下巻
病院の待合室。何人かの人が順番を、待っている。
そのうちの一人、けばけばしい服装の中年女性が立ち上がり、受付に行き言った。
「あなたまだなの。さっきからずいぶん待ってるんだけど。早くしてよ!」
若い受付嬢が完全に固まった笑顔で答える。
「すみません、もうしばらくお待ちください。ただ今急患の手当てをいたしておりますので、そちらのほうが済み次第、すぐに診察いたしますから」
「どうでもいいけど、早くしてよね」
中年女性は待合室のソファーに戻った。
隣に座っていた初老の男性が立ち上がり、受付に行き言った。
「私は別に今日でなくてもかまいませんから。また今度伺いますよ」
受付嬢は、さっきよりは少し自然な笑顔で答えた。
「はい、どうも申しわけありません。またいらしてくださいね」
初老の男は軽く会釈をして出て行った。それを中年女性が、親の敵のように睨みつけていた。
その待合室より奥の診察室、そしてその先の注射室のさらに奥の手術室で、今まさに手術が行われていた。
一人の医者がベッドの上の少女の手術をしている。
手術台に寝かされているのはゆづきである。
助手の看護婦が医者の額の汗を拭いているが、医者の流す汗は半端ではない。
そしてその表情からずいぶんと時間が経ち、ずいぶんと苦労をしていると思われた頃、医者がようやくその手を止めて言った。
「ふうっ、やっと終わったぜ」
すかさず助手がきっぱりと言った。
「先生、まだ五人ほど、診察をお待ちですが」
医者が助手を見ることなく小さく呟く。
「俺を殺す気か」
病院の廊下のソファーに、二階堂が座っている。
窓から見える外の景色が、赤から黒に変わりつつあった。
そこに医者がやって来た。
「おう、進、その他大勢含めて、全部終わったぜ」
「そうか。それで二人はどうなんだ」
「どうなんだって、こっちが聞きたいくらいだぜ。まず少年のほうだが、背中に強い打撲、そして肋骨が三本ほど折れている。内臓その他に傷はないが、背中の打撲はかなりのもんだし、まあ重症と言っていいだろう。ところがだ、信じられないことに、脈も呼吸も安定している。まるで昼寝でもしているようだぜ。ふつうあれだけ傷つけば、両方とも多少は不安定になるもんだが。あんな患者、見たことないぜ」
「そうか。龍夜はとりあえず大丈夫みたいだな」
「りゅうや、と言うのかあの少年。変わった名前だな。名前はともかく、安静にしていれば問題はない。そのうちなおるだろう。肋骨の骨折は、しばらく時間がかかるがな。問題は少女のほうだ」
「なにか問題でもあるのか」
「なにか問題でもじゃないぜ。問題ありすぎだ。おまえは医学は疎いから簡単に説明するが。まず、なにかよくはわからんが、何かの金属の破片が二つ、背中を突き抜けて内蔵に達している。それもご丁寧に、ふたつともかなりやばいところに。
普通の人間なら一つでも命取りになる、と言うか死んでも不思議でない、と言うより死なないほうが不思議といったほうがいいとろに、二つも傷をうけている。それなのにあの子は生きている。それ自体考えられないのに、おまけに手術ときたもんだ。
お前は手術をしてくれと言った。それはある意味正しい。あのままほっといたら、間違いなく死ぬだろうからな。しかしあんな状態で手術なんかしたら、それが原因で死んでしまう可能性が極めて高い。とは言っても、ほおっておいてもどうせ助からないなら、と言うよりさっきも言ったが普通の人間ならその前にとっくに死んでいるんだが、死ぬのを覚悟で手術をしてみた。
すると恐ろしいことに、手術が終わってもあの子はまだ生きてるんだ。並の人間ならおそらく三回死んでるぜ。あの子はいったい何なんだ」
「何なんだと言われても、知り合いとしか答えようがないが」
「進、水臭いぜ。俺とお前の仲じゃないか」
「確かにそのとおりだが、今回だけは勘弁してくれ」
「……わかった。本当ならあの子、詳しく調べて学会にでも発表したいくらいだが、だめなんだろうなあ、その顔じゃ」
「ああ、学会はもちろんのこと、とにかく内密にして欲しいんだ」
「しゃあないなあ。貸し一つだぜ」
「確かお前には、貸しが二つくらいあったはずだが」
「じゃあ、あと借り一つな」
「で、あの子は、危ないのか」
「それが、わからん」
「わからん、だって。おまえほどの医者がわからんのか」
「ああ、わからんな。今はものすごく危ない状態には違いない。ただなんども言うが、普通の人間なら三回死んでるんだ。それでも生きてる女の子のことなんか、いくら俺でも予想がつかん」
「そうか」
「とにかく今晩が山だな」
「わかった。ありがとう透」
透と呼ばれた医者は大きく一つ伸びをすると、何も言わずにその場を後にした。
目覚めると、目に入ったものは真っ白い天井だった。
――ここは、どこだ。
龍夜は起き上がろうとした。
すると背中と胸に、激しい痛みが走った。
その痛みは脳天にまで達し、両腕が指の先までしびれた。
「いってえっ」
それでも龍夜は上半身を起こし、まわりを見た。
自分はベッドの上に座っている。
そして腕に点滴が繋がっていた。
どうやらここは病院のようだ。
――そうだ、ゆづきは。
龍夜は点滴の針を抜くと、ベッドから降りようとした。
その時、部屋に二階堂が入ってきた。
「おいおい、けが人はおとなしくしとくもんだぜ」
「俺のことはいい。ゆづきはどうなった」
「ゆづきか。……正直に言おう。危ない状態だ」
「なんだって」
再びベッドから降りようとした龍夜を、二階堂が止めた。
「おまえが行ったところで、どうなるものでもないだろう。おまけに面会謝絶だ。おまえが行っても、ゆづきの回復の妨げになるだけだ」
「……」
龍夜がゆっくりとベッドに戻る。
そして点滴の針を自分で自分の腕に刺した。
「おい、大丈夫か。勝手に針なんか刺して」
「俺たちは、九龍一族は、何かのときのために、一通りの医学的知識は持っているんだ。針を刺すなんて、初歩の初歩だぜ。とにかくあいつらは、許せねえ。ぎっちょんぎっちょんにしてやる。そのためには一秒でも早く、怪我を治さないとな。それに……」
「それに……なんだ」
「それに、考えてみれば、ゆづきも九龍一族の娘だ。そう簡単にはやられる訳がないぜ」
「それならいいが」
「俺はゆづきを信じるぜ」
「なるほどな。そこまで信じあえるなんて、なんだか羨ましいな」
「おい、何言ってる、このタコ。おっさんも仲間だぜ。仲間だから、俺たちを助けに戻ったんだろうが」
「そう、視えたんだ。だから戻った」
「いったい何が視えた」
「二人の子供だ」
「ああ、あの子供か。背中についてた爆弾は、なんとかしたんだ。でもその他に爆弾は見当たらなかったのに」
「確かに背中にも爆弾は付いていた。しかしその上に、子供の腹の中にも爆弾があったんだ」
「腹の中! だって」
「俺が視たのは、オーガが子供に何かを飲ませて、腹を切り裂いてその中に時限爆弾を入れ、腹を縫い合わせたところだ。背中の爆弾はその後に、わざと見えるところに付けた。あれは、おとりだ」
それを聞いた龍夜の体が、わなわなと小刻みに震えだした。
「なんてことを、なんてことを、なんてことをしやがんだ、あいつらめ!」
「ああ。俺もとてつもなく、頭にきている」
「絶対に、絶対にぎっちょんぎっちょんに、してやるぜ」
「ああ、でもその前に、その怪我を早く治さないとな」
「いいこと言うぜ、ロリコンでブルマフェチのくせに」
「またそれかい」
龍夜はそれには答えずに横になった。
そして目を閉じた。
二階堂は部屋を出た。
そして廊下を歩いて外の小さな庭に出た。
外の空気に当たりたいと思ったからだ。
二階堂が病院の小さな庭を歩いている。
いつになく真剣な顔で。
しかし不意に、空を見上げた。
――来る。
そいつは真っ直ぐに二階堂にむかって飛んできた。
そして二階堂の目の前の地面に突き刺さった。
それは一振りの日本刀。魍魎丸であった。
「刑事さん、待たせたのう」
「おおっ、魍魎丸。もういいのか」
「おう、大復活じゃ。さあ、早くわしを手に取るがいい」
二階堂は魍魎丸を地面から抜くと構えた。
「ふんっ!」
勢いよく振り下ろすと、魍魎丸が言った。
「ほほう、気合がはいっとるのう。なかなかにいい太刀筋じゃ」
「当たり前だ。俺は今、なにがなんでもぶった切りたい奴がいるんだ」
「ほう、そうか。とにかくその調子じゃ」
二階堂は魍魎丸を振った。
振って、振って、振り続けた。
病室では龍夜が寝ている。
龍夜の体は、まるで少しでも力を無駄にしたくないかのように、ぴくりとも動かなかった。
寝息でさえほとんど聞こえてこなかった。
二階堂が相変わらず魍魎丸を振り続けている。
その時魍魎丸が言った。
「いい感じじゃな。それにしてもおぬし、すごいのう。どんどんうまくなっていっておるぞ。おまけにさっきから、休みなしで振り続けているというのに、少しも疲れを感じんぞ。すごい体力じゃのう」
「俺は子供の頃から体が丈夫なだけではなく、ずっと動き回れるという特技も持っているんだ。生まれてこのかた精神的にはともかく、肉体的に疲れるということがほとんどなかったんだ。一晩じゅうでも、振り続けていられるぜ」
「そうか。本当にすごいのう。それならそろそろあれを試してみても、いい頃かもしれんな。あれを。お互いに、気心が知れつつあることだし」
「あれとは、なんだ」
「あれとは、あれじゃよ、あれ」
「ああ、あれか」
