小倉教授の悲哀5
「--貴女が私のことを覚えていてくれてよかった。どんな貴女でも愛する自信はありますが、やっぱり二十年の愛の記憶が消えてしまうのは悲しいですから」
「………………」
「それにしても、本当。どこもかしこも小さいですね。少し力を入れれば、折れてしまいそうだ」
笑みを浮かべなから私を抱き締める、佐野の顔を上目遣いで見つめる。
結局、この男からは逃げられなかった。それどころか、こんな醜態まで晒してしまっている。
ならば、もういっそ………。
「小倉教授?」
自分でもため息が出るほど小さな手で、佐野の首を包み込んだ。
佐野がその気になれば簡単跳ねのけられてしまう、非力な子どもの手。
こんな手でも……彼を殺すことはできるだろうか。
佐野を殺すことができれば、私はこの胸の奥の苦しさから解放されるのだろうか。
「--良いですよ。小倉教授」
佐野は、笑う。
いつもの胡散臭い笑みではなく、慈愛すら感じさせる優しい笑みで。
「殺してごらんなさい。貴女が望むのなら、私は喜んで受け入れます」
その言葉を聞いた瞬間、目から涙が溢れ出た。
空気中では涙は、溶けることなく頬を伝うのだと、そんな当たり前のことを思った。
「佐野……私は、お前を愛することはないわ」
涙で滲んだ目で、真っ直ぐに佐野を睨みつける。
「命を救われてなお、私はお前に感謝できない。それくらい、私はお前が妬ましくて憎らしい。……殺してしまいたいくらいに。この先どんなことがあったとしても、私はお前を愛さない自信があるわ」
せめてもの意趣返しとして吐き捨てた言葉は、祈りにも似ていた。
どうか、傷ついてくれ。
叶うことならば、そのまま私に幻滅してくれ。
私が憎いお前の想いに応えることは、けしてないのだから。
「別に構いませんよ」
だけど、佐野は笑みを深めるだけだった。
自身の首に当てた私の手を、ただ幸福そうになで上げる。
「愛なんて、不確かな感情ではなくても、貴女の心はとっくに私のものですから。それが憎悪であったとしても、貴女の心を一番に占めるのが私であれば、それだけで私は十分幸福です。……実際、小倉教授は佐々木尊を求めている間も、ずっと私のことをより強く考えていたでしょう?」
否定は、できなかった。
負の感情ではあれ、実際私が佐野のことを考えていたのは確かだ。
……なんだ、今さらだったのか。
今、佐野から救出されるより早く、とっくに私は佐野に捕まえられていたのか。
ひどく絶望的な気分だ。
「しかし……心は手に入れられたにしても、この肉体年齢差では、性的な意味で体を手に入れるのは、難しそうですね。しまったな。やっぱり以前誘われた時に手を出しておけばよかった」
「……………」
「まあ、良いか。……佐々木尊は、確かに天才ですね。私が不可能だと思っていた理論を、完成させてしまった。ですが、彼があそこまで理論を完成させてくれれば、私だけでも十分若返りの機械を作成し、改良するのは可能です。いけ好かないクソガキですが、その点ばかりは佐々木尊に感謝しなければ」
「……何が言いたいの」
「決まっているでしょう? ……小倉教授が、ある程度まで成長したら、私もまた貴女と釣り合う年齢まで若返りましょう。佐々木尊も、自分の実験を邪魔されない限りは目こぼししてくれるでしょうし」
告げられた言葉は、さらに私を絶望させた。
「ずっと一緒ですよ。これからも、ずっと。今までの二十年より、素敵な思い出を作りましょう? ……今の貴女に、私の傍にいる以外の選択肢なぞないのですから」
佐野の目に、見慣れた狂気の色が浮かぶ。
「小倉教授は死にました。佐々木尊に殺されたたんです。………戸籍すらない、経歴不明の少女に過ぎない今の貴女は、一人でなんて生きてはいけないでしょう?」
この狂気の根源を、そしてそれがどんなものであるのかを、私は理解できないし、これからも理解できないだろう。
心理学の権威である、佐々木凛香なら理解できるのだろうか。
「それじゃあ……私の家に行きますよ。小倉教授」
--ただ、差し出された憎い男の手を掴むこと以外の選択肢が、私に許されていないことだけは、私にも理解できた。