普通とは。
普通とは何か。
その問いを、私は軽い気持ちでチンポジ博士に投げた。
投げたあとで、少し後悔した。
なぜなら、この博士は「普通とは何か」という問いを、たぶん普通には処理しないからだ。
博士はいつもの喫茶店の奥に座っていた。
白衣。コーヒー。紙ナプキン。胸ポケットのサイコロ二つ。
前回と同じだった。
「博士」
「何かね」
「普通って何ですか」
博士は一秒も考えなかった。
「多数派の省略名だ」
「早いですね」
「簡単な問いだからだ」
「哲学っぽい問いなのに」
「哲学っぽい問いほど、最初の答えは短い方がいい。長くなるのは、そのあとだ」
「嫌な予告ですね」
博士は紙ナプキンを一枚取った。
そして、そこに大きく書いた。
普通=多数派の省略名
「普通とは、多くの人がそうしている、という状態のことだ」
「多数決ですか」
「近い。ただし、正しさではない」
「正しさではない」
「そうだ。普通とは、正しいという意味ではない。多くの人がそうしている。多くの場面でそれで済む。だから毎回説明しなくていい。その状態を普通と呼ぶ」
「説明コストが低い状態」
「そうだ」
博士はうなずいた。
「たとえば、椅子には座る」
「普通ですね」
「靴は足に履く」
「普通ですね」
「信号は赤で止まる」
「普通ですね」
「店では商品を買う」
「普通ですね」
「外に出る時は、だいたい服を着る」
「普通ですね」
「これらは、いちいち説明しなくていい。なぜ椅子に座るのか。なぜ靴を手にはめないのか。なぜ赤信号で止まるのか。毎回説明していたら生活が壊れる」
「まあ、そうですね」
「つまり普通とは、社会運用の圧縮形式だ」
「圧縮形式」
「毎回ゼロから確認しないための初期設定だ」
博士は紙ナプキンに、今度はこう書いた。
普通=デフォルト設定
「普通は便利だ」
「そこは認めるんですね」
「もちろんだ。普通がなければ、生活は毎回交渉になる」
「たしかに面倒ですね」
「朝、店に入るたびに『私は商品を購入する意思があります。窃盗ではありません』と宣言したいかね」
「嫌です」
「レストランで『この椅子に座ってもよろしいですか。椅子とは座るための道具という理解で合っていますか』と確認したいかね」
「嫌です」
「だから普通は必要だ」
「でも、正しさではない」
「そうだ」
博士はコーヒーを飲んだ。
「普通は便利だ。だが、普通を真理だと思うと事故る」
「真理ではない」
「普通は、多数派向けの初期値だ。初期値は便利だが、全員に最適とは限らない」
「初期値」
「そう。アプリの初期設定と同じだ。多くの人はそのまま使える。だが、全員がそのまま快適とは限らない」
「文字サイズを大きくしたい人もいる」
「そうだ」
「ダークモードにしたい人もいる」
「そうだ」
「通知を切りたい人もいる」
「そうだ」
「普通は初期設定であって、絶対設定ではない」
「その通り」
博士は満足げにうなずいた。
「では、身体の話に移ろう」
「嫌な予感がします」
「普通の下着とは何か」
「やっぱりそっちに行くんですね」
「逃げるな。普通を語る時、身体から逃げると嘘になる」
「言ってることは正しいのに題材が嫌です」
「普通の下着とは、多くの者が違和感なく通過できる設計だ」
「通過」
「日常をだ」
「表現を選んでください」
「しかし、すべての者に最適とは限らない」
「まあ、それはそうでしょうね」
「体格が違う。姿勢が違う。動き方が違う。好みが違う。締め付けの許容度が違う。つまり、普通の下着は、多数派向けのデフォルト設定であって、全員の正解ではない」
「チンポジ哲学ですね」
「そうだ」
博士は胸を張った。
「普通のチンポジなど存在しない」
「胸を張って言うことではないです」
「あるのは、多くの者が違和感なく生活できる下着設計だけだ」
「言い方はまともなんですよね」
「普通とは、そういうものだ」
博士は紙ナプキンに三つ目の式を書いた。
普通≠真理
「普通でないことは、間違いではない」
「ただ、説明コストが増える」
「そうだ」
博士は指を折りながら例を挙げた。
「左利き」
「普通から外れますね」
「車椅子」
「環境によりますね」
「食物アレルギー」
「確認が必要になります」
「夜型」
「社会の時間割とズレますね」
「方言」
「場所によっては説明がいる」
「文化差」
「普通が変わる」
「体格差」
「設計が合わないことがある」
博士は指を止めた。
「普通から外れると、本人か周囲のどちらかに調整コストが出る」
「それは差別ですか」
「違う。まずはコストだ」
「まずは」
「そう。ここでいきなり善悪に飛ぶと、処理を間違える」
博士の声が少しだけ硬くなった。
「普通から外れた者を、間違いとして裁くなら差別に近づく」
「普通じゃないからおかしい」
「そうだ」
「普通に合わせろ」
「そうだ」
「普通でないなら排除する」
「そうだ」
「それはまずい」
「まずい」
博士はうなずいた。
「だが、逆に普通を全部悪として消そうとしても壊れる」
「普通を消すと?」
「毎回説明。毎回確認。毎回交渉。毎回調整。運用コストが爆増する」
「それも無理ですね」
「だから、普通を持つこと自体が悪いのではない」
「問題は、普通を絶対化すること」
「その通り」
博士は紙ナプキンに線を引いた。
普通は初期値。
正義ではない。
だが、不要でもない。