龍夜は相変わらず寝ている。
体は全く動いていない。
呼吸数も脈拍も、著しく低下していた。
それを医者が診たらこう言っただろう。
この患者は人間なのに冬眠している、と。
二階堂が思いっきり魍魎丸を横にはらった。魍魎丸が言った。
「おしい、おしいのう。でももうちょっとじゃ」
「もう一度やってみるか」
二階堂は今度は上段に構えて魍魎丸を振り下ろした。
「うーん、あとちょっとなんじゃがなあ。で、おぬし、腕のほうは大丈夫なのか」
「おまえも知っているだろう。俺の体は、龍夜以上に丈夫なんだぜ」
「そうだったのう。じゃあわしも、遠慮なくやらせてもらうぞ」
「お互いに本気じゃないと、できやしないぜ」
二階堂は今度は肩越しに魍魎丸を構えて、勢いよく振り下ろした。
パシッ
「おおっ、できた、できたぞ」
「ああ、やっとできたな」
その時二階堂の振り下ろした剣先は、音速の壁を超えていた。
東の空が赤く染まり始めた時である。
太陽が昇ってきている。
龍夜の病室にも、朝の光がさしこんで来ていた。
そしてその光が龍夜の目にかかった時、その目が開いた。
龍夜は上半身を起こして、両手を力強く差し上げた。
「復活!」
龍夜はそのまま固まった。
ややあってゆっくりと腕をおろす。
「うーん、まだちょっといてえぜ。さすがに一晩じゃあ、完治は無理か。でもずいぶんとましにはなったぜ。えっと、それじゃあゆづきを起こしに行かないとな」
龍夜は点滴の針を抜くと部屋を出て、ゆづきの気を探った。
「ええとゆづき椿はこっちか」
龍夜が奥の部屋に入って行く。
ちょうどそこに、宿直の看護婦がやって来た。
「あらっ、あなた何をしてるんですか」
「うん?いやちょっと、ゆづきを起こそうと思ってな」
「あなたいったい、何言ってるんですか。あの子はまだまだ危ない状態です」
龍夜は彼女を無視してゆづきのベッドの横に行き、彼女の耳元に顔を近づけて言った。
「お姫様、もう起きてください。さわやかな朝ですよ」
ゆづきの閉じたまぶたの奥が、少し動いた。
やがてゆづきはその大きな目をゆっくりと開けると、龍夜を見つけて言った。
「おはようございます。龍夜様」
「おはよう、お姫様」
それを見ていた看護婦が、慌てて部屋を飛び出した。
「先生!先生!」
パシッ
パシッ
パシッ
二階堂はもう音速の剣を完全にマスターしつつあった。
その二階堂の後ろの廊下の窓から、中年の肉好きの良い看護婦が、血相を変えてどたどたと大きな音をたてて走っていくのが見えた。
「なんじゃい、ありゃあ」
「あれは、もしかすると。おい魍魎丸、柄に収まれ」
魍魎丸の刃が消える。
二階堂は魍魎丸をしまいこむと、病院の中に入って行った。
医者は目覚めたばかりだった。
ベッドから降りたところに、宿直の看護婦が巨体を揺らして寝室に飛び込んできた。
「先生、大変です。早く来てください!」
その顔をじっくりと眺めて、医者が言った。
「ああ、なにが起こったか、なんだかわかっちまったぜ」
ゆづきの病室に、上下とも真っ赤なパジャマ姿の医者が入ってきた。
そして見た。
少女のベッドの横に龍夜と二階堂が立ち、笑っている。
そして少女はベッドの上で上半身を起こし、同じように笑っていた。
少女が医者に気がついた。
「あら、先生。この度はどうもありがとうございました」
医者は長い髪をめんどくさそうにかき上げながら言った。
「もう全然大丈夫みたいだな」
「はいおかげさまで、すっかりよくなりました」
「そうか」
パジャマ姿の医者は、そのまま部屋を出た。
そして「先生!先生!」と叫ぶ看護婦を無視して、病院と続きの自分の自宅へと帰っていった。
ゆづきをはさんで龍夜と二階堂が立っている。
三人とも無言であったが、やがて二階堂が思い出したかのように言った。
「ひょっとしたら、やつらの居場所がわかるかもしれん」
「なんだって」
「いや俺も自信があるわけではないが」
「自信はこの際置いといて、いったいどうやるんだ」
「ゴブリンたちだ」
「ゴブリンたち?」
「いや、魍魎丸なら、ゴブリンたちの気を探れるのではないかと、思ったんだが」
「わしがか?」
「そうだ。どうだ、できそうか」
「うーん、それはやってみないと、わからんのう」
「できるかどうか、わかんねえってか。それじゃあやってみるしかないぜ」
「そうだな。やる価値はあるな」
「できなくても、文句は聞かんぞい」
「そんなことは言われなくても、わかってるぜ。いちいち細かいぜ、じじい。そういうわけだ、ゆづき。ちょっくらもののけ退治に、出かけてくるぜ」
「龍夜様、前にも申しましたが、あやつら何をしてくるかわかりませぬ。十分にお気をつけください」
「ああっ、今までのやり方、さんざん見てきたからな。大丈夫だ。十二分に気をつけるぜ」
「それじゃあ、そろそろ行くか」
「ああ、行こうか。行ってくるぜ。ゆづきはゆっくり休んでるんだぞ」
「はい、龍夜様、二階堂様、魍魎丸、どうかご無事で」
二人と一匹は病室を出た。ゆづきはみんなが出て行った後も病室の入り口を、いつまでも見続けていた。
左右の両側がぼこぼこになっている車が石段の下に停まった。
二階堂の車である。
龍夜と二階堂は車を降り、石段を登って奥に向かった。
そして二つの黒い穴のところで止まった。
「ここだな」
「ああ、ここに子供が二人立っていたんだ」
「……そうか」
「ここでゴブリンが消えたんだ。昨日のことだ。まだ気が残っているとしたら、ここしかない」
「わかった。わずかでも気が残っていればいいが」
二階堂は魍魎丸の柄を取り出した。
紫色の炎とともに、柄の先から魍魎丸が姿を現す。
「消えたのは、穴の手前か」
「奥側だぜ」
二階堂は魍魎丸を穴の奥の地面の上に置いた。
「今来たばっかりだが、どうだ、じじい」
「うーん、これは時間がかりそうじゃのう」
「そうか、それなら待つぜ」
龍夜が一つの穴に座り込んだ。
二階堂ももう一つの穴に座り込む。
日はすっかり昇っていた。
空は澄みわたり、いつもなら気持ちのいい朝と言えるだろう。
しかし今はそれどころではない。
龍夜と二階堂は二人とも空など見ずに、魍魎丸とそして時折自分の座ってる穴を見るだけであった。
二人とも何も語らなかった。
暗く広い洞窟の中、オーガたちが集まっている。その顔は完全に崩れており、目と鼻と口がてんでばらばらの位置にあった。目の上に口が乗っかっている者までいる。そしてオーガたちは笑っていた。
〝今度こそやっつけたみたいだね〟
〝うん、やっつけた、やっつけた〟
〝うん、爆弾でばらばらだ〟
〝ばらばらだあ〟
〝とうとうドラゴンの子倒した奴、僕らが殺したよ〟
〝うん、殺したね〟
〝これで帰ったら、おお威張り出来るね〟
〝うん、できるできる〟
〝わーい、うれしいなあ〟
〝でも二階堂とか言う奴が、まだ残ってるよ〟
〝ああ、あいつね。あいつ一人じゃ、何もできやしないよ〟
〝そうそう〟
〝気が向いたときにでも、殺せばいいんじゃない〟
〝そうだね。それがいいね〟
〝でもようやくこれで、人間の子供食べ放題だね〟
〝そう食べるだけ食べて、それから帰ろうね〟
〝とは言っても、今はお腹いっぱいだ〟
〝僕もお腹いっぱい〟
〝僕も〟
〝じゃあお祝いは、明日にしようか〟
〝うん、明日子供いっぱい取ってきて、みんなで食べよう〟
〝さんせーい〟
〝そうしよう、そうしよう〟
オーガたちは再び全員、けらけらと笑い出した。
それを洞窟の隅でゴブリンたちが見ている。
ゴブリンたちの目は、憎しみに満ちていた。
東にあった太陽は南に高く上り、やがて西へと向かっていた。
周りの景色が徐々に赤く染まりだしている。
龍夜はなにも言わず、動かない。
二階堂も何も言わず、全く動かなかった。
その時不意に魍魎丸が言った。
「うんっ、なんかこれは……おおっ、見つけたぞ」
「おうっ、じじい、やっと見つけやがったか」
「で、あいつらは、何処だ」
「まあ待つんじゃ。うーん、もうちょっとなんじゃがなあ。龍夜、刑事さん、ちょっと二人の力を貸してくれぬか」
「貸すって、どうやるんだ」
「ちゃんと言わねえと、わからねえぜ」
「わしは気を探っているんじゃ。わずかじゃがゴブリンたちの気を見つけたんじゃが、もうひとつはっきりせんのう。だからそこにおぬしたちの気をぶつけて欲しいんじゃ。そうすればゴブリンたちのわずかな気が、もっとはっきりするじゃろうて」
二階堂が聞いた。
「気をぶつけるって?」
「そうじゃ。まあ、気のことじゃから、まさに気持ちの問題じゃな。おぬしたちの両手を、わしに向けてかざして強く想うんじゃ。どうかゴブリンたちの気をはっきりさせてください、お願いします、とな。おぬしたちの想いが強ければ強いほど、ゴブリンの気もはっきりするというわけじゃ」
龍夜が言った。
「わかった。やってみるぜ、じじい」
「とにかくやってみよう」
龍夜が魍魎丸に手をかざし、目を閉じる。
二階堂もそれに習った。
二人とも心の底からゴブリンたちの気がはっきりすることを願っていた。
ゆづきの病室。
ゆづきがベッドの上で正座をし、目を閉じて両手で印を結んでいる。
そして何事かをつぶやいていた。
それをドアの細い隙間から、一人の看護婦が見ている。
そこへ忘れ物を取りに戻った医者が通りかかった。
「おい、なにをしてる」
「あっ、先生。あれ」
医者は看護婦と同じようにドアの隙間から中を覗いた。
「ああ、あれね。あの子のことは、ほっとけ」
