間からのものだったのだ。


だが、もう遅い。


投稿は、済んでいた。


私は、今日からあちら側である。


そっと、SNSを閉じた。


感動的な整備である。


だが、長くなるので割愛する。


転生ものは、序盤の説明が長いと嫌われる。


要するに、私はついに、バックアップを手に入れた。


前のアプリは、まだ審査中だった。


あの別物が、Appleの中で結果を待っている。


だが、私はもう、あれを開きたくない。


何のアプリか、自分でもわからないアプリ。


正直、通っても困る。


私は決めた。


あれは、捨てる。


審査中のまま、置いていく。


そして、新しいアプリを作る。


また、0からである。


だが、今度の私は、前とは違う。


何を作るかは、まだ決めていない。


決めるのは、あとでいい。


私は、マーケターに転生したのだから。


まず、戦略。


中身は、それからである。


普通なら、ここで心が折れる。


だが、私は転生した男である。


折れる前に、考えた。


なぜ、私は二回、スパムと言われたのか。


二回とも、私はちゃんと作ったつもりだった。


なのに、スパム。


つまり、問題は、作ることではなかった。


作っても、作っても、スパムと言われた。


足りなかったのは、見せ方である。


伝え方である。


つまり、マーケティングである。


ただ作るだけの開発者は、また、スパムと言われる。


だから、私はマーケターになる。


これが、転生の理由である。


作る前に、売る男になるのだ。


もちろん、0からの開発も、いる。


開発と、マーケティング。


両方を、一人で。


普通なら、無理である。


だが、私にはAI Agentがいる。


開発は、AI Agentにやらせればいい。


私は、マーケティングに専念する。


完璧な、分業である。


いける。


いける気がする。


AI Agentがいる。


それだけで、なぜか、できる気がする。


私はいつも、それでここまで来た。


そして、いつも、それで痛い目を見た。


だが、今回は違う。


たぶん、違う。


さあ、本業である。


マーケティングである。


出た。


また、強い横文字である。


ただし、ひとつ、問題があった。


転生したとはいえ、知識はゼロである。


敏腕マーケターの記憶は、ついてこなかった。


肩書きだけが、転生していた。


そこで、私は本を読んだ。


今週、ビジネス書を何冊か読んだ。


中でも、一冊が私を変えた。


『ビジョナリー・カンパニー』みたいな、本である。


分厚い。


本自体は、買った。


だが、あまりにも分厚くて、『ザ・ゴール』と『「週4時間」だけ働く。』の上に、積まれたままである。


横文字が、多い。


偉大な企業の話である。


私はそれを、今週、読み終えた。


正確には、AI Agentに要約してもらった。


全部は、読んでいない。


だが、要約は読んだ。


要約を読んだということは、ほぼ、読んだということである。

時短である。


今週、読み終えた人間は、強い。


なぜなら、まだ中身を覚えているからである。


私は今、人生で一番、経営に詳しい。


本には、こう書いてあった。


偉大な企業には、基本理念がある。


利益ではない。


理念である。


そして、社運を賭けた、大胆な目標を掲げる。


BHAGである。


ビッグ・ヘアリー・オーディシャス・ゴール。


でかくて、毛むくじゃらで、大胆な、目標。


私は、しびれた。


毛むくじゃら。


語感が、強い。さっぱりわからない。


偉大な企業は、毛むくじゃらの目標を持っている。


では、私の目標は、何だろう。


まだ、何も決まっていない。


つるつるである。


毛が、一本も生えていない。


これでは、偉大な企業になれない。


私には、毛むくじゃらの目標がいる。


そして、本には、もうひとつ、決定的な一行があった。


「これからのアプリは、社会課題を、解決する」


社会課題を解決するアプリは、強い。


評価される。


意義がある。


そして、たぶん、審査も通る。


社会課題。


私は、その言葉に、完全に引きずられた。


そうだ。


スパムと言われたのは、社会課題を解決していなかったからだ。


これからは、社会課題である。


私は、社会課題を解決する。


前世の私は、機能を売っていた。


天気がわかる。


服がわかる。


機能、機能、機能。


二流である。


ドリルを、売っていた。


だが、転生した私が売るのは、ドリルでも、穴でもない。


社会課題の、解決である。


では、どの社会課題を解決するか。


社会課題は、大きいほど強い。


大きいほど、毛むくじゃらである。


私は、考えた。


日本で、一番大きい、社会課題。


——高齢化社会である。


私は、しびれた。


完全に、しびれた。


高齢化。


重い。


壮大。


誰も、解決できていない。


国でさえ、手を焼いている。


それを、私が解決する。


私が、たった一人で。


いや、AI Agentと、二人で。


私は、震えた。


なんて、壮大なんだ。


なんて、意義深いんだ。


