3.まったく、予感などというものは当てにならない。
夏休み直前の、よく晴れた日だった。
ホームルームが終わると、俺と大野はいつものように廊下を走って昇降口へと向かった。帰りを急ぐのは、もちろん一刻も早く秘密基地へ行きたいからだ。
「こら、廊下を走っちゃ危ないわよ」
一階まで駆け下りた直後に、そう柔らかく声をかけられた。
振り向くと、星崎先生が笑みを浮かべて立っていた。
上は白のブラウス、下は黒のスカートといういつものシックな服装だった。首に巻いたクリーム色のスカーフが、目に鮮やかだった。
長い黒髪は後ろで束ね、やや切れ長の眼に高い鼻梁。当然化粧もしていたのだろうが、小学生男子にそうと気づかせない程度には薄めのナチュラルメイクだった。
相変わらず綺麗だった。瞬間、見とれてしまった。
「あなた達、最近やたらと元気ね。何かいいことでもあったの?」
そう悪戯っぽく話しかけられて、少なからず面食らった。
「え、先生、俺たちのこと知ってるの?」
その年、星崎先生は6年2組の担任だった。俺と大野は1組で、それまでも星崎先生に受け持たれたことがなかった。先生の方では俺たちのことなど知らないものだと思っていた。
「もちろんよ。1組の宮代くんに大野くん。宮代くんは以前元気よく挨拶してくれたことがあったじゃない。ひどい、もう忘れちゃったの?」
先生が言うのは昼休みに「おはようございます!」と声を張り上げた珍事のことだと、すぐに思い当たった。
当然覚えていた。先生の方こそ、そんな些細な出来事はとっくに忘れているものと思っていた。表情が緩むのを抑えるのに必死で、何も返事ができなかった。
「で、なんでそんなに楽しそうなの。先生にも教えてくれない?」
「そ、それは言えないよ!」
大野が裏返った声でそう応えた。大野もやはり緊張していた。
「お、男だけの秘密なんだ。先生でも教えることはできないよ」
それは秘密があることを暴露してしまったのと同じだったが、俺も大野もその時はそこまで気が回らなかった。
「そっかあ…残念。でも秘密なら仕方ないか。ふふ、男の子ってそういうとこいいわね」
先生はあっさり引き下がった。元から本気で追及するつもりはなかったのだろう。
「夢中になれるものがあるのはいいことだけれど、決まりはちゃんと守らなきゃね。廊下は静かに歩くこと。もうすぐ夏休みなんだし、良い気持ちで迎えましょ?」
「は、はい!」
俺達が唱和すると、星崎先生は一際大きな笑顔をその面に浮かべ、踵を返して廊下の向こうへと律動的な歩調で去っていった。
遠ざかるその後姿を、俺達は肩を並べたまま、ただ見つめていた。
「先生、綺麗だな…」
大野がぽつりと、そんなことを呟いた。興奮の後にくる虚脱感で、我を忘れていたのだろう。普段なら全力でからかう処だったが、その時は俺も大野と似たりよったりの状況だった。顔が火照って、頭の中が痺れていた。
「俺将来、あんな女の人を奥さんにしたいな。無理かな、先生と結婚できないかな…」
そんなことまで口に出してしまうのだから、この時の大野は余程のぼせ上っていたのだろう。将来の妻となる梨絵より実に十数年はやく、俺はこのカミングアウトを聞いていたわけだ。
「何いってんだ、先生はもう結婚してるんだぞ。子供も男の子がいて、来年小学校に入学するんだぞ」
それは以前、星崎先生と2組の女子達が喋っている内容を耳にして知った事実だった。放課後下校しようと2組前の廊下を通った時、偶々黄色い声が開いた扉から聞こえてきたのだ。女子達は先生のプライベートについて質問攻めを浴びせ、先生はそれにポツポツと応えているという様子だった。
旦那さんはかっこいいですか、何の仕事をしている人ですか、子供は先生と旦那さんのどちらに似ていますか…等々と女子たちがはしゃぎながら問いただすのを壁越しに耳にしながら、俺は密かにショックを受けていた。先生が既婚だということを、その時初めて知ったのだった。その日は食欲も失せ、夕食の席では普段ならご飯2膳は平らげる処を半膳を口にしただけで箸が止まり、家族から訝しがられた。
