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クロノ・リベンジャー  作者: 月下三星


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第十二話(最終話)「違う時間へ」

 朝、目が覚めた。


 最初に確認したのは、時計だった。


 3年間、そうしてきた。目を開ける前に、音を確認する。かちかちかちかちかちかち——逆回りの音がするかどうか。する前提で起きる。ない日はなかったから、確認というより、習慣だった。


 今朝も、音はした。


 逆回りだった。


 でも今朝は——3年間で、1番軽く起き上がれた朝だった。


 なぜかはわからなかった。でも体が知っていた。


 今日が、何かの日だということを。


   ◇◇◇


 学校に行く前に、川沿いの道を歩いた。


 いつもは通らない道だ。遠回りになる。でも今日は遠回りしたかった。


 朝の川が、光を弾いていた。


 11月の末、冬の入り口の光は低くて横から来る。川面の光が、斜めに射して、細かく散る。その散り方が、白い花びらに似ていた。


 俺は立ち止まって、少し見た。


 花びらじゃない。光だ。


 でも似ている。


 3年間、白い花の匂いを怖いものだと思っていた。あの夜の匂いだったから。でも今は——その匂いを思い出しても、怖くない。


 澪の香りだと、知っているから。


 俺は歩き始めた。


   ◇◇◇


 無限が来たのは、昼休みだった。


 校舎裏。澪がいつもいる場所。


 今日は澪がいなかった。代わりに、無限がいた。


 壁に背をつけて、立っていた。今日の輪郭は——昨日よりはっきりしていた。朝から何かを決めてきた人間の、凝縮した存在感があった。


「来るとわかっていた」と俺は言った。


「そうか」と無限は言った。


「何かを決めてきた顔をしている」


「お前もだ」と無限は言った。


 俺は無限の前に立った。


 お互い、少し間を置いた。


 急かす必要がなかった。


「澪が戻った」と俺は言った。


「知っている」


「お前が知っているということは」


「俺はお前の中にあるものだ」と無限は言った。「お前が知ることを、俺も知る。感じることも、同じだ」


「なら」と俺は言った。「今の俺が、何を思っているか。わかるか」


 無限は少し間を置いた。


「わかる」と無限は言った。


「言ってみろ」


「怒りを——手放す気だ」と無限は言った。「捨てるんじゃない。その2つは、違う」


「ああ」と俺は言った。


   ◇◇◇


 壁に背をつけて、2人で並んで立った。


 澪がいつも見ている狭い空が、上にあった。建物の間の、細い青。


「怒りを手放すとは思わなかった」と無限は言った。


「3年間、怒っていた。それは本当だ。その3年間が嘘になるわけじゃない。怒りがあったから、ここまで来た。澪に会えた。傑に会えた。琥白が記録し続けてくれた意味も、わかった。怒りがなかったら、何も動けなかった」