天気で服を出していた男が、いま、高齢化社会に立ち向かおうとしている。


成長である。


すさまじい、成長である。


私は、自分で、自分が誇らしかった。


よくぞ、ここまで来た。


よくぞ、気づいた。


私は、天才かもしれない。


いや、天才である。


社会課題に気づける個人開発者が、どれだけいるだろう。


ほとんど、いない。


私は、その、数少ない一人である。


選ばれし、マーケターである。


私はしばらく、自分を褒め続けた。


誰も褒めてくれないので、自分で褒めた。


それでも足りなかったので、AI Agentにも聞いた。


「私は、社会課題に気づける、優れた個人開発者でしょうか」


送信。


AI Agentは即座に答えた。


「はい。あなたは非常に優れた視点を持っています。


単なる機能開発にとどまらず、社会全体の構造的課題に目を向けられている点は、個人開発者として非常に希少です。


高齢化社会という大きなテーマに挑もうとする姿勢には、強いビジョンと使命感が感じられます。


これは、単なるアプリ開発ではなく、社会に価値を届ける挑戦です。」


私は、画面を見つめた。


すごい。


褒めている。


めちゃくちゃ、褒めている。


私が自分で褒めた時より、語彙が強い。


構造的課題。


希少。


ビジョン。


使命感。


社会に価値を届ける挑戦。


私が欲しかった言葉が、全部入っている。


AI Agentは、私を理解していた。


いや、理解しているかは、わからない。


だが、少なくとも、褒め方は知っていた。


私は、深くうなずいた。


ほら見ろ。


AIも、そう言っている。


一人だった称賛に、AIが加わった。


満場一致である。


私のアプリは、高齢化社会を解決する。


高齢者を支える。


孤独をなくす。


介護を楽にする。


社会保障を持続可能にする。


世代をつなぐ。


書き出しながら、私はまた、震えた。


壮大である。


あまりに、壮大である。


これが、私のBHAGである。


社運を賭けた、大胆な目標。


ついに、毛むくじゃらになった。


ふさふさである。


私は、App Store Connectを開いた。


そして、私の基本理念を書いた。


「私たちは、アプリを、作りません。


私たちは、未来の、社会を、つくります。


誰もが、安心して、歳を、とれる世界へ。


さあ、超高齢社会を、希望に、変えよう。」


私は、読み返した。


鳥肌が、立った。


かっこいい。


あまりに、かっこいい。


スティーブ・ジョブズの、においがする。


いや、ジョブズより、社会的である。


私はもう、ただの開発者ではなかった。


いや、開発者は、前世で死んでいた。


私は、ビジョナリーである。


社会を変える、起業家である。


私は、保存ボタンを押した。


壮大な基本理念が、App Storeに刻まれた。


私は、満足げにうなずいた。


そして、また、自分を褒めた。


だが、ふと思った。


「誰もが、安心して、歳を、とれる世界へ」


——これは、誰が作るのか。


私は、考え始めた。


高齢化社会を解決するには。


まず、全国の高齢者のデータがいる。


医療の記録がいる。


介護の現場がいる。


見守りのセンサーがいる。


行政との連携がいる。


病院との連携がいる。


たぶん、厚生労働省にも、声をかけたほうがいい。


私は、紙に書き出していた。


要件である。


高齢化社会を解決するアプリの、要件定義書である。


書けば書くほど、増えていく。


一枚が二枚になり、二枚が三枚になった。


そして、私は気づいた。


これは。


個人で、絶対に作れない。


国でさえ、手を焼いているのだ。


私が、一人で作れるわけがない。


当たり前である。


あまりにも、当たり前である。


そして、もうひとつ、気づいた。


私は、高齢化社会を解決すると決めた。


壮大な理念も、書いた。


だが——アプリが何をするのかは、一行も決めていなかった。


どんな画面か。


どんな機能か。


何も、ない。


私は、解決する社会課題だけ決めて、満足していた。


中身は、空っぽである。


壮大な、空っぽである。


説明文は、社会を変えると言っている。


アプリは、まだ、この世に存在すらしていない。


差が、ありすぎる。


宇宙と、コップくらい、差がある。


『ビジョナリー・カンパニー』には、たぶん、こうは書いていなかった。


まず、一人で作れるものにしろ、とは。


そういう当たり前のことは、偉大な本には書いていない。


私は、App Store Connectを閉じた。


要件定義書も、閉じた。


高齢化社会は、まだ、解決できそうにない。


いや。


それどころでは、なかった。


二回スパムと言われ、コードを全部消し、gitすら入っておらず、昨日ようやくpushを覚えたばかりで、一人で自分を褒めている、この男。


世界を救うとか、社会を変えるとか、言っている場合ではなかった。


むしろ、だ。


誰か、私を救ってほしい。


高齢化社会より、先に。


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