「そっか、先生結婚してんのか…そっか…」
そう応えた大野の声には抑揚がなく、その響きからは何の感情も伺えなかった。どうやら明後日の方向へ飛んで行った気持ちが、まだ戻ってきていないらしかった。
俺達が見つめる直線の廊下上には、既に星崎先生の姿はなかった。
俺は急に胸が締め付けられるような切なさを覚えた。たった今の去り行く後姿が、先生を見る最後となるような予感にふいに襲われたのだ。
まったく、予感などというものは当てにならない。この日の内に、俺たちは再び先生の姿を見ることになる。
夕方、空が橙色に輝き出す時刻。
7月も半ば、依然空気は蒸していた。洞窟の涼しさがありがたかった。
シートの上に腕枕をして寝転がっていた俺の傍らで、手動充電器のレバーを一心に回していた大野がその手を止めた。十分に蓄電できたと判断したのかこれ以上はきりが無いと匙を投げたのか、ともかくCDプレーヤーから伸びるプラグを充電機のプラグ受けへ差し込むと、プレーヤーにCDをセットする。
先日図書館で目当てのアルバムをレンタルすることができたので、どうしても基地内で聞きたかったらしい。
「聞けばお前も絶対気に入るって」
そう何度も繰り返された。自分の趣味の曲を俺に聞かせて感化したい、という欲求も働いていたようだ。
手動充電器は手間がかかるし、すぐに蓄電量も尽きる。電池式のポータブルCDプレーヤーを基地に持ち込みたかったが物置でもゴミ捨て場でも確保できず、大野の家にも譲ってもらえるような丁度いい在庫はなかった。市販品は当時、小学生にはそうそう手を出せない値段だった。俺の兄貴が1台所持していたが、頼んでもまず貸してくれなかっただろうし、後が怖いので無断拝借する気にもなれなかった。
音楽を鑑賞するのに十分な環境とは言い難かったが、それでもボタンをいじって曲をセレクトする大野は溌剌としていた。先刻星崎先生が結婚していると聞いて相当ショックを受けていたのに、既に愁いの名残はどこにもみえなかった。そんな切り替えの早さが薄情に思え、同時に羨ましくもあった。
やがてスピーカーから、勇ましいメロディーに乗せた英語の歌が流れてきた。
「これが『ロッキー4』の主題歌なんだ」
俺の方を振り向いた大野が、嬉しそうな表情でそう注釈を加えた。その後で曲のタイトルも言われた気がするが、そちらはもう失念してしまった。
マニアである父親の影響だったらしいが、大野は小学生にして既に映画に対しては一家言を持っていた。流行りの映画やアニメには目もくれず主に古めの洋画に傾倒していて、「クラスで話の合う奴がいない」といつも不平を漏らしていた。この頃父親がコレクションしていたロッキーシリーズのビデオを全作一気に鑑賞したらしく、相当入れ込んでいた。俺も熱心に映画の賛辞を聞かされた。語られる内容の大半は頭に入ってこなかったが、本人がシリーズの中で『4』が1番好きらしい、ということだけは嫌でもわかった。親友のために強敵に立ち向かう主人公が如何にかっこいいか、滅茶苦茶なシャドーボクシングの身振りと共に力説していた。
ちなみにさっき同窓会の席でも1度映画の話になったのだが、その時の大野は『ロッキー4』を酷評していた。「あんなのは子供だましのくだらない、アメリカのプロパガンダ映画だ!」と吐き捨てていたのだから、昔とは随分嗜好が変わったらしい。未だにシリーズを1作も見たことがない俺としては、何とも言いようがないのだが。
俺は仰向けのまま、洞窟内を満たしている騒々しい音楽に耳を委ねた。ロック調の激しい曲だったが、如何せん英語の素養がなかったので、歌詞は全く理解できない。土とビニールシートと、外から漂う夏草の匂いが交じり合って鼻腔をくすぐった。大野は音楽に没入していたらしく、一言も発さなかった。
眼を閉じて頭の中をからっぽにしながら、意味不明のシャウトを右耳から左耳に聞き流している内に、いつしか俺は眠ってしまった。




