森の少女 3
男が意識を取り戻したのは、丸一日過ぎ、二晩目の夜空が白み始めてきた頃のことだった。
エセルが朝食の仕込みをしている間に目を覚ましたのか、木桶を小脇に抱えて部屋に入ったエセルは、こちらに向けられた視線に真っ向からぶつかってしまった。
「あ……お目覚めですか?」
一瞬言葉に詰まって、エセルはぐいっと口の端を曲げて笑みを作った。パチパチ、と切れ長の赤い瞳が開閉し、昨日とはまるで別人のような無垢な視線を向ける。
「君は……?ここはどこなんだ?」
エセルは桶を足元に置くと、手近な椅子に座って男の顔を覗き込んだ。まだお世辞にも顔色は良いとは言えないが、それでも土気色は脱したようだ。
「私は、エセルと言います。ここは王都の西、ラヴィナ山の麓の引きこもり魔術師の家でして、私はそこの弟子です。よろしければ、お名前をお聞きしても?」
「……ディルだ。そうか……君が助けてくれたのか?ありがとう、礼を言う」
ディル、と名乗ったその男は、柔らかい笑みを浮かべてそう言った。エセルもにこり、と笑い返しながら、彼の様子を観察する。どうやら、大分体力も回復したらしい。
「どういたしまして。もう丸一日以上寝ていらしたんですよ。お腹は空いていますか?一応、スープならあるんですが」
彼が起きた時のことを考えて、昨日のうちに自分たちの食事とは別に胃に優しい薄味のスープを用意していた。ディルは大きく頷くので、「すぐにお持ちしますね」とエセルは急いで台所へと向かった。
温めたスープを木の椀によそり、匙をつけてディルの部屋まで運ぶ。
部屋に戻ると、ディルは上体を起こしてぼんやりと部屋の中を眺めていた。
「どうぞ」
「あぁ、ありがとう」
受け取ったスープをゆっくりと口に運ぶディルを、エセルはついまじまじと観察してしまった。
歳は二十前後だろうか。彫りの深い顔立ちで、筆で書いたような形の良い眉の下に、夕日のような赤い切れ長の瞳が揺れる。黒い髪は肩甲骨ほどまであり、横顔に落とされた影がどこか哀愁を漂わせていた。
木の匙を口に運ぶ動作一つとっても、実に綺麗で文句のつけようもない。やはり貴族の人なんだわ、とエセルは改めて感じた。
ふと、背後から人の気配を感じ、エセルは首だけを動かして振り返った。
「おはようございます、シミオン」
「えぇ、おはよう。……お目覚めですか」
廊下から顔を出したシミオンは、ひどく癖のついた髪を片手で梳きながら、眠そうな目をこちらに向ける。彼の存在に気づいたディルは、ぺこり、と軽く頭を下げた。
「どうもお世話になったようだ。助かった」
「いえいえ。うちの弟子が物を拾ってくるのはよくあることなので。私はシミオン・モリスと申します。汚い小屋ですが、傷が癒えるまでゆっくりしていってください」
シミオンが名乗ると、ディルは驚いたように目を見開いた。
「シミオン・モリス?元宮廷魔術師の、シミオン・モリスか?」
「……はぁ、よくご存知で」
今度はエセルの方が目を剥いた。そんな話は初耳だ。この師は全く、どんな経歴を持ってるのかわかりやしない。
「とはいえ、私はもうすでに隠居した身。今は一介の魔術師でしかありませんよ。……ところで、お名前は?」
シミオンの翡翠色の瞳が、一瞬輝いた気がした。それを受けたディルは一瞬視線を揺らす。
「……ディルだ」
「黄昏の精霊。なるほど、良い名前ですね」
くすり、とシミオンが含みを持たせて笑った。エセルはたしなめようかと思ったものの、藪ヘビになりそうなのでしょうがなく、話を切断することにした。
「それじゃあ、これ以上は怪我に障りそうですし、私たちはお暇しますね。お椀は飲み終わったらそこらへんに置いておいてください。何かありましたら、近くの部屋にいますから呼んでくださいね」
「あぁ、すまない」
にこりと笑みを浮かべると、エセルは師の腕をとって部屋の外へと引っ張り出す。そのまま台所まで移動して、呆れたようなため息をついた。
「怪我人がおちおち寝てられなくなるような発言をするのはやめてあげてください」
「おや?なんのことです?私は自分が感じた通りの感想を述べたまでですが」
「明らかに含みがありましたよさっきのは。居心地悪いと心も体も休まらないんですから。やめてあげてください」
次そういうことしたら食事作ってあげませんからね。ぷぅ、と頬を膨らませて怒るエセルに、シミオンは苦笑した。
「……分かりましたよ。貴方がそういうのであれば、追い出すのはやめましょう。ただ、隣の部屋の書類整理はちゃんとやってくださいね」
「……散らかしたのはシミオンの癖に」
「何か言いました?」
「いえなんでも」
ぺろっと小さく舌を出しながら、エセルは朝食の準備にとりかかったのであった。
◇◆◇◆◇
最後の一口を流し込み、ディルと名乗った男は、一人になった部屋でため息をついた。
胃が満たされたおかげで、心地よい眠気の波がゆっくりと押し寄せてきている。彼は近くにあったテーブルの上に椀を置くと、ずるずると寝台の中に潜り込んだ。
(シミオン・モリス。確か、あいつの師でもあったな)
元宮廷魔術師の男の名は、今でも王宮で度々耳にする名だった。高名で、それに付随する実力も折り紙付き。しかし二十代も半ばに突然森の奥に隠居し始めた変人としても名高い。
バレただろうか。彼は天井の木目を見上げながら考える。バレていないはずがない。あの含みを持った言葉は絶対に気付いているからこそ出るものだ。
しかし、すぐに敵に売り渡されることもないだろう。あの食えない魔術師の顔を思い出しながら、彼は苦笑する。
(今はただ、怪我を治すことに専念しようか)
そう自分に言い聞かせながら、心の奥で揺れる声に蓋をする。
何故俺は、死ねなかったのだろう、という問いかけに。