「でも先生」
その時、ずっと閉じていたゆづきの大きな目が開いた。
そしてドアの隙間越しに医者を見て言った。
「先生。実は先生に折り入ってお頼みしたいことがございます。よろしいでしょうか」
医者はゆっくりとドアを開け、中に入った。
そしてベッドに片肘をつき、ゆづきの顔をのぞきこんで笑いながら言った。
「聞きましょう。この曽根崎透、お嬢ちゃんの頼みなら、なんでも聞きますよ。俺はなんだか自分でもよくわからねえが、とにかくお嬢ちゃんが、えらく気に入ってしまったんだよなあ」
太陽はすっかり沈んでいた。
二人はあい変わらずに気を送り続けている。
誰も動かない。誰もしゃべらない。
その時不意に魍魎丸が叫んだ。
「龍夜、刑事さん! とうとう出たぞ。二人とも、ようやった。見るんじゃ。あれがゴブリンの飛んだ跡じゃ」
二人は目を開けた。
魍魎丸の上のあたりに淡く白い光がもやっていた。
見ているとその光の中から、するすると一本の白い光の棒が伸びていっている。
その光の棒は大きくカーブを描きながら、山のむこうへと伸びていた。二階堂が言った。
「あのレーザービームがゴブリンの飛んだ跡か」
「ああそのようだな。おっさん、オーガどもはあの光に先にいるぜ」
「行くか」
「行かいでかい」
龍夜が立ち上る。
二階堂も立ち上がり、魍魎丸を手にとった。
走り続けていた二階堂の車が止まった。
中から龍夜と二階堂が降りてくる。
二人の目の前に、白く輝く光の棒が伸びている。
そしてその棒は、大きな崖にある穴の中へと伸びていた。
龍夜が言った。
「昔ここに来たことがあるぜ。子供の頃、何回か中に入って遊んだことがあった。あいつらこんなに近くにいたとは、思ってもいなかったぜ」
「まあ奴らの狙いがおまえなら、近くにいたとしても不思議じゃない。近くでわかりにくい所が一番だな」
「言われてみれば、そうだな。そんじゃあ、ぼちぼち行くぜ」
二人は穴の中に入ろうとした。
その時、後方から低く響く爆音が聞こえてきた。
見れば、カーブの続く下の細い道をぬって、何かがこちらの方へ登って来ている。
それは一本の光を前に向けて照らしていた。
暗くてよくは見えないが音と光から判断して、一台のバイクのように思えた。
やがてそれが二人の前に現れた。
一台の大型バイク、ハーレーダビットソン製のローライダーだ。
運転しているのは男のようだ。
真っ赤なヘルメットに赤い皮のつなぎ、赤い手袋に赤いライダーブーツを履いている。
その全身真っ赤な男がバイクから降りると、後ろに小さな女の子が座っていた。
ゆづきであった。
ゆづきはバイクから降りると、龍夜のもとに駆け寄ってきた。
「龍夜様」
「このバカ!なんでこんなところに来たんだ。危ないぜ。それ以前に、いくらなんでもまだ、うろうろできる体じゃないだろう。ちょっと前まで死にかけてたんだぜ」
「いいえ、いくら龍夜様の言うことでも、聞けませぬ。ゆづきは帰りませぬ。ゆづきもいっしょに戦います」
「いいや、帰れ!帰れったら、帰れ!」
「いいえ、帰りませぬ。ゆづきは感じました。だから絶対に帰りませぬ」
「感じたって・・何を」
「病院で、病院のベッドの上で、はっきりと感じました。細かいことはわかりませぬ。何が起こるかまでは、わかりませぬ。でも強く感じたのでございます。この戦い、私がいなければ、龍夜様も、二階堂様も、魍魎丸もみんな死んでしまいます。そしてその後私も、オーガに殺されるでしょう。それでも帰れとおっしゃるのですか、龍夜様!」
「……」
「私も戦います。いいですね、龍夜様」
「……ああ、わかった」
全身真っ赤な男が近づいて来た。そ
してヘルメットを脱ぐ。二階堂が言った。
「やっぱり透か」
「進、なにやらえらくぶっそうな話をしてるじゃないか」
「……いや、聞かなかったことにしてくれ」
「いいぜ。お嬢ちゃんを運んできたことも含めて、これで貸し借りなしだぜ」
「わかった。いいだろう」
龍夜が、透と呼ばれる医者に聞いた。
「で、ゆづきの体は、どうなんだ」
「並の人間なら、とてもじゃないが動けるわけねえんだが、お嬢ちゃんは特別中の特別だ。こう言っちゃあなんだが、人間ばなれした回復力を持っている。たった一日で、普通の人間の十日分以上は治ってるぜ。でも完治と言うにはまだまだだ。激しい運動は避けたほうがいいかな。とは言っても、見たところそんなことを言える状態じゃあないみたいだがな」
「……」
二階堂が言った。
「透、今日のところは、もう帰ってくれないか」
「そうだな。そのほうがいいみたいだな。それじゃあおじゃま虫は帰るとするか」
医者がヘルメットをかぶり、ローライダーにまたがる。
そしてエンジンをかけると、ヘルメットごしに二階堂に言った。
「進、死ぬなよ。お前が死んだら、世の中が面白くなくなるからな」
「わかった。俺は死なない。心配するな」
医者は軽く手を振った。そしてバイクは走り去った。二階堂はそれを見とどけると言った。
「行ったか……さあこっちも行こうか」
「あいつ、おっさんの友達か」
「幼馴染だ。腐れ縁だぜ」
「ふーん、そうか。なかなか面白いやつだな」
「ああ、見てて飽きないぜ」
「とてもお医者様には、見えないが」
「そうだな。医者にしとくにはもったいない奴かもしれんな。刑事かやくざにでもなれば、それなりの者になっただろうに」
「俺もそう思うぜ」
「その話はここまでだ。そろそろ行くか」
「そうだな。おーいゆづき、こっちに来い」
ゆづきが龍夜に寄りそう。
「何があっても、俺のそばを離れるんじゃないぞ」
「はい、わかりました龍夜様」
三人と一匹は、穴の中に入って行った。
しばらくは細く長い道が続いていたが、突然その視界が開けた。
龍夜がいつもよりかん高い声で言った。
「おいおい、嘘だろう。いったいどうなってる。俺が子供の時は、こんなに広くはなかったぜ」
そこは洞窟とは思えないほど地面が平たく、天井もかなり高かった。
ほぼ楕円形のその空間の大きさは、小さな体育館ほどはあるだろう。
そして壁のあちこちにかがり火が燃やされている。
二階堂が床と近くの壁を見る。
「どうやら最近掘られたみたいだな」
「ああ、そのようだぜ」
ゆづきが言った。
「今視えました」
「なにが視えた」
「この洞窟です。掘っているところが視えました。オーガが命令して、最初はゴブリンたちに、そしてある程度広くなったところで、ギガントに掘らせています」
「ふーん、でもこの洞窟、ここまでは広くなかったが、オーガ十二人ならそれほど苦もなく中にいられるくらいの大きさはあったぜ。なんでわざわざ、しかもこんなに広く掘られたんだろうか」
「それはあいつらが子供だからです」
「子供だから?」
「はいそうです。わがままな子供だから、広いところに入るほうが贅沢な気分を味わえる。自分が偉くなったような気がする。その上ゴブリンやギガントをこき使っているのが楽しいから、わざわざ広くしたのでございます」
二階堂が話しに入った。
「全くなんてやつらだ」
「ほんとだぜ。聞けば聞くほど腹立つやつらだぜ」
「わしもそう思うぞ。そんなやつはわしは、大嫌いじゃ」
あたりを見回していたゆづきが言った。
「龍夜様、あいつらの姿が、見えませぬが」
「みんなそろってお留守のようだぜ」
「そうだな。それじゃあ待つか」
「わしは待つのは嫌いじゃが、しかたないのう」
三人は洞窟の中央へと進んだ。
中央には縦穴があった。
丸い直径は五メートルほどあろうか。
壁は完全に垂直になっており、深い穴である。
穴の底は全く見えない。
これもどうやら最近掘ったもののようだ。
二階堂が言った。
「なんだ、この穴は」
「かなり深そうだな。底は暗くて見えないぜ」
「この穴は、私にもわかりませぬ」
三人が穴の底を覗きこんでると、入り口のほうから何か音が聞こえてきた。
それは複数の人間の足音のように聞こえる。
三人が入り口を見ていると、背が高くて高級そうなスーツを着た団体が入ってきた。
一見人間のように見えるが、明らかに人間ではない。
その顔は、下手な福笑いでもこうはいかないと思えるほど、崩れていた。
中には流れ落ちた目が、胸のところにまで落ちているものまでいる。
龍夜が言った。
「おい、お前らがオーガか」
すると考えがたいことではあるが、確かにこちらを向いて歩いてきたはずのその団体が、龍夜の声を聞いて初めてその存在に気がついたかのように、明らかな驚きの反応を見せた。
そして龍夜、ゆづき、二階堂、さらに魍魎丸に向かって、何かが聞こえてきた。
それは耳からではなく、直接頭の中に響いてきた。
〝あれっ?〟
〝あれれっ〟
〝あれれれれっ〟
〝なんだ〟
〝なんだ、なんだ〟
〝あれっ、あいつらだよ〟
〝ほんとだ、死んでなかったんだ〟
〝うそだろ〟
〝くそっ、しぶといやつだ〟
〝でもどうやって、ここがわかったんだろう〟
〝今はそんなことどうでもいいだろう〟
“そうだ。今はそんなこと言ってる場合じゃないよ〟
〝こうなったら、みんなでやっつけちゃおうよ〟
〝そうだ、そうだ〟
〝それがいい、それがいい〟
〝それじゃあみんな、元の姿に戻ろうよ〟
〝うん、わかった〟
〟もどろう、もどろう〟
十二人はスーツを引きはがすように脱ぐと、地面に捨てた。
見ればそのスーツだったものは、いつのまにかただのぼろ布になっている。
気がつけばオーガたちの体が、濃く黒いもやに包まれていった。