「それでも」


「それでも——怒りだけでいる必要が、なくなった」と俺は言った。「動力が変わった。お前がいなくなっても、俺は動ける気がする。今は」


 無限は空を見た。


「今は、というのが正直だな」と無限は言った。


「ああ。絶対とは言えない。でも今は、そう思う」


「今思えるなら、十分だ」


 俺は無限を見た。無限が、俺を見た。


 暗い茶色の目。俺の目。3年分の怒りを抱えてきた目。


「1つ、聞いていいか」と俺は言った。


「ああ」


「お前は、消えた後——どこへ行く」


 無限は少し考えた。


「時間に溶ける」と無限は言った。「俺は時間の歪みから来た。怒りが形になったものだ。形がなくなれば、来た場所に帰る」


「怖いか」


「怖い」と無限は言った。迷わず。「怖い。でも——怖くても、行くべきときがある。それも、お前から学んだ」


 俺は何も言えなかった。


「お前が琥白に会いに行った夜」と無限は言った。「怖くても動いた。澪を消えさせないために、怖くても決めた。俺もそれでいい」


「お前は俺の怒りでできている。怒りが俺に教えたことを、怒り自身が学んでいたのか」


「そうかもしれない」と無限は言った。


 少し笑った。


 俺の知っている笑い方じゃなかった。無限自身の、無限だけの笑い方だった。


「お前には、名前が必要だったかもしれない」と俺は言った。


「今更だ」と無限は言った。


「今更でもつけていいか」


 無限は少し間を置いた。


「不要だ」と無限は言った。


「名前がついたら、消えにくくなる」と無限は言った。「お前に名前をもらったら——俺は消えたくなくなる。今の俺には、それは困る」


 俺は無限を見た。


「俺のために、消えてくれるのか」


「違う」と無限は言った。「俺が、そうしたいんだ」


   ◇◇◇


 2人で、しばらく空を見た。


 狭い空だったが、今日は雲がなかった。


「父親に似ていると言った」と俺は言った。


「ああ」


「今は、あんまり似ていないな」


「お前の怒りが、変わったから」と無限は言った。「怒りの中核にあるものが、怒りじゃなくなってきた。だから俺の顔も、変わってきた」


「怒りの中核にあるのは、怒りじゃなかった」


「最初から」と無限は言った。「最初から、怒りじゃなかった。失いたくなかった、という気持ちだった。それが怒りの形を取っていただけで」


「3年かかってわかった」


「3年かかったから、わかった」と無限は言った。「すぐわかることじゃなかった」


 風が来た。


 校舎の裏の、日の当たらない冷たい風だった。


 無限の輪郭が、少し揺れた。


「行くか」と俺は聞いた。


「もう少し」と無限は言った。「もう少しだけ、ここにいる。お前と並んで」


「わかった」と俺は言った。


   ◇◇◇


 並んで立っていた。


 特に何も話さなかった。


 でも沈黙が、嫌じゃなかった。


 3年間、怒りと並んで立っていた。怒りと並んで立つのは、孤独だった。いつも自分だけが怒っている感じがした。世界が普通に回っている中で、自分だけが燃えている感じがした。


