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1.俺は表情の選択に迷った。

「星崎先生、亡くなったってよ」

 大野にそう告げられた時、会場の騒めきが一瞬遠くなった。

「亡くなった?いつだ」

「今年の初め、正月が明けてすぐだったらしい」

「マジかよ…」

「こんな悪趣味な冗談は言わねえよ」

 大野は眉をしかめ、手にしたコップに残っていたビールを一気に煽った。

 こいつの顔を見るのももう15年ぶりだろうか。小学校低学年からの馴染だが、俺が高校卒業と同時にこの町を出て以来、疎遠になっていた。今回この小学校の同窓会に出席しなければ、もう会うこともなかったかもしれない。

 面長な顔立ちに切れ長の眼。10代の頃の面影は残しているが、顎周りには髭を生やし、頬は昔よりこけたようだ。全体的に疲労の影が射している。おそらく俺の外見も似たようなものだろう。15年という歳月は、それほど軽いものではない。

「歳だって確かまだ、50になるかどうかくらいだろ…どうして」

「胃でみつかった腫瘍が、全身に転移したらしい。ここ数年は寝たきりの生活だったときいた。辛かっただろうな」

「そうか…」

 俺は表情の選択に迷った。小学生時代の先生で、クラスを受け持たれたことはなかったが何度か言葉を交わしたことがある。訃報にはもちろん驚いたし、故人を悼む思いもある。しかし胸に去来した感慨が、それだけかと言えば嘘になる。

「なあにい、何の話をしてるの?」

 俺たちの間に瞬時流れた沈黙を、殊更能天気な声が破った。

 スーツに身を包んだ梨絵が近寄ってきた。ワイングラスを右手の指で摘み、その頬は仄かに朱に染まっている。まだ一次会だというのに、大分出来上がっているらしい。

 大きく丸い眼がぱっちり開いて、見る者に少女のような印象を与える。俺たちと同い年だが、歳月の積み重ねをあまり感じさせない容貌だ。学生時代からの特技だった化粧の効用も大分寄与しているのだろうけど。

「星崎先生が他界したらしい、て話してたんだよ」

「あら、あんたらきょーこちゃんに教えられたことあったっけ?」

 先生のフルネームは星崎恭子といった。在校当時の女子児童達は、“きょーこちゃん”と呼んで慕っていた。

「直接授業を受けたことはないけど、目立つ先生だったからなあ。よく知ってたよ」

「ふーん…きょーこちゃん美人だったもんねえ。下心あったんじゃないの?」

「ああ、将来嫁にしたいと、当時は本気で思ってた」

「ま、よくも今の嫁の前でそんなことを!」

 大野は去年、梨絵と結婚したらしい。ついさっき聞かされた。これには唯々驚いた。

 梨絵も俺たちのいわゆる幼馴染で、3人で小中高と同じ学校に進み、よく行動を共にしていた。半ばきょうだいのような感覚の2人が、いつの間にか所帯を持っていたというのは妙な気分だ。

「そういやあんたは、身を固めないの?」

 大野の嫁になった女が、俺にそう水を向けてきた。

「今のところ、予定はないね」

「誰か良い人いないの?」

 失業中でそれどころじゃないよ、とは言えなかった。久々にあった旧友に弱みを見せたくなかった。

 2月ほど前、長年勤めていた印刷会社をクビになった。同僚だった社長の息子が社内で金銭の不祥事を起こし、俺が責任を押し付けられ辞表を提出することを強いられた。社長の息子は入社したばかりで、年輩の俺がいつの間にか教育係のような役割を与えられ、肩を並べて仕事にあたることが多かった。あの男が札束の入った封筒を横領しようとした時も、すぐ傍にいた。泥を被せるには手ごろな人間だった。

 不祥事を起こした息子でも社長には可愛いらしく、問題を起こした当人は今ものうのうと会社に通っている。俺だけが貧乏くじを引く羽目になった。会社を去るに際して、俺を引き留めたり上層部に抗議をしたりしてくれる同僚は、1人もいなかった…

 尤も会社にいた頃から女気はなかったのだから、上記の顛末と相手がいないこととは特に関係がないのかもしれない。

「あいにくと誰も思い当たらないなあ」

「ふん、心が冷たいから女性と縁がないのよ。ここを出てったっきり、私たちにも全然連絡くれないんだもん」

 冗談めかしていたが、梨絵の声には本気の棘が混じっていた。梨絵や大野とだけではない、15年前この地を後にして以降、故郷のすべてと距離を置いていた。

「悪かったって。忙しかったんだよ」

 俺は梨絵をなだめながら、頭の中では全く別のことを考えていた。

 星崎先生。明るくて優しくて、誰からも好かれる先生だった。

 大野だけではない、俺だって憧れていた。廊下ですれ違った時、ただ言葉を交わしたくて大きすぎる声で「おはようございます!」と声をかけたことがある。時分は既に昼休みだった。先生はそんな俺をからかう素振りもみせず、やさしく微笑んで「元気がいいのね、ありがとう」と返してくれた。その時の表情が、今でも忘れられない。