そのもやはまるで生きているかのようにうねうねとうごめいていたが、やがてかき消すように消えた。
そしてオーガがその本性を現した。
その身長は三メートルはあろうか。
そして身長のわりに手足が短い。
その手足は先にいくほど太くなり、特に手首から先と足首から先の部分が、ディフォルメされたマンガのごとく、太くて大きかった。
全体的に小太りで、とりわけ下腹は太鼓のようにふくらんでいる。
そしてその頭が、これまたマンガのように大きかった。
頭でっかちの人形にも見える。
その上に目と口がそれにもまして大きい。
目はほとんどお皿のようまんまるで、全体的に鈍く光るその目に、瞳というものは見当たらない。
口は顔全体を真横に走り、その両端の上と下から大きな牙が生えている。
そして大きな頭の両端に、牛のような大きな角を生やしていた。
龍夜が言った。
「これがオーガか。全くなんて不細工なやつらなんだ」
「お前の言うとおり、ほんとに不細工だな。おもわず笑ってしまったぜ」
ゆづきが言った。
「見た目に惑わされてはいけませぬ。本当に恐ろしいやつらでございます」
「ああわかったぜ。気をつけながら戦うとするか」
その時再び、頭の中に声が響いた。
〝あいつら、不細工って、言ったよね〟
〝うん、たしかに言った〟
〝不細工って言った〟
〝僕たちのこと、不細工だって〟
〝ひどいなあ〟
〝悔しいなあ〟
〝はらたつなあ〟
〝もう、怒ったぞ〟
〝うん、怒った怒った〟
〝僕たちを怒らすと、怖いんだぞ〟
〝ほんとだぞ〟
〝やっつけてやるか〟
〝うん、やっつけようよ〟
〝じゃあ作戦その2でいくか〟
〝うん、そうしようそうしよう〟
〝おーいみんな、作戦2だぞ〟
〝うん、わかった〟
「おっさん、作戦その2とかなんとか言ってるぜ。何だかわかんねえが、一応気をつけたほうがいいようだぜ」
「ああ、そのようだな」
オーガは扇状に広がって、ゆっくりと近づいて来た。
「ふん」
龍夜は両の手に力を込めた。
右手が火龍、左手が水龍へと変化する。
二階堂が魍魎丸の柄を構える。
柄から魍魎丸がその姿を現した。
〝あっ、あれだ〟
〝あの武器だ〟
〝ドラゴンの子をやったやつだね〟
〝そうだね〟
〝はじめて見たよ〟
〝すごーい〟
〝危ないね〟
〝うん、危ないかも〟
〝いや、大丈夫だよ〟
〝あんなのたいしたことないよ〟
〝うん、たいしたことない、たいしたことない〟
「ドラゴンの子をやったやつ、だって。やっぱりおまえら知っていたんだな。そうさ、この俺が九龍龍夜だ。よくもいままで好き勝手やってくれたな。ただじゃおかねえからな。覚悟しやがれ」
その時龍夜たちに近づいて来ていたオーガたちが、突然ちりじりに走り出した。
「なんだあ」
すると何の前触れもなく、龍夜の顔に何かが覆いかぶさってきた。
龍夜はおもわず少し後方に下がった。
その時、龍夜の耳に、ゆづきと二階堂の声が聞こえてきた。
「きゃっ」
「うわっ」
龍夜は慌てて顔にしがみついていた何かを引きはがした。
それは一匹のゴブリンだった。
「くそっ」
龍夜はゴブリンを投げ飛ばし、声のした方を見た。
そこにはゆづきと二階堂が淡い光に包まれていた。
そしてその体のあちこちに、数匹のゴブリンがしがみついている。
「ゆづき!」
龍夜は手を伸ばして、ゆづきの手をつかもうとした。
しかしつかんだと思った瞬間、淡い光が一瞬強く輝き、消えた。
ゆづきはもうそこにはいなかった。
そして二階堂も同様に、ゴブリンと共に消えていた。
「しまった!」
オーガたちは笑い出した。
耳に聞える声で、けたけたと笑った。
そして笑い終えると頭の中に響く声で言った。
〝作戦2、うまくいったね〟
〝うん、うまくいった〟
〝よかったね〟
〝あとはあいつだけだね〟
〝そう、あいつ一人だ〟
〝みんなでやっつけちゃおうよ〟
〝みんなでかかれば怖くないね〟
〝そうだね〟
〝そうだそうだ〟
〝やっちゃえ、やっちゃえ〟
龍夜はちりじりのオーガたちを見た。
「おまえらゆづきとおっさん、それに魍魎丸をどこへやった」
ーガたちが再びくすくすと笑い始める。
〝どこへ、だって〟
〝やっぱり気になるのかな〟
〝そりゃ、気になるよ〟
〝あたりまえだろ〟
〝じゃあ、言っちゃおうか〟
〝うん、言っちゃおうよ〟
〝言っちゃえ、言っちゃえ〟
〝やい、よく聞けよ。あの二人は、あとなんか一匹ついていたみたいだけど、とにかく俺様がゴブリンどもに命じて、やばいところに連れてったんだよ。わかったか〟
「やばいところ……だと」
〝うん、そうだよ〟
〝やばいところだよ〟
〝とってもとっても、やばいところだよ〟
〝それはやっぱり深い深い海の底かな〟
〝はたまた燃え盛る火山の火口の中かな〟
〝どっちかなあ〟
〝どっちかだよ〟
〝うん、どっちかだね〟
〝この国はいいな。どっちもすぐ近くにあるから〟
〝うん、いいね〟
〝いいね、いいね〟
〝便利だね〟
〝そうだね〟
「深い海の底、だと……燃え盛る火山の火口の中、だと」
〝うん、そうだよ〟
〝ゴブリンどもには、ちゃんと言いつけてあるからね〟
〝うん、いいつけてあるよ。おまえら死んでもいいから、あの二人を道連れにしろっ、てね〟
「ゆづきとおっさんと、魍魎丸が……」
〝うん、死んだよ〟
〝間違いなく死んだね〟
〝そうするように、ちゃんといいつけてあるしね〟
〝ゴブリンどもは僕たちに逆らえないんだよ〟
〝逆らえないんだよ〟
〝仲間をいっぱい人質にとってあるからね〟
〝だから絶対に言うことを聞くんだよ〟
龍夜は目を見開いてオーガたちを見ていたが、やがてがっくりと頭を下げた。
そして全く動かなくなった。
〝あれ、止まっちゃったよ〟
〝なんかあったんじゃないの〟
〝なにがあったのかな〟
やがて龍夜の体は、小刻みに震えだした。
〝あれっ、あいつ震えてるよ〟
〝あっ、ほんとだ〟
〝なんで震えてるんだろう〟
〝そうだ、僕たちが怖いんだ〟
〝うん、怖いんだ〟
〝怖がってるんだ〟
〝あいつ弱虫だ〟
〝そうだ弱虫だ〟
〝やーい、やーい弱虫、弱虫〟
〝いじけ虫〟
龍夜の震えが激しくなっている。
しかし突然その震えが止まった。
そして龍夜の口から何かが小さく漏れてきた。
「くっ、くっ、くっ、くっ、くっ」
〝あれっ、あいつ泣いているのか〟
〝いや、僕には笑っているように聞こえるけど〟
「くっ、くっ、くっ、くっ、くっ」
その声はだんだんと大きくなっている。
〝やっぱり笑ってるよ〟
〝いややっぱり泣いているようにも聞こえるけど〟
「くっ、くっ、くっ、くっ、はっ、はっ、はっはっ」
〝ほら、やっぱり笑ってるよ〟
〝ほんとだ。仲間が死んだのに笑うなんて、頭がおかしいんじゃないの〟
〝こいつおかしいんだ〟
〝おかしい、おかしい〝
〝ばかだ、ばかだ〟
「はっ、はっ、はっはっ、はははははははははははははははははははははははははははは、はーーーーーっ」
龍夜は顔を上げた。
その顔は、その大きな目が極限まで見開かれ、口が不自然なほどこれまた大きく開かれており、口の両端がいびつにつり上がっていた。
目からは大量の涙があふれ出し続けている。
怒りとも笑いともどちらとも言えない顔ではあったが、ただ一つ言えることは、その表情からは理性とか知性といったものは、何一つ感じられなかった。
そこにあるのはただ一つ、狂気である。
龍夜は叫んだ。とてつもなく大きな声で。
「おまえらみんな、ぶっ殺す!」
〝ひっ!〟
〝なんだ?〟
〝なんだ、なんだ〟
〝びっくりした〟
〝怖い〟
〝怖いよう〟
〝なんか知らないけど、無茶苦茶怖い〟
〝逃げろ!〟
オーガたちは逃げ出した。
龍夜がそのあとを追って行った。
洞窟の外で、二匹のゴブリンが顔をつき合わせている。
一匹のゴブリンがテレパシーで言った。
〝どうするか〟
もう一方が答える。
〝もうするべきことは、決まっている〟
〝そうか、やはりそうするか〟
〝そうするしかないようだな〟
〝わかった。そうしよう〟
二匹は軽くうなずくと、その場を後にした。
洞窟の中は修羅場となっていた。
十二人のオーガたちがその巨体を太鼓腹を揺らしながら、右へ左へと逃げ回っている。
それを体重が五分の一にも満たないであろう龍夜が、狂ったようにと言うより、狂人そのものとなって追い掛け回している。
そして火龍と水龍でオーガたちを殴りつけていた。
オーガたちはその巨体のわりには素早い動きではあったが、龍夜のほうが上回っていた。
もし龍夜が冷静であれば、十二人全てのオーガをすでにねじ伏せていただろう。
しかし一人のオーガを追いかけていたかと思えば、そのオーガに追いつく前に近くにいる別のオーガに目標を変える。
そしてそのオーガに追いつく前に、またしても別のオーガを追いかけるのである。
そんなことを繰りかえしているがために、まだ立って走り回っているオーガの数が多かった。
それでも幾人かのオーガが地面に転がって呻いている。
効率はともかく、いずれは全てのオーガがぶちのめされるのも時間の問題かと思われた時、一人のオーガが叫んだ。
〝合体だ!〟
まわりのオーガたちがそれに答える。
〝そうだ合体だ〟
〝合体しよう〟
〝うん、わかった〟
〝それしかない〟
〝すーぱーオーガになるんだ〟
数人のオーガが地面でぐったりしているオーガのもとへと駆け寄り、その手をとった。
残りのオーガたちも二人一組となって手をつないだ。
するとオーガたちの体が、黒く鈍いもやに包まれた。
――なにっ?