 でも今は——無限と並んで立って、孤独じゃなかった。


 怒りが孤独だったんじゃなくて、怒りを誰にも見せられなかったことが孤独だった。


 無限に見てもらえて——初めて、孤独じゃなくなった気がした。


「準備はいいか」と無限は言った。


「お前が決めろ」と俺は言った。「お前のことだから」


 無限は少し間を置いた。


「準備は、一生できない気がする」と無限は言った。「でも——できた気がしないまま行くことにする」


「それでいい」と俺は言った。


 無限が、俺を向いた。


 最後に、目が合った。


「3年間」と無限は言った。


「ああ」と俺は言った。


 言葉は、それだけだった。


 それだけで十分だった。


   ◇◇◇


 無限の輪郭が、薄くなり始めた。


 煙が散るのとは違った。


 水が、光に溶けるみたいだった。


 端からほどけていった。輪郭がなくなっていった。でも消え方が——消えているんじゃなくて、どこかへ帰っていく感じがした。


 光の断片になって。


 散った。


 白い花びらが散るみたいに。


 花びらじゃなくて、光だったけど。


 でも似ていた。


   ◇◇◇


 無限がいなくなった。


 校舎裏は、静かだった。


 俺は1人だった。


 でも——1人の質が、3年間と違った。


 怒りがない、1人だった。


 怒りがなくなった後、何が残るのか——ずっと問いを立てていた。


 答えが出た。


 静かさが、残った。


 静かさの中に——失いたくなかった人への想いと、まだここにいる人への想いと、これから会う人への想いが、あった。


 怒りじゃない何かが、確かにあった。


 名前は、まだない。


 でもある。確かに、ある。


   ◇◇◇


 その瞬間、体の中で何かが動いた。


 感覚というより——音だった。


 遠くから来る音。外からじゃなくて、内側から来る音。


 かちかち。


 かちかち。


 かちかちかちかち。


 いつもより、遅かった。


 そして——逆じゃなかった。


 右へ、回っていた。


   ◇◇◇


 教室の時計を確認したかった。でも授業中だから、走って行けない。


 昼休みが終わるチャイムが鳴るまで、俺は校舎裏に立っていた。


 チャイムが鳴った。


 走った。廊下を走って、教室のドアを開けた。


 壁の時計を見た。


 秒針が——右に、回っていた。


 かちかちかちかちかちかち。


 同じ音だった。でも全然、違う音だった。


 右へ。正しい方向へ。


 3年ぶりに、時計が正回りになっていた。


   ◇◇◇


 席に座った。


 後ろから琥白が肩を叩いた。


 振り返ると、琥白が時計を見ていた。それから俺を見た。


 何も言わなかった。


 でも目が、全部言っていた。


 俺は頷いた。


 琥白は——小さく、唇を噛んだ。


 泣くのをこらえているときの琥白の顔だった。


 こらえながら、頷いた。


   ◇◇◇


 放課後、3人で川沿いの公園に集まった。


 俺と、琥白と、澪だった。


 傑は来なかった。昨日メッセージを送ったら「今日は別の場所にいる」と返ってきた。「よくやった」とだけ、もう1通来た。傑らしい文章だった。


 ベンチに3人で座った。


 秋の終わりの川が、夕方の光を弾いていた。


「時計、戻ったな」と琥白は言った。


「ああ」


「いつ」


「昼休みに確認した。校舎裏で——何かが終わった後」


「無限が」と澪は言った。


「ああ」


「見ていた」と澪は言った。「校舎裏に向かう前、少し遠くから。邪魔をするつもりはなかった。でも——見届けたかった」


「見ていたのか」


「光の断片になって、溶けていったの」と澪は言った。「修復者として——あの光の行き先は、わかる」


「どこへ行った」


「時間の中へ」と澪は言った。「怒りだったものが、時間に溶けた。歪みになるんじゃなくて、時間の一部になった。それは——正しい終わり方だと思う」


 俺は川を見た。光が散っていた。


「父はまだ、歪みの中にいるか」と俺は聞いた。


 澪は少し間を置いた。


「いる」と澪は言った。


「取り戻す方法は、まだわからないか」


「わからない。でも——今の私には、以前より力がある。時間の外側から帰ってきたことで、何かが変わったから。少しずつ、わかるかもしれない」


「急がなくていい」と俺は言った。


 澪が俺を見た。


「急がなくていい?」


「ああ。3年間、急いできた。急がないと間に合わない気がしていた。でも——急ぐほど、壊れた」


「今は」


「ちゃんとやりたい」と俺は言った。「正しい速さで」


 澪は少し間を置いた。


 それから、空を見た。川沿いの公園からは、空が広く見えた。建物に遮られない、川の上の空が。


「言いたいことが」と澪は言った。


「あったんだろう」と俺は言った。「時間の外側で、言えなかったやつが」


「ある」と澪は言った。「戻ってから、言葉が少しずつ出てきた」


「聞く」


 澪は空を見たまま、少し間を置いた。


「あの夜、間に合わなかった」と澪は言った。「あなたの家族を守れなかった。それが——ずっと、残っていた。記憶はなかったけれど、感触として残っていた。それが『やり残したこと』だと思っていた」


「そうじゃなかったのか」


「そうでもあった」と澪は言った。「でも——今日、無限が溶けていくのを見て、わかった。私がずっと感じていた『やり残したこと』は、守れなかった後悔だけじゃなかったの」


「何が、あった」


「あなたが怒りだけで動いているとき——誰かが隣にいるべきだった」と澪は言った。「隣にいて、怒りじゃない速さで動けることを、伝えるべきだった。それが——修復者として、私がするべきことだったと思う」


「したじゃないか」と俺は言った。「お前は俺の隣にいた」


「でも遅かった」


「遅くなかった」と俺は言った。「ちょうどよかった。3年前に会っていたとしても、俺はお前の話を聞かなかった。あのときの俺には、聞く準備がなかった。今だから、聞けた」