 そのまま先生は美しい憧憬の思い出として、俺の心の一隅にいつまでも残るはずだった。小学6年の夏の一日、あの出来事に遭遇するまでは。

 同窓会は駅前ホテルのラウンジを借り切って開かれている。周囲に耳を傾けると、女子のすすり泣く声が2,3聞こえてきた。やはり星崎先生の訃報が話題となって、仲のよかった女子達が悲しんでいるらしい。一方男子達の間には感傷的な様子は見られず、天気やプロ野球の話題で気楽に盛り上がっている者が殆どだった。6年時の担任ではなかったので関わりのなかった者も多いのだろうが、こういう時は得てして男子の方が女子よりドライになるものだ。

「益子くん、大げさねえ。大雨警報が出てるからって、あんなに慌てちゃって」

 梨絵が呆れたようにため息を漏らす。視線の先を辿るとラウンジの隅で小太り且つおかっぱ頭の男が、スマートフォンをのぞき込んで顔を青くしながら、明日の天気が荒れそうだと周囲の参加者達に向かって大声で叫んでいた。あの男も6年時のクラスメイトだったろうか?顔に何となく見覚えがあるものの、はっきりとは思い出せない。

「明日は日曜だし、何か予定があるのかもな。まあこの町の人間が雨に神経を尖らせるのは仕方ないよ。お前だって気持ちはわかるだろ?」

 大野が妻に対して元級友、と思しき男をとりなした。確かにここは雨の多い地域で、毎年何かしらの水害に苛まれる土地柄だった。特に今は梅雨の最中だ。雨に風が加われば交通機関にも支障が出るかもしれない。明日には東京へ発つつもりの俺も多少は懸念した方がいいのだろうが、今はそうしたことを考える気にはなれなかった。

「まったく…でもさ、きょーこちゃんは本当に良い先生だったよ。あたしにとっては5年の時のクラス担任だったけどさ、好きだったなあ。色々悩みも聞いてもらったり。今年の冬に訃報を聞いた時は悲しかったよ。ここ十数年は音沙汰もなかったから、病気しているなんて全然知らなかった。今更だけど、生きている内に一度くらい訪ねていけばよかったって思ってんだ」

 唐突に梨絵が話題を戻した。マイペースなのは相変わらずらしかったが、声には真情が籠っていた。少し涙ぐんでいるようだった。

 梨絵や他の女子が、星崎先生の死を率直に悲しめるのが羨ましかった。或いは周囲の男子達のように、意に介することなく雑談に興じられたら気楽だったろう。

 先生の訃報を耳にしてから、胸に鉛のような重たさがつっかえていた。口中には苦いものが広がっている。この会場の誰にも、いや世界中の誰にも、俺の内心を察することはできなかっただろう。ただ一人を除いて。

 俺が大野に目をやると、向こうも俺を見ていた。目が合った。瞳の奥に、灰色の雲が広がっていた。大野も同じ気持ちだ、とすぐに察した。おそらく先生の死を知ってから今日まで、秘かにわだかまりを抱き続けてきたのだろう。或いは自分の心が負った重荷を半分俺に放り投げてしまいたくて、自ら訃報を告げてきたのではないか?その負荷を分かち合うことができるのは俺だけなのだ。俺と大野だけがあの日、あの場所にいたのだから…

「何よあんたら、じっと見つめあっちゃって」

 黙って視線を交わしていた俺と大野に、梨絵が茶々を入れてきた。

「うるさいな、お前には関係ないことだ」

 大野がそう返すと、梨絵はムッとした表情を浮かべる。

「関係ないってなによ。あたしを除け者にする気!?」

「女には入り込めない、男の世界ってもんがあるんだよ」

「男の世界って…こんなところでいやらしい」

「何の話だ?」

「そりゃ私だってセクシャリティは自由だと思うけど…じゃあ何、私は遊ばれていたってこと?」

「なんか誤解しているようだけど、ちげえからな!?」

 目の前で繰り広げられる夫婦漫才に対して笑みを浮かべつつも、心はどうしても過去へと向かってしまう。

 1つの風景が思い浮かぶ。このホテルがある駅前の繁華街から郊外の方へ自転車を20分も漕ぐと、ある山に行き当たる。いや、それは子供の頃の話だから、大人になった今自転車に乗れば、もっと早くつくかもしれない。土に汚れながら草木の生い茂った山の斜面をジグザグに登っていき、深い枝葉を幾層も掻き分けた先にその場所はあった。

 おそらく大野の心にも、今同じ光景が浮かんでいることだろう。少年時代の一時期、俺達が足繁く通った場所。何よりも大切にしていた、今はもう失われてしまった懐かしい地…

 かつての俺達は、その場所を“秘密基地”と呼んでいた。

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