エドワードの元へ
――快適な空の旅、とは言い難かった。
ラヴィリアは、上空は寒い、ということをしっかりと学習した。地上ではまだ残暑の残る時期だというのに、上空はとても寒い。さらに風を切って飛んでいる。
しかもラヴィリアを抱いているブラッドは温かいとは言えなかった。悪魔なのである。基本的に体は外気温と同じ温度であるらしかった。
途中で寒さで震えるラヴィリアに気付いたブラッドが、「風邪っぴきのラヴィくらい発熱してみるか」と自分の体の熱を上げた。それでようやく人心地ついたラヴィリアであった。
寒さ問題さえ解決すれば、上空からの景色は壮大だった。黄金色に波打つ麦畑や小さく点在する村を眺め、ゆるやかに蛇行する川や連なる山々を上から見る。低い雲を見下ろして飛んでいるのが面白かった。鳥の視点から国土を見るという、初めての経験である。
町や村は道で繋がり、街道が集まる所に大きな町ができる。道の上を馬車が走り、物が動いて町は活動しているのだと、視覚で理解出来た。
(これが、お義母様の言う、流通)
エドワードの母ソーラが何度か口にしていた言葉だ。物が行き交うことで町は発展する。そのためには街道を整備することが必要で。それができるのが為政者だ。
スファルト王国は近年国力をつけてきたと評判である。今のアーネスト王は街道と港の整備に力を注いでいる、と嫁入りする前に集めた資料に記されていた。
今となっては、ソーラの影が見え隠れしているような気がした。
飽きることなく空から国土を見つめていたように思う。
ふいにブラッドの腕に力がこもった。
残念そうな風情のブラッドが、ラヴィリアの耳に口を寄せて囁いてきた。
「ラヴィ、目的地だ。まだおまえを抱いていたいのに」
「楽しいことには、かならず終わりが来るものなの。……耳に息を吹きかけるのはやめなさい」
「じゃあ、耳たぶ噛んでいい?」
「いいわけないでしょ」
「舐めるだけでも」
「だめです!」
ブラッドをあしらいながら、ラヴィリアは眼下を見る。ナプルの町を見下ろしていた。
大勢の兵士が戦っているのが見えた。城壁のある町に向けて進もうとしているのが、見習いの国営軍だろう。それに相対しているのがエドワード軍。
その城壁の内側にある町に向けて、いくつもの円が浮かんでいた。ラヴィリアはそのようなものを見たことがない。何を書いているのかわからない、細かい模様がたくさん描かれている円である。なんだか歪な印象がした。
ブラッドがふんと、鼻を鳴らした。
「稚拙な魔法陣だな。へったくそ」
「え? 魔法陣?」
「あの丸いやつだ。大きさも方向もバラバラ。素人に毛が生えた程度だと、こんなもんか」
「ねえ、ブラッド。魔法陣て、魔法が飛び出す、あれよね」
「うむ。そうでなければ魔法陣とは呼ばねえな」
「ここで魔法が飛び出すと、どうなる……?」
「見りゃ分かる。ほら、あの大きいヤツがそろそろだ」
ラヴィリアの目の前で魔法が炸裂した。
魔法陣から飛び出したオレンジ色の光は、民家を何軒か貫いて爆発した。轟音と共にそのまま炎が巻き起こる。
爆発に驚いた住民が一斉に逃げ出し始めた。何人も、何十人も、一斉だ。誰かを押しのけ誰かを踏みつけ、ばらばらになって逃げ出している。
ラヴィリアは上空から町を見回した。
山の裾野に城壁を巡らしたこの町で、火事が起きたら逃れる場所などない。
魔法陣は、次々に魔法を放ち始めた。さらに大勢の町民がパニックになって動き出した。あちこちに広がる火災。炎の赤と黒い煙が至る所で上がっている。
その中心に向けてブラッドは降下を始めた。つまり、ラヴィリアの魔力がある、目的地だ。
この魔法の飛び交う中心に、エドワードがいる!?