 澪は俺を向いた。


「そう思う?」


「そう思う」


 澪は少し間を置いた。


「時間じゃなくて、人を修復する方が——難しいね」と澪は言った。


「難しいか」


「難しい。でも——できた気がする。少し」


「少しずつでいい」と俺は言った。


 澪は、また笑った。


 昨日初めて見た笑い方で、笑った。


   ◇◇◇


 琥白は、ずっと黙っていた。


 川を見ていた。コーヒーを両手で持って、湯気に顔を近づけていた。


「琥白」と俺は言った。


「うん」


「3年間の記録」


「うん」


「最後のページ、変えるか」


 琥白は少し間を置いた。


「変えない」と琥白は言った。


「俺がいなくなったら、時間の意味がなくなる——のままでいいのか」


「いい。それは今も本当だから。時計が正回りになっても、変わらない」


「なくならなかったぞ」


「なくならなかった」と琥白は言った。「だから——続きを書く。最後のページの次に、白紙のページがある。そこに続きを書く。なくならなかった後の話を」


「何を書くんだ」


「まだ決めてない。でも今日から書けると思う。3年間、なくなるかもしれない日のことを書いてきた。今日からは——続く日のことを書く」


 俺は琥白を見た。


 琥白は川を見ていた。コーヒーを飲んだ。


「熱いか」と俺は言った。


「ちょうどいい」と琥白は言った。


「俺のやつは、まだ熱い」


「冷めるまで待て」と琥白は言った。「急ぐな。正しい速さで飲め」


 俺は少し笑った。


 さっき自分で言ったことを、返された。


「聞いてたのか」


「全部聞いてた」と琥白は言った。


   ◇◇◇


 日が暮れてきた。


 川の光が、橙になった。


 3人で、その橙を見ていた。


 しばらく、誰も話さなかった。


 話す必要がなかった。


 川が流れていた。光が散っていた。風が来て、3人の間を通り過ぎていった。


 冬の入り口の風だった。


 寒かったが、立ち上がる気にならなかった。


 このまま、もう少しだけ——今ここにいたかった。


 3年間、今ここにいることが苦痛だった。今にいるために、爪を掌に食い込ませていた。


 今は——何もしなくても、今ここにいられた。


 痛みがなくても、今にいられた。


 それが——怒りじゃない動力の、最初の形だった。


   ◇◇◇


 家に帰った。


 部屋に入った。


 壁の時計を見た。


 かちかちかちかちかちかち——と刻んでいた。


 右へ。正しい方向へ。


 3年間、逆回りだった音が——今日から、正回りになった。


 同じ音だった。でも違う音だった。


 俺は机に座った。


 ポケットから金属の欠片を出して、テーブルに置いた。


 この欠片が、澪の修復の媒介になった。この欠片を通して、父の声が聞こえた。この欠片と一緒に、時間の外側から帰ってきた。


 父は、まだ歪みの中にいる。


 でも——急がなくていい。


 正しい速さで、やる。


 そう決めた。


 欠片を、また手に取った。


 冷たかった。


 でも今日の冷たさは——重くなかった。


 ただ、金属の温度だった。


 それだけだった。それだけでいいと、思えた。


   ◇◇◇


 夕飯を作った。


 3年間、誰かに作ってもらったり、コンビニで買ったりしてきた。自分で作ることが、少なかった。


 今日は、作る気になった。


 なぜかはわからない。でも台所に立って、冷蔵庫を開けて、あるものでできるものを作った。大した料理じゃなかった。卵と残り野菜の炒め物と、味噌汁だった。


 食べた。


 熱かった。舌の先が少し焼けた。


 でも今日は、その熱さが——ただ、熱かった。


 痛みで今にいるためじゃなかった。


 ただ、熱い食事の熱さだった。


 久しぶりに、食事が熱いと思いながら、食べた。


   ◇◇◇


 食べ終わって、皿を洗った。


 水の音を聞いていた。


 時計の音が聞こえた。かちかちかちかちかちかち。正回りの音だった。


 俺は皿を洗いながら、その音を聞いた。


 ただ聞いた。


 意味を読もうとしなかった。


 ただの時計の音として、聞いた。


 それが——不思議と、穏やかだった。


 3年間、あの音が怖かった。意味を持った音だと知っていたから。でも今日は——ただの時計の音が、穏やかだった。


 普通の音が、普通に聞こえることが——今日は、嬉しかった。


   ◇◇◇


 皿を拭いて、部屋に戻った。


 ベッドに横になった。


 天井を見た。電気をつけたまま、しばらく天井を見ていた。


 今日起きたことを、順番に思い出した。


 無限が溶けていった。光の断片になって。


 時計が右に回り始めた。


 澪が、言いたかったことを言えた。


 琥白が、続きを書くと言った。


 川沿いで、3人で橙の光を見た。


 夕飯を作った。皿を洗った。


 普通の1日だった。


 3年間で——1番、普通に近い1日だった。


 普通が、こんなに重かったとは知らなかった。


 普通が、こんなに嬉しいとは知らなかった。


 目が閉じていった。


 眠れる、と思った。


 今夜は眠れる——そう思いながら、目を閉じた。


   ◇◇◇


 眠りかけたとき、ポケットが震えた。


