第五章 肉体操作
ここからは肉体操作による移動魔法について述べよう。この術は変身魔法とも呼ばれ、独立した別個の魔法であるかのように考えられることも多いが、肉体を変化させる魔法そのものは自身の細胞の移動だ。つまり変身とは移動の結果なのである。
肉体の細部を変化させる術の会得にはある種の洗脳が必要となってくる。これは精神魔法の領分であり、暗示への深い理解を要する分、容易には行使できない。しかしもちろんその苦労に見合うだけの価値はある。
大規模な戦争であろうと、小悪党との小競り合いであろうと、隠密行動を要する暗殺であろうと、これほど場面を選ばずに役立つ移動魔法は他にない。長距離または瞬発的な移動のための自己強はもちろん、敵を無害化することすら可能だからだ。
◆ 自分への適用と他者への適用
肉体操作を扱うためにはひとつ覚えておかなければならないことがある。他者にこの術をかける難しさだ。自分自身の細胞を自在に移動させることと、他者のそれを支配することは比較にならないほど困難になる。読者諸兄は漠然と「当然のことだ」と分かったような気持ちになるかもしれない。しかしその難しさの本質こそが重要なのだ。
生きとし生けるものは無意識のうちに自らの精神を守ろうとする。特に人間は数多の生物の中でも思考の多くを自意識に割いており、そもそも変身に向かない精神構造をしている。モンスターが易々と瞬時に姿形を変えるのに、その魔法の原理が分かっていても変身を会得できない人間は多い。つまり「常に自分自身であろうとする」という精神抵抗や魔法全般から心身を守るための防護壁が変化を阻むため、人間は「人間ではないもの」になることを本能的に拒むのだ。
熟練の術者であれど、咄嗟の戦闘で敵を変身させようとしてもまず成功しない。すでに緊張が限界に達している場面で敵を小鳥にでも変えようと四苦八苦しているくらいなら、自分が狼に変わって敵の喉笛に食らいついたほうがよほど早い。これは戦場における率直な現実だ。
◆ 偵察における優位性
さて、肉体操作による移動がもっとも輝くのは偵察の場面だ。移動魔法の多くは隠密性において劣り、多くは自身の姿が周囲に晒されている前提で行使されるものだが、肉体を変化させている場合だけは特別だ。敵陣を横切る移動、モンスターが蔓延る中での探索、監視の目を免れながらの調査、そして任務を果たしたことを相手に悟られずに帰還するその瞬間まで、姿形を変えるこの術ほど隠密行動に向いたものはない。
ただし、注意されたい。先に述べたように人間の精神には無意識の恒常性が働いている。したがって長時間にわたり人ならざる姿でい続けると、次第に自我を維持することが困難になってゆく。肉体の形に意識の側が引きずられ、その姿が自分の真実であると錯覚し始めるのだ。
肩や腕の細胞を移動させて翼を形作っている際に、それらの細胞が自分の本来の居場所を勘違いしてしまうと、自分が人間であったことを忘れかねない。術の行使が長時間に及ぶ際は、都度適度な休息を取り、もとの姿に戻って心身を取り戻すことを強く勧める。
◆ 環境に応じた変身の使い分け
人間の逃れられない恒常性を制して肉体操作を行えるようになった者は、類い稀な柔軟性を持つということでもある。
鳥となれば空を縦横無尽に飛び回ることができ、魚となれば息継ぎを要さず川や海を潜り続けることができる。また鼠となれば城壁の隙間や地下の通路さえ通り抜けられる。人間の姿のままでは決して通れない経路を利用できること――これこそがこの移動魔法の最大の強みだ。人間の地図に載らない道は、いつも人間以外の生き物のために存在している。
そしてもちろん肉体操作は戦闘における活用方法も幅広い。瞬時に姿を変えることで敵の予想を大きく外し、回避や防御行動の効果が期待できる。さらに大型の獣に変じての突撃、毒虫への変身による暗殺、水棲生物に姿を変えての奇襲など、状況に応じた使い分けが鍵となる。モンスターになれば自身は会得できていない魔法を行使できる場合もある。
熟練の域に達した魔法使いであれば、全身を変えるのではなく、必要な筋力や脚力といった一部だけを部分的に変化させる技を会得する。人間の姿を保ったまま身体能力だけを底上げできるため、見た目から正体を悟られにくいという利点がある。
高等魔法使いの中には、生物にとどまらず風や雷、炎、影といった実体を持たぬ存在へと姿を変える技術を会得する。この境地に至った者はもはや単なる移動手段として魔法を使うだけでなく、「意志を持つ破壊魔法」としてこの術を行使することができる。雷そのものとなって敵を打ち据えながら駆け抜ける――その姿を想像するだけで、肉体操作という術の奥深さが知れるだろう。
◆ 肉体操作への対処
無敵のように思える魔法を学ぶ時こそ、その対処法も学ばねばならない。それは術者自身の弱点に繋がるからだ。隠密性に長けた肉体操作の見破り方をあえて記そう。
肉体操作は細胞を移動させて別の像を模るが、それらは常に元の位置に戻ろうとしている。したがって変身した術者は本来の習慣や癖を完全には隠しきれないものだ。
鷹になってもなお空を飛びながら人間のように周囲をきょろきょろと見回してしまう者、狼の姿をしながらも不用意に明るさや温かさを求めて焚き火へ近づいてしまう者がいる。そうした人間らしさの名残が変身を見抜く手がかりになる。実際のところ、鑑定眼のある魔法使いよりも先に経験豊富な猟師や牧童こそが変身者の存在に気づくことは決して珍しくない。
また、戦場において影や風への変身を行使する相手にも効果的な攻撃・術の妨害方法がある。たとえば広範囲への火炎や煙幕、粉塵の散布だ。視界も呼吸も奪われれば姿を保ち続けることが難しくなる。そうして姿を保てなくなった術者は否応なく元の肉体へ戻らざるを得ない。呼吸を必要としないほどの熟練者でさえ、自我の根幹にある意志が乱れれば術そのものが揺らぐからだ。
彼らの冷静さを奪い、恐怖や怒りを抱かせること。これが肉体操作を相手にする上で最も確実な対策であり、同時にそれらを失わないことが、肉体操作を扱う上で最も重要な対策である。