目を見張るラヴィリアを抱いたブラッドが、ナプルの町に降り立った。
ラヴィリアは呆然と立ち尽くしていた。
ナプルの町は瓦礫と炎で町の形をしていなかった。そして、酷く暑い。炎が大気温を上げている。
至る所で人々は逃げ惑っていた。必死の顔で誰かの名前を呼ぶ人、泣きながら子供を抱いて走る人、「山へ逃げろ、山へ!」と叫んでいる人。
ラヴィリアは気付いている。山に逃げても逃げ場所なんてない。いずれ行き詰まって炎と煙に巻かれる。たくさんの人が死ぬ。
「ラヴィ、あの下だ」
ブラッドが指をさしたその先に、ラヴィリアの髪がある。
ラヴィリアは 一目で絶望した。
ブラッドが示した先は、焼けた瓦礫の山だった。黒く焦げた木の柱と、黒い壊れたレンガが積み重なっていた。一人の髪の短い少年が、必死の形相で瓦礫を取り除こうとしていた。
エドワードが、瓦礫の下に埋もれている。
そう、一瞬で悟った。
まだ生きてるかもしれない。まだ間に合うかもしれない。早く助け出さなければ。早くエディに会いたい!
だけど、この町の人はどうなる。生きているこの町の人達は、逃げ場を失って苦しんで死んでいく。今も魔法陣から魔法が飛び、町を破壊している。
大勢の人が死ぬ。オーサ公爵の卑劣な手段によって、罪のない人が死ぬ。この火災が何百人もの命を奪う。
ラヴィリアは傍らの黒い悪魔を見上げた。平然と辺りを見渡す悪魔は、人間を助けることなんて欠片も思っていない。ただ騒がしい周りを見ているだけだ。
……ラヴィリアには力がある。
途方もない力を持った悪魔を、どうにか使うことができる。
この力をどう使うか。
愛しい人の窮地を救うこと。罪のない人々の命を救うこと。
ただ、それを選ぶだけだった。
「ブラッド」
「なんだ、ラヴィ」
ブラッドは楽しんでいた。ラヴィリアの葛藤を全て読み、逡巡する過程を全て味わった。
ブラッドは悪魔だ。人の負の感情は大変美味しいエサである。ラヴィリアの魔力の次くらいには、美味しくいただける。
エドワードを助けるにしても。町の住人を助けるにしても。
どちらを選んだとしてもラヴィリアは激しく後悔する、その絶望を喰らいつくしたい。
どちらが美味いのかな。ラヴィはどちらを選ぶのかな。
ぐふぐふと笑いながら、両方選べないのも面白いと思った。そもそもブラッドは、面白くなければ人間の提案になど乗る気はないのだ。
我を動かせないという、その絶望も美味そうだ。
どちらに転んでも、極上な味がする。我はそれを美味しくいただくのみ。
――悪魔を従える人間の少女よ。さらに我を喜ばせろ。
意を決したラヴィリアが、ブラッドを見上げた。純粋な魂が美しいと、ブラッドは目を細めた。
「……ブラッド、わたくしの魔力を食べることを許可します。魔力を食べたら、きちんと対価を払いなさい」
「ふーん?」
「返事は」
「いいよ」
アイスブルーの瞳がブラッドを捉えていた。激しい意思の力がその瞳にやどっていた。
ラヴィリアは自分の下僕の、赤い目をした悪魔に命じた。わたくしの力になれ。
「わたくしの唇から、魔力を食べることを許可します」
「……」
「わたくしの魔力と引き換えに、あの山に穴を開けなさい! 町の住人が全部入るくらい」
「……」
「早く食べて、ブラッド! 今すぐに!」
「……りょーかい」
ブラッドはラヴィリアを抱き寄せた。
そのままラヴィリアの唇に吸い付いた。
思った通り小さくて柔らかい唇を貪って、ブラッドはラヴィリアの魔力を喰う。いつもより、味がいい気がする。唇を舌でなぶるとびくんと反応する。可愛らしい。とにかく極上の魔力だ。たまらん、美味い。
瓦礫の山から視線を感じた。
死にかけた人間が、こちらを注視しているのがわかった。
ブラッドはちらりと瓦礫に赤い目を向けた。
なあんだ、まだ生きてんのか王子。
だったらよく見とけ。
お前の絶望の味も、なかなかのもの。
ブラッドは唇を離した。
魔力が尽きかけたラヴィリアに、ブラッドは赤い目を歪めて笑った。
「王子が見てた」
「……!」
「自分より我を選んだと思ったかな」
「……うそ」
「うふ、ふふふふ。聞いてみれば?」
聞けるもんなら、と言い残して、ブラッドはその場で飛んだ。
上空に飛び、町に接する山の、適当な場所に目算をつける。
山肌を抉り取る、すさまじい轟音が鳴り響いた。
悪魔らしい悪魔、の時もある。ね、ブラッド。




