第九章 2)この世で最も清らかで美しいもの
「フローリア、俺の手も握ってくれ!」
「フローリア、俺も優しく慰めてくれ・・・」
「あんたはまるで俺の故郷の母みたいに優しいな・・・」
怪我人たちは皆、フローリアを求めた。死んでいく者も、さっきの男のように痛みに耐えなければいけない者も。
しかし、さっきまで苦しみと怒りと呪詛の言葉しか聞こえなかった医務室が、安らぎと優しさと、甘い思い出に満ちた場所に変貌していったのだ。
私はフローリアの不思議な力に気づかざるを得なかった。
フローリアは美しい。
人を跳ねつけるような圧倒的な美ではなく、多くの人を惹き付けるような優しい美しさだ。
しかし彼女はただ美しいだけじゃない。
そんなのは彼女の表面的な特性の一つに過ぎない。
兵士たちは死の床で、美しいだけの女性に優しさを求めているわけではなさそうだ。
彼女には、人の心を根底から安らかにする何かがある。
それは超自然的な域に達する何か。
例えば、とてつもなく透き通った泉に感じる清らかさとか、聖地に聳え立つ大樹を見て覚える敬虔さとか。
そういうものの前に行くと、誰もが自然に感じる安らぎに近いもの・・・。
確かに私はずっと前から、フローリアの美しさに魅せられていた。
もしかしたら、そのせいで彼女のことをあまりに過大な評価を下しているのかもしれない。
私の判断は、見た目の美しさに惑わされているだけかもしれない。
しかし以前の、グロテスクに改造された人たちへの対応、そして今現在、死の淵にいる兵士たちの様子を見ていたら、そのようにしか考えられないのだ。
彼女には、人の心を根底から安らかにする何かがある、と。
「はあーあ」
アビュがため息をつきながら私の横に座ってきた。
「凄いわ、フローリアさん。もう対抗するの、やめる」
「対抗って何さ?」
私はアビュのその言葉を笑いながら答えた。
「だって私とは別種の人間みたい。何て言うか器の大きさが違うわ、あんな真似、私に出来っこないもん」
怪我人の手を包むように握り締めるフローリアを見ながら、アビュは言った。
「いや、アビュもこの大変な中よくやったよ」
戦いが終わってから日は暮れ、もうそろそろ新しい太陽が昇ろうとしている。
私たちは一睡もせず、夜を徹して怪我人たちの看病をしてきた。
その間に安静に眠り始めた者もいれば、静かに命が尽きていった者もいた。
そんな中、幼いアビュが気丈に振る舞っていたのは間違いない。
昨日まで軽口を交わしていた相手が、苦しみながら死んでいくのに立ち会っているのに、彼女は逃げ出さずにいるのだ。
それだけでも凄いものだ。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。でもフローリアさんと比べると話しにならない。誰も私のこと見てないもん。みんな、フローリア、フローリアって・・・」
確かにアビュの言う通り、この空間はフローリアの慈愛に支配されているようで、誰も介入出来る余地はなさそうだった。
アビュだけではなく、他の看護人たちも蚊帳の外に追い出されている。
元々彼女に好感を持っていなかった看護人たちは、本当に苦い顔でフローリアを見ていた。
「ボスだってそうじゃない・・・」
アビュは床の板張りのどこか一点を見つめながらそう言ってきた。
「な、何が?」
「フローリアさんが好きなんでしょ? さっきから彼女ばかり見てる・・・」
「な、何言ってんだよ、・・・僕は別に」
フローリアが気になるだけだ。好きとかどうこうではない。
ただ単に、彼女の不思議な特質に感動しているだけである。
「・・・まあ、どうでもいいけど」
アビュは私の言い訳を途中で遮ってそう言った。
「そんなことより本当に疲れたわ。ボスたちがこの塔に来てから毎日、色々なことが起きて全然気が休まらない。前まではもっと穏やかだったのに」