龍夜の理性がいくつかもどり、その分の狂気を外に押し出した。
まだ目から流れ落ちる涙は止まってはいなかったが、これ以上はないと思われるほど見開かれていた眼が、それに比べるとわずかばかり閉じている。
オーガたちは龍夜の見ている前でさらに濃いもや包まれたかと、そのもやが急に消えた。
見れば二人一組になっていたはずのオーガが、一人づつになっている。
つまりオーガの数が六人になっていたのだ。
そして数が半分になっていることを除けば、オーガの姿かたちは特に変化はなかった。
ただ一つ、皮膚の色だけがさっきよりもわずかに赤みを帯びている。
――いったい何があったんだ。
その龍夜の疑問に答えるかのように、オーガが言った。
〝僕たち合体したんだ〝
〝僕たち合体したんだ〝
〝どうだ驚いただろう〟
〝どうだ驚いただろう〟
〝これがすーぱーオーガだもんね〟
〝これがすーぱーオーガだもんね〟
〝見た目はあんまり変わんないだけど〟
〝見た目はあんまり変わんないだけど〟
〝中身は全然違うぞ〟
〝中身は全然違うぞ〟
〝よし、今度こそやっつけちゃおうよ〟
〝よし、今度こそやっつけちゃおうよ〟
〝うん、そうしよう〟
〝うん、そうしよう〟
〝いくぞーっ〟
〝いくぞーっ〟
六人のオーガが龍夜のまわりをぐるりと取り囲んだ。
そしてそのうちの四人が前後左右から、龍夜に襲いかかって来た。
〝パシッ、パシッ、パシッ〟
音速を超える音が三つ聞こえてきた。
次の瞬間〝ぼこっ〟と言う音が、洞窟内で響いた。
龍夜のまわりにいるオーガのうち三人が後方に倒れつつある。
しかし残る一人が振り下ろしたばかでかい拳が、龍夜の胸を直撃した。
龍夜はバランスを崩しかけたが倒れる一歩手前でふんばり、逆にそのオーガの腹に、火龍を叩き込んだ。
〝パシッ〟
音速を超える音がした後、地面に倒れたオーガは四人となっていた。
龍夜は完全に理性を取り戻し、残る二人のオーガを鋭い目でけん制した後、龍の腕を構えた。
しかしその姿とは裏腹に、龍夜の心の中に軽い動揺が渦巻いていた。
――こいつらさっきと全然違う。強くなってやがる。
オーガが十二人いた時、龍夜は狂気の中にいたが、それでも理性を取り戻した今その時の手ごたえ、つまりオーガを殴りつけた時の龍の腕の感触を思い出していた。
それはとても三メートルもの巨人を殴ったとは思えないものだった。
もちろん龍の腕の強い力にもよるだろう。
それでも十二人の時のオーガの手ごたえは、軽い人形、あるいはぬいぐるみか何かを叩いたとしか思えないものだった。
ところが今殴りつけたオーガは全然違っていた。
龍の腕ではなく、素手で自分よりわずかに体重の軽い人間を殴ったような手ごたえがあった。
そして十二人の時は、一度殴りつけたオーガはそのまま起き上がることはなかったが、たった今倒したはずの四人オーガが、もうすでに自分の足で立っている。
それでも何事もなかったかのようにオーガを見つめる龍夜を見て、オーガが言った。
〝いってぇ〟
〝いってぇ〟
〝うん、いたかった〟
〝うん、いたかった〟
〝あいつ思ったよりも強いよ〟
〝あいつ思ったよりも強いよ〟
〝すーぱーオーガでも勝てないなんて〟
〝すーぱーオーガでも勝てないなんて〟
〝どうしよう〟
〝どうしよう〟
〝そんなの決まってるだろう。すーぱーオーガがだめなら、はいぱーオーガになればいいんだ〟
〝そんなの決まってるだろう。すーぱーオーガがだめなら、はいぱーオーガになればいいんだ〟
〝そうだ、そうだ〟
〝そうだ、そうだ〟
〝それがいい〟
〝それがいい〟
〝そうしよう〟
〝そうしよう〟
六人のオーガが再び二人一組になると、先ほどと同じように黒いもやに包まれた。
そしてそのもやがさらに濃くなり、そして激しく動いたかと思うとすっと消えた。
そして六人のオーガは三人になっていた。
〝これが、はいぱーオーガだよ〝
〝これが、はいぱーオーガだよ〝
〝これが、はいぱーオーガだよ〝
〝これが、はいぱーオーガだよ〝
〝そうそう、これで君の勝ち目はないね〟
〝そうそう、これで君の勝ち目はないね〟
〝そうそう、これで君の勝ち目はないね〟
〝そうそう、これで君の勝ち目はないね〟
〝もう終わりだね〟
〝もう終わりだね〟
〝もう終わりだね〟
〝もう終わりだね〟
〝やっちゃえ〟
〝やっちゃえ〟
〝やっちゃえ〟
〝やっちゃえ〟
三人のオーガは右と左、そして前から龍夜を取り囲んだ。
〝いくぞー〟
〝いくぞー〟
〝いくぞー〟
〝いくぞー〟
龍夜は右から来たオーガを火龍で、左から来たオーガを水龍で受け止めた。
次の瞬間、正面から来たオーガが、龍夜の胸のあたりを殴りつけた。
ぼきっ
肋骨の折れる音と共に、龍夜の体が崩れるように倒れた。
「ぐふっ」
龍夜は起き上がろうとしたが、すぐには起き上がれなかった。
胸の痛みは半端ではない。
それでも小刻みに体を震わせながら、なんとか立ち上がった。
胸の痛みだけではなかった。
二人のオーガを受け止めた火龍と水龍の腕にも重い痛みがあり、じーんとしびれている。
龍夜はゆっくりと火龍と水龍を振った。
それだけでも胸に電気が走り、龍夜はうずくまってしまった。
〝うん、ダメージあるみたいだな〟
〝うん、ダメージあるみたいだな〟
〝うん、ダメージあるみたいだな〟
〝うん、ダメージあるみたいだな〟
〝こっちも少しあるけど〟
〝こっちも少しあるけど〟
〝こっちも少しあるけど〟
〝こっちも少しあるけど〟
〝あっちのほうが、ずっと大きいよ〟
〝あっちのほうが、ずっと大きいよ〟
〝あっちのほうが、ずっと大きいよ〟
〝あっちのほうが、ずっと大きいよ〟
〝うん、そうだね〟
〝うん、そうだね〟
〝うん、そうだね〟
〝うん、そうだね〟
〝もう少しだね〟
〝もう少しだね〟
〝もう少しだね〟
〝もう少しだね〟
〝もう一度、いっちゃえ〟
〝もう一度、いっちゃえ〟
〝もう一度、いっちゃえ〟
〝もう一度、いっちゃえ〟
再び左右と前からオーガが同時に襲ってきた。
龍夜は今度はおもわず自分の胸をかばった。
左から来るオーガを水龍で、正面から来るオーガを火龍で殴りつけた。
しかし右から来たオーガのばかでかい拳が、龍夜の頭にもろに突き刺さる。
龍夜の体はまたもや地に横たわった。
頭がくらくらする。目に映る洞窟の高い天井が、ぐるぐる回って見える。
それでも体を震わせながら龍夜は起き上がろうとした。
火龍と水龍はダメージのためかほとんど感覚がなくなり、体を持ち上げるために地面を押しても、日のあたることのない岩の冷たさを、全く感じなくなっていた。
「くっそーーーーーっ」
二匹の龍は半死状態、胸には強烈な痛み、そして頭は正常に働いていない。
それでも龍夜は立ち上がろうとしていた。
立ち上がろうとしては地面に倒れ、再び立ち上がろうとして、また倒れた。
そして何回かの試みの後、龍夜はようやく立ち上がることが出来た。
その足元はふらつき、目の焦点は定まらず、顔中に粘っこい大汗をかいている。
そんな龍夜をオーガたちは、にやけた表情を浮かべたまま見ていた。
〝あいつ、やっと立ったよ〟
〝あいつ、やっと立ったよ〟
〝あいつ、やっと立ったよ〟
〝あいつ、やっと立ったよ〟
〝これでもう一度楽しめるね〟
〝これでもう一度楽しめるね〟
〝これでもう一度楽しめるね〟
〝これでもう一度楽しめるね〟
〝でも次はもう死ぬね〟
〝でも次はもう死ぬね〟
〝でも次はもう死ぬね〟
〝でも次はもう死ぬね〟
〝うん、そうだね〟
〝うん、そうだね〟
〝うん、そうだね〟
〝うん、そうだね〟
〝間違いなく死ぬね〟
〝間違いなく死ぬね〟
〝間違いなく死ぬね〟
〝間違いなく死ぬね〟
〝それじゃあ、これで終わりだ〟
〝それじゃあ、これで終わりだ〟
〝それじゃあ、これで終わりだ〟
〝それじゃあ、これで終わりだ〟
〝死ねーーっ〟
〝死ねーーっ〟
〝死ねーーっ〟
〝死ねーーっ〟
三人のオーガが真っ直ぐ龍夜に向かってきた。
その時である。
「お待ちなさい」
洞窟の奥から声がした。
そこには白く淡い光に包まれたものがあったが、ほどなくその姿を現した。
それはゆづきとゴブリンたちだった。
「ゆづき!」
龍夜の目はぼやけていてピントが合わず、オーガの後ろに立つゆづきが三人にも四人にも見えたが、それでもゆづきであることはしっかりと確認した。
〝なんだ〟
〝なんだ〟
〝なんだ〟
〝なんだ〟
〝帰ってきたぞ〟
〝帰ってきたぞ〟
〝帰ってきたぞ〟
〝帰ってきたぞ〟
〝うそだろう〟
〝うそだろう〟
〝うそだろう〟
〝うそだろう〟
〝なんで帰ってきたんだ〟
〝なんで帰ってきたんだ〟
〝なんで帰ってきたんだ〟
〝なんで帰ってきたんだ〟
〝ゴブリンども、俺たちに逆らったな〟
〝ゴブリンども、俺たちに逆らったな〟
〝ゴブリンども、俺たちに逆らったな〟
〝ゴブリンども、俺たちに逆らったな〟
〝おい、おまえらそんなことをしたら、どうなるのかわかっているのか〟
〝おい、おまえらそんなことをしたら、どうなるのかわかっているのか〟
〝おい、おまえらそんなことをしたら、どうなるのかわかっているのか〟
〝おい、おまえらそんなことをしたら、どうなるのかわかっているのか〟
〝仲間みんな殺しちゃうぞ〟
〝仲間みんな殺しちゃうぞ〟
〝仲間みんな殺しちゃうぞ〟
〝仲間みんな殺しちゃうぞ〟
〝それでもいいのか〟
〝それでもいいのか〟
〝それでもいいのか〟
〝それでもいいのか〟
ゆづきの前に一匹のゴブリンが立ち、オーガにむかって言った。
〝この女の子に触れたとき、私はとても暖かくて大きなものを感じました。それはとても穏やかで安心できるものでした。その時私は思いました。こんな女の子を殺すなんて、私にはとてもできないと。と同時にもう一つのことを考えました。
それはこの人達なら私達を助けてくれるかもしれない。つまりあなたがたオーガを、全員倒してくれるかもしれないと思ったのです。私達はみんなで話し合い、この人達にかけてみる事にしました。ですからあなたがたの命令を聞かなかったのです〟
〝なんだってぇ〟
〝なんだってぇ〟
〝なんだってぇ〟
〝なんだってぇ〟
その時かがり火を反射して何かが光った。
〝ぎゃっ〟
〝ぎゃっ〟
〝ぎゃっ〟
〝ぎゃっ〟
