2 暗闇の黒い人影
自宅に着いてからというもの、託生は古びたカメラの手入をしていた。
不気味な黒ずくめの男性の姿を一刻も早く脳裏からかき消すかのように、大小のブラシを使い分けながらカメラに付着している埃を払い落としていた。
古びたカメラ本体からレンズを外して、撮像素子などの内部のホコリをブロアーで埃が下へ落ちるように吹き飛ばし、レンズのガラス部分もブロアーを使って埃を飛ばした。
託生はできるだけレンズ面を下に向けて行い、最後に反対側のマウント部もしっかりブロアーで埃を吹き飛ばして作業を一旦中止した。
カメラのレンズ表面の汚れ状態を確認するためにレンズを覗いたときのことである。
鋭い閃光で目が眩んだ。
自動巻き上げ、巻き戻しの一眼レフは撮影終了後フィルムの規定枚数を撮り終えると自動的に巻き戻されていった。
それで、このカメラにフィルムが入っていることに気づいた。
託生は何かの拍子にシャッターボタンを押してしまって、自分の顔をカメラで撮影してしまったかと思ったのだが指はそこには触れていなかった。
咄嗟に古びたカメラ本体から手を離すとコマ送り再生をした動画のようにゆっくりと床へと落ちていった。
床に転がっている物体は虚ろな目をした小動物の生首のように、カメラのレンズは託生をじっと見詰めていた。
言葉では言い表せないほどの薄気味悪さを感じずにはいられなかった。
託生は震える手で恐るおそるカメラ本体から巻き戻戻されたフィルムのカートリッジを取り出した。
フィルムの中身に興味を持ったが、カートリッジを手にした時にカメラを購入した店の男の姿を思い出してしまった。
そのため、嫌悪感からその手の中に握られていたカートリッジをゴミ箱へと投げ入れた。
自宅の窓から差し込む陽が傾きかけ夕方の訪れを告げていた。
気温が下がり涼しげな風と柔らかな光が部屋の中へと舞い込んでくる。
ベッドの上で横になっている託生の頬を風が優しく撫でた。
部屋の壁の賭け時計に視線を向けると、あれから二時間が経過していた。
いろいろと考えた挙句、託生はやはり好奇心に負けてしまった。
フィルムの中の写真には何が写っているのか確かめずにはいられなかったのである。
幾ら考えていても埒が明かないと諦め、ゴミ箱からカートリッジを拾い上げた。
そして、自宅の近くにある写真店へとフィルムの現像を行うために再び出かけることにしたのだった。
フィルム現像を写真店へ持って行った帰り道、黄昏が降りて星が輝き始めてきた。
街頭に灯りが夜道を幾分かは明るく照らしてくれたが、今夜はいつもとは違う不安を感じさせる。
独りで歩いている心細さからではない。
何かがいるのである。
本能が生命の危機を警告しているように、先程から動悸が激しいのだ。
託生は誰かに後をつけられているという気配を感じたが、できるだけ気にせずに夜道を歩き続けた。
歩調を速め歩き続けても追いかけてくる気配は消えるどころか、着実に距離を縮めてきているのが分かった。
この距離が縮まり続け、やがてその距離が完全になくなったその時のことを今は考えたくもなかった。
その気配は気のせいだと自分に言い聞かせながら、それを確認するために勇気を振り絞って振り返えってみた。
街頭の灯りが届かない暗闇の中に黒い人影があったような気がした。
目を凝らしてみても人影なのかどうかを確認することができなかった。
確かめるためにその暗闇の中へ戻る勇気も持ち合わせていなかった。
人生では様々な決断を迫られる時がある。
だが、多くの人間がその決断をくだすことに慎重になり悩み苦しむものである。
多くの人間は何が正しく何が間違っているのかを見極めて、勇気を持って決断することができない。
そして、決断できないことをのちのち後悔することも託生の経験上知っている。
託生は今は黒い人影を確かめるということの決断だけはしたくはなかった。
「……錯覚だよな……」
託生は自分自身に言い聞かせるように独り言を呟きながら、己の内に芽生えた恐怖心を必死に押し殺そうとした。