森の少女 2
「……元あった所に捨ててきなさい」
「シミオンの人でなし!」
小屋で残り物のスープに火を通しながら弟子の帰りを待っていたシミオンは、血まみれの姿で戸をくぐってきたエセルに瞠目し、それから彼女の馬の背に乗せられたものを見て、非常に苦々しい顔をした。
安定しない馬の背に揺られた男は、先程拾った時よりもさらに顔色が悪く、追加の出血でリオの背はべったりと赤く染まっている。
「お願いします、治療をしてあげてください」
弟子の懇願するような眼差しに、シミオンは頬を掻いた。
肩甲骨ほどまで伸ばされた癖の強い金の髪を軽く束ねたこの男は、まだ三十を軽く越した程度の年齢しか持ち合わせていなかった。それにもかかわらず、彼の瞳は重傷者を前にしても冷静に細められる。そして、はぁ、と小さくため息がつかれた。
「……エセル、リオを拭いてやってきなさい。怪我人は私が引き受けましょう」
全く、私は医者ではないのですが。ぼそりと呟いたのだが、ぱぁっと輝いたエセルの耳には到底届いていないだろう。
二人がかりで一番手近な寝台に男を運び込むと、エセルは竈にやかんをかけに行った。その間にシミオンはハサミを使って衣服を切り取り、怪我の部位を露わにする。普通に脱がせるには、服があまりに血を含みすぎていたからだった。これでは肌に張り付いて、腕一本引き抜くのにもかなりの手間がかかってしまう。随分と上質な生地の服ではあったが、今優先すべきは服よりも怪我の治療だった。
男の傷の中でも、特に脇腹と左肩の傷が深かった。エセルは濡れた布を持って戻ってくると、血のこびりついた男の顔や肌を拭った。流石に光にさらされた傷口を直視するのは辛かったようで、彼女は青い顔で、それでも懸命に綺麗な布で血を拭き取っていく。
「……エセル、傷口を塞ぎます。万一暴れた場合は押さえ込めるよう、準備をしてください」
四肢を魔術によって封じたシミオンは、脇腹の傷口の傍に手を当てた。ゆっくりと深呼吸をすると、その手に魔力を流し込む。
シミオンは医者ではない。傷口の縫合ぐらいはできるが、それよりも確実な方法はいくつかある。彼は魔術師であり、医者の真似事をするよりも魔術で解決した方がより確実なのだ。
ぴくり、と男の瞼が動いた。それを確認して、シミオンは両手をかざす。
《思い出せ、そなたの元の姿を。神より創られし器の形を。光神エリヤの息吹を手に、その姿を現したまえ》
「……ぐ……ぅ」
男が呻いた。眉間には深い皺が刻まれ、ギリリ、と歯を食いしばる音が響く。しかし、シミオンは顔色一つ変えず、「これはこれは」と呟いた。
「大分辛そうですが……普通の治療をしたほうがいいのでは?」
「いやいや。彼は予想以上の逸材のようですよ、エセル。これほどに内包魔力が高いと、もう少しペースを上げてもついてこられそうだ」
「シミオンの鬼畜!それ絶対痛いです!」
にやにやと笑って再び詠唱を始めた彼の声に、男の苦しげな呻き声が重なる。エセルは隣でそれを止めるべきかしばらく迷っていたが、傷口がゆっくりと塞がっていく様子を見て、口を噤んだ。
シミオンが治療を始めてしまうと、エセルにはすることがない。しょうがないので、エセルは外に出ると、戸口の前で心配そうに佇んでいるリオの背を濡れ雑巾で清め始めた。
本当ならば全身を石鹸を使って洗ってやりたいところだが、今は夜、そんなことをしたらリオが風邪をひいてしまうだろう。しっかりと血を拭ったエセルは、乾いた布で湿気も取り、リオを馬小屋に戻した。
ぐっしょりと血に濡れた自分の服を桶に溜めた水の中に浸し、清潔な服に着替えてから竈にかけっぱなしになっていたスープを木の椀によそい、改めて男のいる部屋へと向かう。
どうやら短時間の間に、治療はあらかた終わったらしかった。完全にとはいかないが、あらかた出血の止まったらしい傷口に、シミオンが布を当て包帯を巻いている。
「どうですか?」
エセルが声をかけると、シミオンは額の汗を拭って立ち上がった。ぐったりと寝台に横たわる男にちらりと視線を向け、「あとは気力次第でしょう」と言う。
「傷口は大分塞がりましたが、いかんせん血が足りない。大分出血したようですね。血を増やすとなると流石に私の魔力も彼の魔力も足りません。なんとか耐えて欲しいところですね」
「そうですか……」
安堵のため息をついたエセルに、「で」とシミオンはジトっとした視線を向けた。
「どこで拾ってきたんですか、彼は」
「え?えぇっとですね……」
リビングのスープをシミオンに勧め、バスケットに入っていたパンをいくつか皿によそりながら、エセルは彼を拾った経緯を説明した。途中からだんだんと呆れた顔になる師の視線も気にせず、最後まで説明を終える。
「……という訳でして」
「君は風精霊の助言を聞いてなかったんですか、このお馬鹿」
馬鹿、と言われてもエセルは顔色ひとつ変えなかった。この師と生活していると、これほどの言葉は挨拶と同じ程の回数で出てくるものでしかないからだ。
シミオンは深いため息をつくと、「厄介なことになりましたね」と言った。
「というと?」
「さっきの男の服を見てなかったんですか。そこらの野党とは違う、かなりの身分の人間ですよ。それに、さっきの話を聞くと、青いマントの死体が傍にあったんですね?」
エセルが大きく頷くと、シミオンは「ならば有り得るのは、勇者軍の指揮官、もしくは王国軍の人間のどちらか、ということです」と目を細めた。
森の奥に住み、情報に疎いエセルでも、勇者軍と王国軍――――別名魔王軍が現在この王国で対立していることは知っていた。
現国王、ジェラルド・エイヴァリーは、陰では魔王などという名で呼ばれる不人気な王であった。政治に興味がなく、今まで政治らしい政治を行おうとしたことすらない。玉座の上で国民の血税を巻き上げ、贅沢の限りを尽くしている。
そんな国王に、反乱の意を見せたのはアラステア・バッセルという貴族だった。彼は先々王――ジェラルドの父王の王位継承争いの際に逃れてきた王族がバッセル領にいることを表明。彼女とともに他の貴族をまとめ上げ、神の国より舞い降りたる勇者と共に、魔王に剣を向けたのだった。
反乱軍―――もしくは二人目の旗頭の名をとって勇者軍―――は、味方の目印として青のマントを身につけているという。だからこそシミオンは、あの男が二軍のどちらかに関連する人物であろうと見当をつけたわけだ。
もっとも、エセルにとっては彼がどんな人間であろうと特に気にしていない。彼は怪我人であり、保護すべき対象である。厄介な人物であったら、回復を待って森の外へと追い返せばいい。
平然とした顔をしているエセルに対し、シミオンは複雑そうな視線をエセルに向けていた。
「……これも、運命というものなのでしょうかねぇ」
「……、何か言いました?」
「いえ、なんでも」
エセルは不思議そうに首をかしげたが、直ぐにスープに視線を戻すと、素早く流し込んで立ち上がった。
怪我人の男にとって、長い夜はこれからだったからだ。