見ればゆづきと反対側にいたオーガの後ろに二階堂が立っていた。
そして手にした魍魎丸が、オーガの腹を貫いている。
光ったのは魍魎丸である。
二階堂の横にいた一匹のゴブリンが前に進み、言った。
〝この男の人からは、強さ、勇気、正しい心と言ったものを感じました。そこであの女の子を助けることに決めた私達は、ついでにこの人も助けることにしました。これで全員がそろいました。死ぬのはオーガ、あなた方のほうです〟
「俺は、ついでかい」
二階堂は魍魎丸をオーガの腹から抜くと、今度は横に大きく振った。
〝ぎゃーーーっ〟
〝ぎゃーーーっ〟
〝ぎゃーーーっ〟
〝ぎゃーーーっ〟
オーガの体が上半身と下半身に分かれた。
その双方が地面に落ちたかと思うと、その体が黒いもやに包まれた。
そしてもやが消えたとき、オーガは四人になって地面に転がってた。
そして倒れていたオーガたちは、なんとか起き上がろうとしていた。
「させるか」
パシッ
パシッ
パシッ
パシッ
音速を超える音が洞窟内に四つ響いた。
立ち上がろうとしていたオーガたちの四つの首が、ころりと地面に落ちた。
首をなくした体が、まるでスローモーションのようにゆっくりと地面に倒れる。
やがて首と体が再び黒いもやに包まれた。
そしてそのもやが消えた後、そこには何もなくなっていた。
龍夜はようやく焦点が定まりつつある目で二階堂を見て言った。
「おっさん、驚いたぜ。音速の剣をマスターしたんだな」
「ああ、この俺をなめんじゃないぜ」
「このわしもな」
〝くそーーーっ〟
〝くそーーーっ〟
〝くそーーーっ〟
〝くそーーーっ〟
〝くそーーーっ〟
〝くそーーーっ〟
〝くそーーーっ〟
〝くそーーーっ〟
二人のオーガが同時に龍夜にむかって来た。
「させません!」
ゆづきは両腕を袖の中にいれ、そして何かを一斉に投げた。
それは何十枚という九龍のお札である。
そのお札の群れは、全て龍夜の右にいるオーガにむかって飛んだ。
そしてその大きな体にまんべんなくへばりつき、激しく燃え上がった。
〝ぎやーーーっ!〟
〝ぎやーーーっ!〟
〝ぎやーーーっ!〟
〝ぎやーーーっ!〟
〝なんだあ、あいつ燃えてるぞ〟
〝なんだあ、あいつ燃えてるぞ〟
〝なんだあ、あいつ燃えてるぞ〟
〝なんだあ、あいつ燃えてるぞ〟
燃えていないオーガは、全身が燃え上がり地面に転がり続けているオーガをじっと見ている。
龍夜は拝むような格好で二匹の龍をそろえ、オーガにむかって言った。
「おまえの相手はこっちだぜ」
そして完全に一体化した火龍と水龍を、目の前で突っ立ているオーガの腹に、思いっきり差し込んだ。
〝うわーーっ〟
〝うわーーっ〟
〝うわーーっ〟
〝うわーーっ〟
「ふんっ!」
オーガの体の中の右側から赤く強い光が、まるでレーザービームのようにいくつも飛び出してきた。
次に左側から青く強い光が、同じように次々とあふれ出す。
〝ぎゃーーっ〟
〝ぎゃーーっ〟
〝ぎゃーーっ〟
〝ぎゃーーっ〟
オーガの体の中で、赤い熱風と青い冷気が、激しく渦巻いている。
「おまえはこれで終わりだ。死ね!」
オーガの全身が赤と青の光に包まれた。
見ているとしだいに黒いもやが現れて、赤と青と混ざり合う。
それらは激しく光ったかと思うと、ゆっくりと消えた。
その時オーガの体も同じく消え去っていた。
「おう、龍夜、やったな」
二階堂が龍夜のもとに駆け寄ってきた。
龍夜はその二階堂を思いっきり突き飛ばすと、ゆづきのもとへと走った。
「ゆづき!」
「龍夜様!」
二人は強く抱き合った。
「ゆづき!よく帰ってきた。てっきり死んでしまったのかと、思ってたぞ。いてててててっ」
「龍夜様、大丈夫ですか」
「もちろん大丈夫さ。いてててててっ」
ゆづきは自らゆっくりと龍夜から離れた。
「胸、お痛みになりますか」
「うーん、ほんとはものすごく痛いぜ」
二階堂が駆け寄ってきた。
「おいおい、感動の再会のところ悪いが、俺を突き飛ばして行くことはないだろう。けっこう痛かったぜ」
「えっ、おっさんを突き飛ばしたってか。全然覚えがないぜ」
「たった今、突き飛ばしただろうが」
「わりいなあ。なんせゆづきしか見えてなかったもんで」
「まったく、こいつだけは」
ゴブリンたちが龍夜たちのところに歩み寄ってきた。
先頭のゴブリンが頭の中に話しかけてくる。
〝あなたたちには、いろいろとご迷惑をおかけしました。本当に悪かったと思っています〟
「いやこっちこそあんた達の仲間を、何匹かやっちまってる。悪いことしたと思ってるぜ」
〝それは私達が、オーガに強要されたとは言え、人間の子供たちをさらったからです。あなたがたは悪くはありません。それと・・〟
「それと、なんだ」
〝十二人いたオーガたちのうち、八人まであなたがたが倒してくれました。これであの鎖を断ち切って、仲間たちを助けつことができます〟
「あの鎖とはなんだい」
〝私達の仲間の多くが、オーガたちに鎖でつながれているのです。人質と言うわけです。おまけにその鎖には不思議な力が宿っていて、そのために仲間たちは鎖を切ることも飛ぶことも、出来ないでいるのです。オーガたちが集まって、なにか怪しい魔法でもかけたようです。しかしオーガが四人になった今、その力はかなり弱まっていると思われます。それに……〟
ゴブリンはさっきからずっと火に包まれたまま地面を転がり続けているオーガを見た。
〝オーガはあと四人です。あなたがたなら楽に倒すことができるでしょう。私達は仲間を一刻も早く助けたいので、これで失礼します。本当にありがとうございました〟
そう言うとゴブリンたちは集まり、お互いの手を取った。
ゴブリンたちは淡く白い光に包まれ、強く輝いた後に消えた。
「行ったな」
龍夜がそうつぶやいた後、地面を転がり続けていたオーガがゆっくりと立ち上がった。
ようやく火が消えたようだ。
オーガは起き上がると同時に龍夜たちに気付いた。
〝ひっ!〟
〝ひっ!〟
〝ひっ!〟
〝ひっ!〟
ただでさえばかでかい目をさらに大きくして、洞窟の奥へと後ずさって行く。
「おやおや、仲間がみんなやられておまけにゴブリンたちにもそっぽむかれて、かわいそうなこったな。で、逃げる気かい。でもおまえは絶対に逃がさねえぜ。だいいち入り口は反対側だろうが、このバカオーガが」
龍夜がオーガの後を追った。
二階堂そしてゆづきがその後に続く。
龍夜たちはじりじりとオーガを追い詰めた。
そしてとうとうオーガは、洞窟の一番奥にある中央がへこんだ大岩のへこみに、その背をつけた。
「もう後がないぜ。覚悟しな」
その時ゆづきが突然叫んだ。
「危ない!龍夜様」
ゆづきが叫ぶと同時に、オーガが右手と左手で、何かを下に引っ張った。
それは上から吊り下げられていた二本の細いロープである。
次の瞬間、龍夜の体が吹っ飛んだ。
そして二階堂の体の上に、大きな音とともに何かが落ちてきた。
「わっ!」
「うわっ!」
見ればロープでつるされた巨大な丸太に、龍夜の体がものすごい勢いで押されている。
そして丸太に飛ばされて地面に落ちた後も龍夜はごろごろと転がり続けて、そのまま中央の大きな穴の中に落ちてしまった。
ゆづきは反射的に二階堂を見た。
二階堂は上から落ちてきた大小さまざまな岩の下敷きとなっている。
そして完全にその気を失っていた。
そしてオーガを見れば、残ったもう一本のロープを今まさに引こうとしている。
ゆづきは素早く袖の中に手を入れ、お札を投げた。
それはいざと言うときのためにとっておいた、最後の一枚である。
お札はくるくると回転しながら飛んでいった。
オーガがロープを引くのとお札がロープにあたるのと、ほぼ同時だった。
オーガはそのままロープを引っ張ったが、そのロープはすでに切れていた。
お札がほぼ直角に数回曲がって飛び、オーガに向かっていく。
しかしオーガが手にしていたロープの切れ端でお札を叩くと、お札は二枚に裂けて地面に落ち、そのまま動かなくなってしまった。
〝わーい、うまく罠に引っかかったぞ〟
〝わーい、うまく罠に引っかかったぞ〟
〝わーい、うまく罠に引っかかったぞ〟
〝わーい、うまく罠に引っかかったぞ〟
〝最後の罠が使えなかったのが、なんだか悔しいけど〟
〝最後の罠が使えなかったのが、なんだか悔しいけど〟
〝最後の罠が使えなかったのが、なんだか悔しいけど〟
〝最後の罠が使えなかったのが、なんだか悔しいけど〟
〝でも残るはあのチビ一人だけだよ〟
〝でも残るはあのチビ一人だけだよ〟
〝でも残るはあのチビ一人だけだよ〟
〝でも残るはあのチビ一人だけだよ〟
〝さっさと殺しちゃおうか〟
〝さっさと殺しちゃおうか〟
〝さっさと殺しちゃおうか〟
〝さっさと殺しちゃおうか〟
〝うんそうしよう、そうしよう〟
〝うんそうしよう、そうしよう〟
〝うんそうしよう、そうしよう〟
〝うんそうしよう、そうしよう〟
オーガがゆづきに迫ってくる。
ゆづきは入り口に向けて走った。しかしもう少しのところで入り口という時に、突然前をふさがれた。
追いついたオーガに回り込まれたのだ。
〝人間の女の子にしては、やけに速いね〟
〝人間の女の子にしては、やけに速いね〟
〝人間の女の子にしては、やけに速いね〟
〝人間の女の子にしては、やけに速いね〟
〝でも僕のほうが速かったね〟
〝でも僕のほうが速かったね〟
〝でも僕のほうが速かったね〟
〝でも僕のほうが速かったね〟
〝残念だったね。もうちょっとだったのに〟
〝残念だったね。もうちょっとだったのに〟
〝残念だったね。もうちょっとだったのに〟
〝残念だったね。もうちょっとだったのに〟
〝もう逃げ場はないね〟
〝もう逃げ場はないね〟
〝もう逃げ場はないね〟
〝もう逃げ場はないね〟
〝終わりだね〟
〝終わりだね〟
〝終わりだね〟
〝終わりだね〟
ゆづきはオーガをその目でしっかりと捉えたまま、じりじりと後ろに下がっていった。
龍夜が気がついた時は、深い穴の底だった。
背中から落ちたらしく、強烈な痛みがある。
胸も同様の痛みがあり、体全体がしびれている。
体を少しでも動かすと、さらに強い痛みが胸と背中に走った。
それでもなんとか立ち上がろうと地面に手をついた時、その手に何かがあたった。
――なんだ?