「普通は、運用上の初期値として使うものだ。正義として振り回すものではない」
「普通を武器にするな」
「そうだ」
私は少し考えた。
普通。
普段、何気なく使っている言葉だ。
普通はこうだ。
普通はそんなことしない。
普通ならわかる。
普通の人は。
普通の男は。
普通の女は。
そこまで考えて、私は博士を見た。
「博士」
「何かね」
「ジェンダーも入りますね」
「当然入る」
博士は即答した。
「普通の男。普通の女。これはかなり強い初期設定だ」
「身体、文化、期待、役割が絡みますね」
「そうだ」
博士は紙ナプキンの端に、四つの言葉を書いた。
身体
文化
期待
役割
「ジェンダーとは、このあたりが絡んだ普通の初期設定群だ」
「初期設定群」
「男はこう。女はこう。男ならこう振る舞う。女ならこう振る舞う。男はこういう服。女はこういう服。男はこういう仕事。女はこういう役割」
「時代や文化で変わりますね」
「変わる。だから真理ではない」
「でも、完全に無いわけでもない」
「そうだ」
博士はうなずいた。
「普通の男らしさ、普通の女らしさは、文化の中に存在する。多数派には説明コストが低い。本人にとって楽なこともある。周囲が扱いやすいこともある」
「でも苦しい人もいる」
「いる」
「普通を押し付けられると」
「壊れる」
博士は短く言った。
「普通の男なら泣くな。普通の女なら控えめにしろ。普通の男なら稼げ。普通の女なら世話をしろ。普通の男ならこういう服を着るな。普通の女ならこういう話し方をしろ」
「普通が正義になってますね」
「そうだ。初期値が裁判官になっている」
「それはまずい」
「まずい」
博士はコーヒーを置いた。
「だが、逆に普通を全部消せばよい、という話でもない」
「ここが難しいですね」
「難しくない。面倒なだけだ」
「違いは何ですか」
「難しいと言うと、わからないから諦めたくなる。面倒と言えば、処理すればよいとわかる」
「なるほど」
「ジェンダーにおいても、普通はある。身体差もある。文化差もある。期待もある。役割もある。これを全部なかったことにすると、現実の処理ができない」
「でも真理にすると押し付けになる」
「そうだ」
「だから初期値として扱う」
「そうだ」
「外れた人を間違いとして裁かない」
「そうだ」
「ただし、外れる場合には調整コストが発生することも認める」
「そうだ」
「そのコストを誰がどこまで負担するかは、別途設計する」
「その通り」
博士は満足そうに目を細めた。
「君はもう普通をかなり理解している」
「嫌ですね。チンポジ博士に褒められるの」
「名誉だ」
「名誉の置き場所に困ります」
博士は笑った。
「普通とは、雑に言えば多数派の省略名だ。もう少し正確に言えば、説明コストを下げるためのデフォルト設定だ」
「便利だが、真理ではない」
「そうだ」
「初期値として使う」
「そうだ」
「正義として振り回さない」
「そうだ」
「外れた人を間違いとして裁かない」
「そうだ」
「でも普通を全部消そうとすると、運用が壊れる」
「そうだ」
「ジェンダーも同じ」
「そうだ」
博士は紙ナプキンをこちらに押し出した。
そこには、今日のまとめが書かれていた。
普通とは、多数派向けのデフォルト設定である。
便利だが、真理ではない。
初期値として使え。
正義として振り回すな。
外れた者を裁くな。
ただし、普通を消せば運用が消えると思うな。
「これが博士の答えですか」
「そうだ」
「かなりまともですね」
「私はいつもまともだ」
「名前以外は」
「名前もまともだ」
「そこは哲学以前に認識がズレています」
私は紙ナプキンを見ながら、ふと思った。
「つまり、普通とはチンポジでいうところの量産型パンツですか」
博士は深くうなずいた。
「そうだ。多くの者には合う。だが、全員に合うとは限らない」
「またパンツに戻るんですね」
「普通とは、戻る場所があることでもある」
「ちょっと良いこと言った風にしないでください」
「実際、良いことを言った」
「題材が台無しにしています」
「題材があるから忘れない」
それは、たしかにそうだった。
普通。
多数派の省略名。
説明コストを下げる初期値。
便利だが、真理ではない。
正義ではない。
でも、不要でもない。
普通を全部消せば、世界は自由になるのではなく、毎回説明が必要になる。
普通を絶対化すれば、普通でない人を裁き始める。
どちらも違う。
普通は使うものだ。
信仰するものではない。
私は席を立った。
「博士」
「何かね」
「今日の話は、かなり使えそうです」
「使いたまえ」
「押し付けない範囲で」
「それが普通だ」
「今の普通は、ちょっと良い普通ですね」
「普通にも種類がある」
「また一本書けそうなことを言わないでください」
博士は笑った。
喫茶店を出ると、街は普通に動いていた。
人が歩き、車が走り、店員が看板を出し、学生が笑いながら通り過ぎた。
普通の光景だった。
でも、その普通は、少しだけ違って見えた。
誰かにとっては楽な初期値。
誰かにとっては合わない設定。
誰かにとっては説明しなくて済む道。
誰かにとっては毎回つまずく段差。
普通は正しいから普通なのではない。
多くの人が、それで済んできたから普通なのだ。
私はその日、普通という言葉を少しだけ疑うようになった。
ただし、普通にパンツは履いた。




