後編・晩夏の海の午後
「喉、乾いたな。何か取ってくる」
そう言うと、彼はくしゃくしゃくになったコットンパンツだけを履いてシャツも着ず、部屋を出て行った。私はタオルケットを手繰り寄せながら、下着を探した。
スリップを身につけ、ストッキングを履き終わった時、再び部屋のドアが開く音がして、私は慌ててタオルケットで身を隠した。裸身を晒したとはいえ、事が終わった後まで素肌のままでいる気にはなれない。
「なんだ、もう服着るの」
「そういう冗談、よして」
それでなくとも彼が部屋の電気を点けたので、私は早く元通りにワンピースを着ていたかったけれど、それはベッドの下に落ちているので取ることが出来ない。彼が私の隣に座ってしまったから、尚更だ。
「飲まない?」
バドワイザーの栓を外すと、彼はその缶を私の前に突き出した。私は無言で頭を振る。彼は何も言わずに缶に口をつけた。ごくごくと彼の喉が鳴っている。
しかし、彼の三口目は、私の喉へと流し込まれていた。
その時、冷たい液体が口中に広がったのを感じた時、私はピクリと躰を震わせてしまったような気がする。何か新鮮な驚きだった。
「美味いだろ?」
私の目の前で私の顔を見つめながら、彼は一言そう言った。私はまだ彼の腕の中にいた。
「守屋君って……もっと冷たいんだと思ってた」
目を逸らしながら、しかし彼の胸に抱かれたまま、そう告げていた。
「きっと女の子抱いた後は、見向きもせずに知らん顔してるタイプだって……ね」
「神崎にそういう態度とったらまた泣き出しそうだもん」
「私は別に……!」
そう言いかけた私の口唇を、彼は再び塞いでしまった。
「ずるいんだよ、男は……。野心のある女に対しては優しく接する。定石だよな」
口唇から首筋へとゆっくり、彼の口唇がずれてゆく。
「忘れさせてやるよ、今度こそ。お前を抱いときながらお前を泣かせるような奴のことなんて。俺が忘れさせてやる」
私は何も話してなどいなかったのに、彼は私以上に、私がここに来てしまった理由をよく理解しているようだった。
忘れちまえ。
お前が泣くことなんてない。
神崎は綺麗だよ。こんなにも綺麗じゃないか……。
譫言のように呟きながら、彼は再び私を愛し始めていた。
一度、男に肌を許した女は、こうも自堕落になってしまうのだろうか。あれほど潔癖だったかつての私の姿はもはやないということに、私は気付いた。
彼は男、そして私もまた女になってしまっていた。
けれど今頃、結ばれたからといってもう、私達はどうにもならない。この夏が終われば、私は大阪へと帰り、彼は東京へと戻ってゆく。
それがわかっていながら……私達は今、お互いを求めずにはいられない。
本当ならば二年前のあの夏にこうなるべきだったのだと。そうしたら二人の道も変わっていたはずだと。言わんばかりに、彼は執拗に私を抱き締める。私は時折、あえかな悲鳴に近い吐息を漏らす。
彼の口づけが私の汚点を苦しみを拭い去ってくれると、信じているかのように。
そう信じていたかった。
***
その夏が終わるまで、私は何度彼と逢ったか覚えていない。
地方都市の繁華街など、遊ぶと言ったところで知れている。暑い街中でデートするよりは、彼は私を自宅へ呼ぶか、夜飲みに行くことの方を好んだ。
逢ったところで話す事など何もない。彼の部屋で私は私の知らない音楽に耳を傾け、彼は大抵、音楽雑誌を読んでいた。
静かな夏の午後のひとときを、私は彼と一緒に過ごすことによって、大阪で受けた傷をかなり癒やすことが出来たように思う。
彼に抱かれている時、私は何も考える必要がなかった。
彼は私を愛してくれた。
狂ったように愛されることもあれば、ただ素肌を晒し軽いキスを繰り返すだけで、いつの間にか眠りへと落ちてゆくこともしばしばだった。
けれど、彼の胸の暖かさと抱かれることの安心感は、いつでも変わらなかった。
***
彼と最後に過ごしたのは、海辺の午後だった。
晩夏の海はうらぶれていて、私達はただ波の音を数えていた。
「もう今日で最後ね。明日の今頃、私は大阪に戻っていて、あなたも数日後には東京の空の下、てわけね」
「冬にまた、逢えるさ」
「その頃には私、きっと新しい恋人ができてる。そしてあなたのことなんて忘れちゃってる」
そうに違いないわと、呟いた。
隣では守屋君が岩場の上で、寄せては返す波に少しでも近づこうとしているかのように、左の掌を波風にかざしている。
「新しい彼氏ができたら教えてくれよ」
「何故?」
「俺よりいい男じゃなかったら俺、認めない」
「やだ。そんなこと言ってたら私、いつまでたっても彼なんてできなくなっちゃう」
そんな台詞がごく自然に私の口から滑り出ていた。
「東京って、綺麗な女。多いんでしょ」
「そうだな。綺麗って言うより、派手には違いない」
「いいわね。よりどりみどりで」
「嫉妬してくれてるの?」
「ばか」
岩場の平らな石に腰掛けながら、私はいつの間にか彼に肩を抱かれ、彼にもたれかかっていた。波風に晒されながら自然、口調も穏やかになってくる。
「こうしてると私達、恋人同士なのにね……」
「否定しているのはいつだって神崎の方だ」
しかし。
それまでになく強気な彼の口調に、思わず彼の顔を見つめた。
「俺は神崎を離したくない。俺のものだと思ってる。それなのに逃げているのは神崎だ」
「だって仕方ないじゃない……! 東京と大阪なんて、遠すぎる」
あんなにも身近にいたあの頃、どうして私達は互いを無視し続けてしまったのだろう。二年の時を経て今、尚こんなにも惹かれ合っているというのに……。
東京と大阪と、お互いの生活に私達はまた戻ってゆく。
きっと彼は東京でも遊んでいるに違いないし、私もまたその内、新しい相手が見つかるかもしれない。
それでも私は多分、帰省したら彼に逢いにゆくだろう。そして、彼は何も言わずに私を受け入れてくれる。
優しくてそれ故に危険な関係──────
日没時の海は赤く染まってとても綺麗。
もう暫くの間は波を数えていたい。
大阪に帰ったら何もかも忘れてしまおう。
別れた男のことも、私を抱いた守屋君のことも……。
きっと忘れられる。
私はこれからの人生を生きてゆく。
「帰ろう。バイクの夜風は結構冷たいぜ」
「うん……」
あっさりと同意して、立ち上がる。
海は静かだった。風が吹いてくる。
もう二時間もすれば、ここも海面下に沈んでしまうだろう。
足場に気をつけながら、彼の後を追う。
忘れられない夏の想い出がまたひとつ増えてしまったことに、気がついた。
了
本作に登場する神崎は、
青春群像劇「十七歳は御多忙申し上げます」(完結済)及び
(https://ncode.syosetu.com/n3682fj/)
その続編
「十八歳・ふたりの限りなく透明な季節」(連載中)
(https://ncode.syosetu.com/n1757ft/)
のヒロインで、守屋はそのメインキャラです。
「十七歳は御多忙申し上げます」シリーズ
(https://ncode.syosetu.com/s2093f/)
に番外編・スピンオフも多数掲載していますので、併せてご覧頂ければ嬉しいです(^^)