それは骨だった。間違いなく人間の子供の骨である。
何人もの子供の骨が、穴の底に転がっていた。
――あいつら、こんなところに……。
龍夜は怒りに震えた。
しかし今はそんな場合ではない。
ゆづきが心配だ。
なんとか立ち上がった龍夜の目に、何かが映った。
それは巨大な骨だった。
頭蓋骨を含めたそのばかでかい骨は、どう見てもギガントの骨だった。
――あいつら、ギガントまで食ったのか。
ギガントの骨を横目で見ながら、龍夜は穴の壁のところにたどり着いた。
そして壁面をつかみ、壁を登ろうとした。
しかし穴の壁面は垂直で、おまけにまるで鏡のようになめらかで、手の指どころか爪の先を引っ掛ける隙間もない。
それでもなんとか登ろうとしたが、全く上がれる気配がなかった。
「くそっ、ゆづきはいったいどうなってる」
龍夜はゆづきの気を探った。
今のところ体の気は大丈夫のようだ。
しかし心の気が、ゆづきにしては激しく乱れている。
それはゆづきの目の前に、死が迫っていると言う事態に他ならない。
「ええいっ、それじゃあおっさんは」
龍夜は二階堂の気を探した。
嗅ぎつけた二階堂の気は、ずいぶんと小さなものになっている。
それは彼が意識を失っていることを意味していた。
「あんにゃろう、かんじんな時に、またのびてやんな」
龍夜は再度壁のぼりを試みた。
しかしその壁面は、たとえ何年かかっても登れそうにはなかった。
じりじりと後退していたゆづきだったが、いつの間にか入り口の反対側、楕円形の洞窟の一番奥に追いやられていた。
そこはついさっきオーガが追い詰められていた大岩のくぼみのところだ。
もう後ろに逃げ場はない。
かといって右か左に逃げたとしても、すんなり通してくれるとは、とても思えなかった。
オーガはもう手を伸ばせば届きそうな距離に立っている。
そしてその醜い鬼の顔がにやにや笑っていた。
〝もう後がないよ〟
〝もう後がないよ〟
〝もう後がないよ〟
〝もう後がないよ〟
〝これでほんとに最後だね〟
〝これでほんとに最後だね〟
〝これでほんとに最後だね〟
〝これでほんとに最後だね〟
〝終わりだね〟
〝終わりだね〟
〝終わりだね〟
〝終わりだね〟
〝じゃあ、死ね!〟
〝じゃあ、死ね!〟
〝じゃあ、死ね!〟
〝じゃあ、死ね!〟
オーガの大きな手が、ゆづきの細い首をつかんだ。
そしてその手にゆっくりと力を込めていく。
「うううっ」
ゆづきの顔が苦痛に歪む。
そしてその顔色が、どんどん血の気を無くしていった。
その時である。
「待ちな!」
大きな声がして、洞窟じゅうに響いた。
龍夜の声である。
オーガは慌ててまわりを見たが、龍夜の姿はどこにも見当たらなかった。
「ここだここだ、このばけものめ」
オーガは気がついた。
その声は身長三メートルを超える自分のはるか頭の上から聞こえてくるのだ。
オーガは思わず上を見た。
そこには信じられないことに、龍夜が天井近くに浮かんでいた。
〝えっ?〟
〝えっ?〟
〝えっ?〟
〝えっ?〟
〝なんで〟
〝なんで〟
〝なんで〟
〝なんで〟
龍夜の火龍の腕が上に伸ばされている。
そしてその火龍があごで掴んでいたものは、魍魎丸である。
宙に浮いている魍魎丸に、龍夜がぶら下がっていたのだ。
オーガは思わずゆづきを下に落とした。
火龍が魍魎丸を離し、龍夜が落ちてきた。
そして龍夜は空中で体をひねると、火龍と水龍を下にしてオーガにむかって来た。
〝くそっ〟
〝くそっ〟
〝くそっ〟
〝くそっ〟
オーガは両腕を構えた。
そして直前に迫った火龍と水龍を、弾き飛ばそうとした。
オーガの二本の腕は火龍と水龍を捕らえたが、逆に弾き飛ばされた。
火龍と水龍は、そのままオーガの皿のように大きな二つの目に突き刺さった。
〝ぎゃーーっ!〟
〝ぎゃーーっ!〟
〝ぎゃーーっ!〟
〝ぎゃーーっ!〟
「ばかやろう。いくらハイパーオーガとは言え、腕一本で火龍や水龍に勝てるわけがないだろう」
オーガの体の中からいくつもの赤と青のレーザービームが飛び出してきた。
龍夜は火龍と水龍に思いっきり力を込めた。
「こんどこそ最後だ。死ね!」
〝うわーーーっ〟
〝うわーーーっ〟
〝うわーーーっ〟
〝うわーーーっ〟
オーガの体が黒いもやに包まれた。
そしてそのもやはどんどん濃くなっていく。
そのうちに赤と青の光と黒いもやが激しく混ざり合った。
それらが激しく光りそして消えた後、オーガの体も消えていた。
十二人のオーガたちは、完全にこの世から消え去った。
ぱちん
ぱちん
ぱちん
音が聞こえてくる。ずっと続く連続音だ。
ぱちん
ぱちん
ぱちん
男は思った。
――なんだこの音は?
ぱちん
ぱちん
ぱちん
音だけではなかった。
何だか知らないが、男は顔に痛みを感じていた。
ぱちん
ぱちん
ぱちん
男は目を開けた。そして見た。
龍夜が人間の手に戻った左右の手のひらで、上から自分の顔を続けざまに張りとばしている。
「おおっ、おっさん気がついたみたいだぜ」
ぱちん
ぱちん
ぱちん
二階堂は下から龍夜の手をつかんだ。
「こらっ、いつまで叩いてるんだ」
「ほんのサービス、サービス」
「全く」
倒れた二階堂の上に馬乗りになっていた龍夜が立ち上がる。
続いて二階堂も立ち上がった。
二階堂は頬に手をあてた。
頬は明らかに晴れ上がり、おまけに熱を持っている。
「いったい何発ひっぱたいたんだ」
「何発?そんなのいちいち数えてないぜ。とりあえず、おっさんが起きるまでだな」
「気がついても、まだひっぱたいていただろうが」
「追加料金はいらないぜ」
「まったく、こいつだけは」
ゆづきが魍魎丸を持って歩み寄ってきた。
「はい、二階堂様、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
二階堂が魍魎丸を受け取る。
二階堂が手にした魍魎丸が言った。
「それにしても龍夜、おぬしほんとに重かったぞ。すこしはあれ、なんじゃったっけ、そうダイエットとやらをしたらどうじゃ」
「じじい、何言ってやがる。これでも俺は会う人会う人に「いつ見てもスマートでいいですね」って言われてるんだぜ」
「確かに見た目はそうかもしれんがのう」
二階堂が口をはさんだ。
「重かったって、どういうことだ」
龍夜は、天井からロープでつるされた太い丸太を指さした。
「俺があれに飛ばされて穴に落ちた時、役立たずのおっさんは気持ちよくおねんねしてたもんだから、魍魎丸に引き上げてもらったんだ」
「そう、それでわしがオーガのところまで連れていったんじゃ」
「そうだったのか。で、役立たずのおっさんは、余計だろう」
「あれっ、そんなこと言ったっけなあ。記憶にございません」
「まあまあ龍夜様も二階堂様も、それくらいにしてくださいませ」
その時、洞窟全体の地面が淡く白く光りだした。
やがてその光の中から実体が現れた。ゴブリンたちである。
そのゴブリンの群れは、広い洞窟の地面を埋め尽くしていた。
その数は数十、いや百はゆうに超えているだろう。
その中から一匹のゴブリンが前に歩み寄ってきた。
〝残りのオーガも倒してくれたのですね。ありがとうございます〟
その口調は自分達が去った後、龍夜たちがなんの苦労もなくオーガを倒したと思い込んでいる口調だ。
「ああ、ちょちょいのちょいで、やっつけてやったぜ」
龍夜も何事もなかったかのように答えた。
ゴブリンがさらに龍夜に歩み寄り、頭を下げた後、その手をとった。
〝私達も魔力の弱まったオーガの鎖を断ち切り、無事に仲間を助け出すことができました。これも全てあなた方のおかげです。本当にありがとうございました〟
「いやいや照れるぜ、お礼なんて」
〝しかしただ一つ、かわいそうなことをしました〟
たくさんのゴブリンたちの一番後ろに、それはいた。
身長が二メートル近く、筋肉質な体をした白人男性である。
しかし体は完全に成人していたが、その上にのっているのは、大きな赤ん坊の顔だった。
〝彼はギガントの子供です。ギガントは自分の子供を人質にされて、命令を聞かざるをえなかったのです〟
「……」
龍夜は何か言おうとしたが、何も言えなかった。
そんな龍夜を見たゴブリンが言った。
〝わかっています。この子の親がいったいどうなったのか。もうこの子も気付いています。この親子はお互いの心を感じる力があるのですから。とても悲しいことです〟
ギガントの子供が歩き出した。
前にいたゴブリンたちが道を開ける。
その道を通ってギガントの子供は龍夜のもとまで歩いてきた。
その目から涙がとめどなく流れ落ちている。
「あう、あう、あーうー」
龍夜のところに来るとその手を両手でしっかりと掴み、ゆっくり頭を下げた。
そして振り返り、元の場所へと戻って行った。
ゴブリンが言った。
〝あの子は私達の故郷で、私達の仲間として育てていきたいと、思っています〟
「それがいいだろう」
〝それではお別れです。いろいろとありがとうございました〟
そのゴブリンは群れの中に戻ろうとした。
その時、後方から声が響いた。
〝ちょっと待ってください〟
後ろのほうから一匹のゴブリンが歩いてきた。
その両手は手のひらを上にして、何かをさしあげている。
そしてそのままの体勢で、ゆづきの前まで歩いてきた。
先頭のゴブリンが言った。
〝それは〟
〝はい、ご存知のとおり私達に代々伝わる宝です。でも私達が持つよりも、この少女のほうが、これを持つにふさわしいと思いまして〟
〝そうか。そうだな、それがいいだろう〟
ゆづきが聞いた。
「これはいったい、何でしょうか」
ゴブリンがうやうやしく掲げているもの、それは西洋式の諸刃の短剣に見える。
しかしその短剣は、その表面全体がこれ以上はないというくらいに、錆びついていた。
〝はい、この剣は私達一族に伝わる秘宝の魔剣です。ですがこの剣は、女性にしかあつかえないと伝わっています。私達ゴブリンは、人間で言えば男しかおりません。ですからどのような使い方をするのか、どのような力があるのかは、残念ながらわかってはおりません。ただあなたなら、使いこなせるのではないかと思いまして〟