アビュは全身から疲れを吐き出すように、再び大きなため息を吐きながらそう言った。
「確かに僕とプラーヌスはこの塔に災厄を運んで来たのかもしれないな」
私は彼女の言葉に頷きながら答えた。
「ううん、ボスは違うと思う。でも・・・」
災厄を運んできたのはプラーヌスだけだ。そう言いたげにアビュは黙った。
まあ、アビュのその気持ちもわからないではない。
プラーヌスが最初から蛮族たちの相手をしていたら、このような悲惨な結果にはならなかっただろう。
この塔は彼の塔なのだ。
彼が命を削ってでも守らなければならなかったはず。
しかしプラーヌスだけを責めるのはやはり酷だ。
そもそも蛮族が襲来していたのは、前の主の代からなのである。
その原因を作ったのだって、その男だ。
前の主が蛮族から女神像を奪わなければ、こんなにも血生臭い塔にならなかったに違いないのだ。
私はプラーヌスの名誉のために、その辺の事情を簡単に説明しておいた。
アビュは私の言葉にあまり納得したようでもなかったが、渋々頷いた。
「じゃあ女神像さえ見つければ、もうこんな戦いは終わるってこと?」
私の説明を受けて、アビュが尋ねてきた。
「ああ、そうだね」
バルザ殿が正式にこの塔の番兵を勤められるようであるから、その仕事は急務ではなくなったのかもしれないが
しかし少し油断をすれば、今日のような惨劇がまた繰り返されてしまうに違いないのだ。
やはりそれを見つけ出さなければいけない。
とはいえ、女神像のありかなんて、もはや見当もつかない。私は既に万策尽き果てている。
「それってどんなの? 私も一緒に探そうか?」
諦めている私を励ますようにアビュはそう言ってきた。
「ああ、有難いね、だけどよくわからないんだ。蛮族の捕虜が言うには、女神像とはこの世で最も清らかで美しいものだって話しだけど・・・」
そんな説明、あまりに漠然としている。
どんな形をしているのかを教えてくれればいいのに、その捕虜も見たことがないのだろうか、いくらバルザ殿が尋ねてもそんな言葉しか引き出すことが出来なかった。
大きさも、形も、材質も何もわからないのだ。
「女神っていうからには、女の人の像なんでしょ?」
「そうだろうね」
「でもこの世で最も清らかで美しいものって」
アビュはそう言って少し口籠った。何だか自分の思いつきにまごつくように。「何て言うかまるで・・・」
私はそんなアビュの様子を見て、ハッとした。アビュが何を言おうとしたのかピンと来たのだ。
「まるでフローリアさんみたいね」
そう、私もそれを考えていたのだ。
美しくて清らかなもの、それはまさに今夜のフローリアそのものではないか。
私はそんな思いつきの確かさを確かめるように、患者たちの面倒を看ているフローリアのほうに視線をやった。
彼女は気丈にも疲れた様子を見せず、まだ一つ一つベッドを廻り、彼らの手を優しく握ってやっている。
彼らにとってフローリアは美しくて清らかな、まさに女神に違いない。
もしかして蛮族が求めている女神とは、フローリアではないのか?
私は一瞬、本気でそう思った。
しかしさすがに、そんなことがありえるわけがないだろう。
私は自分のあまりに突拍子もない思いつきに苦笑いしながら首を振った。
彼女は普通の人間ではないか。
私と同じ言葉を話し、同じように食事をし、汗をかいていた。そんなフローリアが蛮族の求めている女神だなんて。
「まさかね」
アビュも自分の言葉に苦笑いしながらそう言ってきた。
「ああ、まさか・・・」
私もそれに同意した。
私とアビュが彼女のことについて話していることに気づいたのか、フローリアはもの問いげな表情でこちらを見てきた。
私たちはフローリアを女神のようだと噂していたなんて言うわけにもいかず、困ったように苦笑いを浮かべた。