 コートをそのまま着ていたから、ポケットが鳴った。


 スマートフォンを取り出した。目が、半分しか開いていない状態で画面を見た。


 「発信者不明」と書いてあった。


 俺は目が覚めた。


 3年間、発信者不明の着信は——母の声だと思っていた声が来た。でもあれは澪の声だった。


 今度は、誰の声が来るのか。


 1秒、考えた。


 出た。


   ◇◇◇


 何も聞こえなかった。


 息もない。でも、繋がっていた。


 しばらく待った。


 声が来た。


 母の声じゃなかった。澪の声でもなかった。


 小さい声だった。子供の声だった。俺の知らない、子供の声だった。


「助けて」と声は言った。


 細くて、震えていた。


「時間が、壊れてる」


   ◇◇◇


 俺は起き上がった。


 ベッドから出た。


 電気がついたままの部屋で、スマートフォンを持って、座った。


 壁の時計が、右に回っていた。かちかちかちかちかちかち。正しい方向へ。


 その音を聞きながら、考えた。


 子供の声が、言っていた。時間が壊れている、と。


 どこかで、また歪みが起きている。


 俺が動いたことで、どこかが繋がって——その繋がりが、別の歪みを呼んだのかもしれない。


 傑が言っていた。修復者と呼ばれた人間が、時間の歪みに引き寄せられる、と。


 俺は、まだ引き寄せられる側なのか。


 あるいは——もう、呼ばれる側になったのか。


 どちらかわからなかった。


 でも。


 この声を、聞かなかったことにはできない。


 3年間、誰にも助けてもらえなかった俺が——それを知っているから。


 俺は電話に向かって、言った。


「聞こえるか」


 返事はなかった。


「聞こえているなら——もう少しだけ待ってくれ。行くから」


 電話が、切れた。


   ◇◇◇


 部屋に、静寂が戻った。


 時計だけが、音を立てていた。


 かちかちかちかちかちかち。右へ。正しい方向へ。


 俺は立ち上がった。


 コートを着直した。テーブルの上の金属の欠片を、ポケットに入れた。


 鏡を見た。


 3年前より、少し線が硬くなった顔が映っていた。


 でも——目が違った。


 怒っていない目だ、と琥白が言っていた。


 その目が、鏡の中にあった。


 怒っていない目で、でも諦めていない目で、俺は鏡を見た。


 それでいい、と思った。


 それが——今の俺の顔だった。


   ◇◇◇


 スマートフォンを持って、メッセージを打った。


 澪に。


「また、歪みがある。一緒に来られるか」


 数秒で、返信が来た。


「行く」


 琥白に打った。


「今夜、出かける。帰りは遅くなるかもしれない」


 すぐ返ってきた。


「わかった。気をつけて」


 1秒置いて、もう1通来た。


「帰ってこいよ」


 俺は少し笑った。


「帰る」と打った。


 約束はするな、と琥白は言っていた。


 でも今日は——帰ると、打った。


 約束じゃなかった。そうするつもりだから、そう書いた。


 それだけだった。


   ◇◇◇


 玄関を出た。


 11月の終わりの夜だった。


 冷たかった。息が、白くなった。


 俺は夜の住宅地を歩き始めた。


 どこへ向かえばいいか、まだわからなかった。でも歩き始めた。


 引力が来るのを待ちながら、歩いた。


 引力は怒りじゃなくていい。


 失いたくなかった人への想いでもいい。


 今は——あの声の持ち主を、助けたいという気持ちで、歩いた。


 名前も知らない。どこにいるかも知らない。


 でも、時間が壊れていると言っていた。


 それだけで、十分だった。


 かちかちかちかちかちかち——


 遠くで、時計の音がした。


 今度は、右だった。


 俺は夜の道を、違う時間に向かって、歩き始めた。

作者より


最後まで、読んでくださってありがとうございます。


時計が逆に回り始めた日から、慟と一緒に歩いてきました。

怒りの中にいた慟が、手放すことを覚えた日まで。

書きながら、私たち家族も一緒に、少しずつ変わっていた気がします。


この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。

言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——

ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。


次回作は、すでに完成しています。

ただいま、娘がテスト期間中のため

イラストの納品をおとなしく待っているところです。

終わったら、すぐにお届けできます。


続きを待ってくださる方へ。

ブックマークやフォローをいただけたら、

新作のお知らせが届きます。


この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、

あなたに届いていたなら——それだけで、十分です。


またすぐ、会いましょう。


         — mom.daughters.animelab

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