龍夜がよけいなことを聞いた。
「男だけで種族繁栄できるのか」
〝はい、詳しく説明するととても長くなりますが、私達は人間とは全く違った方法で、子供を作っています〟
「そうか」
〝とにかく助けていただいたお礼です。どうかお納めください〟
「わかりました。遠慮なく受け取らせていただきます」
ゆづきはさび付いた短剣をその手に取った。
その途端、その短剣が黄金色に強く輝きはじめた。
〝おおっ!〟
〝光ったぞ〟
しかしゴブリンたちの驚きをよそに、黄金の光はすぐに消えてしまった。
ゆづきはそのままその剣をじっと眺めている。
それを見てゴブリンが言った。
〝今すぐに使いこなせるというわけではないようですね。しかし私達の長い歴史においても、その剣が光ったということは、ただの一度もありませんでした。やはり彼女が所有するのが一番かと思われます〟
「俺もそう思うぜ。なあ、ゆづき」
「はい、わかりました。約束します。ゴブリンさんたちの大切なお宝、この私が必ず使いこなしてみせます。ありがとうございました」
リーダーらしきゴブリンが、深々と頭を下げた。
〝ではもう故郷に帰ります。これで本当にお別れです。みなさんありがとうございました。みなさんのことは、決して忘れません〟
大勢のゴブリンたちとギガントの子供が、みな手をつなぎあった。
やがてゴブリンたちとギガントが、白く淡い光に包まれる。
その光は一瞬強く輝いたかと思うと、やがて消えた。
あとには洞窟の床があるばかりとなった。
「あいつら帰ったようだな。じゃあ俺たちももうお家に帰るか」
龍夜が歩き出した。
しかしものの数歩も歩かないうちに、崩れるように地面に倒れこんだ。
「昼夜様!」
「うーん、もう一歩も歩けねえ」
二階堂が龍夜を覗き込み、まるで人事のように言った。
「えっとこれは、また透の世話になるしかないな」
笹本は誰が見てもわかるほど、おもいっきり困惑の表情を浮かべていた。
その笹本の前を二階堂が歩いている。
二人は朝からずっと歩きどおしである。
歩いている場所は、殺人事件の起こったクラブマドンナの周辺だ。
二階堂はクラブマドンナのまわりをひたすらぐるぐると歩き回っていた。
笹本がしかたなくその後をついて行っている。
「あのう、二階堂さん」
二階堂は答えない。
笹本がこれまでに見たことがないほど真剣で鋭いまなざしで、ずっと前方を見ながら歩いている。
やがて日は高く上り、そうこうしているうちに、もうすでに西の空に沈みかけている。
「あのう、二階堂さん」
二階堂はやはり答えない。
笹本はこれまで何回、いや何十回となく二階堂に話しかけたが、二階堂は一度も返事を返していない。
それだけでも疲労を感じるには十分なのに、それ以上に笹本を疲れさせているのは、ただの一度も休むことなく、ひたすら歩き続けていることだ。
その間クラブマドンナあるビルの前を、いったい何度行ったり来たりしたことだろうか。
――それにしても二階堂さん、すごい。僕よりもずっと年上のはずなのに、ものすごい体力だ。
笹本は体力、特に足腰には自信があった。
その笹本がずいぶん前からへばっているのに、二階堂は朝歩き始めたときから、ずっと前方を見据えたままで、ひたすら同じペースで歩いている。
「あのう、二階堂さん」
二階堂はあいかわらず答えなかった。
笹本が本気で強引に休憩を提案しようと考えていた時、突然二階堂が動いた。
小走りで走り出すと、一人の男を制止するように、その男の前に立った。
笹本が慌てて二階堂の後を追う。
その男は小柄で、野球帽を深くかぶっていた。
そして顔を上げて二階堂を驚きの表情で見ているその男の手を、二階堂が強く掴んだ。
「やっと見つけたぞ、世話かけやがって。おまえだな、クラブマドンナ殺人事件の犯人は。逮捕する!」
「二階堂さん、いくらなんでもそれは・・」
しかしその男は、二階堂に手を掴まれたままへなへなと膝から崩れ落ちた。
そして聞こえるか聞こえないかの小さな声でつぶやいた。
「すみませんでした。私がやりました」
二階堂は振り返り、笹本にむけて会心の笑みを見せた。
笹本はそれを見ても、そのまま固まったままだった。
透と呼ばれた医者が事務所でコーヒーを飲み、タバコを吸っている。
今は昼休憩の時間だ。
医者はいつも昼食はとらずに、コーヒーとタバコだけですまし「これが健康に一番いいんだ」とうそぶいていた。
そして何本目かのタバコを手にした時、後ろのドアが開いた。
龍夜である。龍夜は医者の背中にむかって言った。
「よう、いろいろ世話になったな。でももう十日も寝てるばっかりだ。退屈でしかたがないぜ。そんな訳で今から退院させてもらうぜ。いいだろう、お医者様。今までありがとうな」
医者がゆっくりと振り返る。
「あんだけのダメージを胸と背中に受けたら、並の人間なら軽く半年はかかるもんなんだが。まあ、おまえならいいか。退院してもいいぜ」
「さっすがものわかりがいいぜ。それじゃあな」
「ちょっと待て」
「なんだ」
「進に伝言だ。今度いっしょに飯でも食おうってな」
「進とは、あのロリコンでブルマフェチのおっさんのことかい」
「そう、あのロリコンでブルマフェチのおっさんのことだ」
「わかった。お医者様が、おっさんはロリコンでブルマフェチだと言ってたと、言っとくぜ」
「ちょっと待て。まだ話は終わっちゃいねえぜ」
「今度はなんだい」
医者はにっこりと笑った。
「そん時はおまえ、それにお嬢ちゃんも、いっしょだぜ」
龍夜もにっこりと笑った。
「ああ、了解したぜ」
マリアンヌはその時成田空港にいた。
次のフライトまでには多少時間がある。
客室乗務員たちの休憩時間となっている時間帯だった。
しかしマリアンヌは他の同僚達と休憩を取ることもなく、乗務員用通路を行ったり来たりしていた。
落ちつかなかった。
とてもじゃないが、ゆっくりと座っていることなどできそうにはなかった。
あの十二人に会って以来、彼女の心の中に黒くて嫌なものが住みつき、彼女の心を蝕みながら日に日に大きくなっていった。
ところがある日、不思議な服を着たフランス語をしゃべる少女に会って、少しばかり癒された。
そして少女にがんばるように言われて、彼女なりに一生懸命がんばってきた。
ところがここ最近、例の黒くて邪悪なものが、再び日に日にマリアンヌの中で大きくなっていっている。
彼女は同僚が思わず心配するほど、平常心というものをなくしてしまっていた。
――やっぱり、もうだめだわ。
今日帰ったら、一度は破り捨てた辞表を、また書こうかと考えていた。
それはマリアンヌにとって身を引き裂かれるほどつらい選択であったが、黒く深く悪しきものの前では、どうすることもできないでいた。
彼女が肩を落として乗務員用通路を力なく歩いていると、不意に前から黒づくめの少年が彼女に向かって歩いてきた。
――あれっ、あの人は確か。
それはあの時あの少女の横で、黙って立っていた目の大きな少年だ。
マリアンヌは思わず少女の姿を探したが、どこにも見当たらない。
そのうちにも少年はまっすぐにマリアンヌのところへ歩いてきて、ついに彼女のすぐ目の前に立った。
――いったい、何かしら?〟
マリアンヌが少年を見ていると、少年はマリアンヌの額のあたりに広げた手のひらを向けてきた。
そして言った。
「あなたは何も見なかった。あなたは何も聞かなかった。そしてあなたは何も感じてはいなかった」
それは日本語だったので、日本語はあいさつ程度しかわからないマリアンヌには、何を言っているのか理解できなかった。
しかし不意に自分の顔をめがけて差し出された手を避けようとか、奇妙な行動をとる少年から離れようといった考えは、露ほども浮かんでこなかった。
むしろ逆で、その少年からはあの十二人から感じた嫌な黒いものとは反対の、暖かくてさわやかに透き通ったものを感じた彼女は、わすかばかりではあるが、少年の手のひらに自分の額を自ら近づけていた。
少年はそのままマリアンヌの額に手をかざしていたが、やがてその手を下ろすと、振り返り歩き始めた。
――あらっ、私、何をしていたのかしら?
マリアンヌはふと我に返った。
何があったのかは、わからない。
ただついさっきまで、何かとても悪い夢を見ていたような気がした。
そしてその夢から覚めたような気がしていた。
――あれっ、あの人は。
乗務員用の通路を見慣れない黒づくめの男が歩いている。
後姿から判断すると、その男はまだ少年のように見えた。
――あの人、確かどこかで。
マリアンヌはその後姿を遠い昔に見たような気がした。
ずっとずっと遠い昔に。
そして思い出そうとしたが、何も思い出せなかった。
そのうちに少年の姿は見えなくなった。
――やっぱりどこかで見たような気がするんだけど。
そう考えながら、いつもの習慣で腕時計を見る。
フライトの時間が迫っている。
マリアンヌは歩き出した。
――もうすぐだわ。今日もがんばってお仕事しなくちゃ。黒くて嫌なもやも、消えてしまったことだし。
マリアンヌは立ち止まった。
――黒くて嫌なもや?
自分が自分の心の中にうかべたその言葉の意味が、全くわからなかった。
――黒くて嫌なものが……消えた?〟
やはりわからない。
マリアンヌはまるで何かに惹かれるように窓を、そしてその先にある青い空を見た。
すると突然、マリアンヌの目から涙が流れ始めた。
――あらっ、やだ。私、なんで泣いているのかしら?
マリアンヌはそのまま空を見ていた。
涙は止まらずに、止めどもなくあふれてくる。
そこに同僚が声をかけてきた。
「マリアンヌ!どうしたの?なんで泣いてるの」
マリアンヌは同僚を見た。
そして満点の笑顔で答えた。
「ううん、なんでもないの。なんでもないのよ」
マリアンヌは再び空を見上げた。
その日の成田の空はとても青く、そしてどこまでも高く高く澄みわたっていた。
終