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哲学と私 あるいは、チンポジ博士の講義  作者: チンポジ博士


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正義とは。

 正義とは何か。


 その問いを口にした瞬間、博士は顔をしかめた。


「嫌そうですね」


「嫌な問いだからな」


「正義がですか」


「そうだ。正義という言葉は、強すぎる」


 博士はいつもの喫茶店の奥に座っていた。


 白衣。

 コーヒー。

 紙ナプキン。

 胸ポケットのサイコロ二つ。


 いつもの博士だった。


 けれど、今日の博士は少しだけ慎重だった。


 博士は紙ナプキンを一枚取った。


 そして、短く書いた。


 正義=疑うべき言葉


「いきなり否定ですか」


「否定ではない。警戒だ」


「正義を警戒するんですか」


「当然だ」


 博士はペン先で紙ナプキンを軽く叩いた。


「正義という言葉は、他人を殴る時に使いやすい」


「殴る」


「物理的にとは限らない。批判する。断罪する。黙らせる。排除する。矯正する。謝罪させる。考えを変えさせる。そういう行為に、正義は乗りやすい」


「正しいからやっていい、になる」


「そうだ」


 博士は紙ナプキンに、もう一つ書いた。


 私は正しい。

 相手は間違っている。

 だから直してよい。


「これが危険だ」


「かなり危険ですね」


「正義は、この三段階を一気に通してしまう」


「私は正しい」


「相手は間違っている」


「だから直してよい」


「そうだ」


「しかも、直してよいが、殴ってよいに変わる」


「変わる」


「黙らせてよいにもなる」


「なる」


「排除してよいにもなる」


「なる」


 博士はうなずいた。


「だから正義は危険だ」


「でも、正義が全部ダメという話ではないですよね」


「もちろん違う」


 博士は即答した。


「正義がなければ、理不尽に抵抗できない」


「はい」


「暴力に反対できない」


「はい」


「不正を止められない」


「はい」


「約束を守れと言えない」


「はい」


「だから正義は必要だ」


「必要なのに危険」


「そうだ」


 博士は紙ナプキンに、さらに書いた。


 正義は必要である。

 だから危険である。


「逆じゃないですか」


「逆ではない。必要だからこそ、人は疑わなくなる」


「正義だから疑わない」


「そうだ」


「正しいことだから、止まらない」


「そうだ」


「正しいことだから、やりすぎても気づかない」


「そうだ」


 博士は少しだけ声を低くした。


「正義の恐ろしさは、悪意がなくても暴走するところにある」


 私は黙った。


 正義。


 いい言葉のはずだった。


 少なくとも、悪い言葉ではない。


 だが博士は、その言葉をまるで刃物のように扱っていた。


「博士」


「何かね」


「チンポジ哲学では、正義はどう扱うんですか」


 博士は少しだけ姿勢を正した。


「本題だな」


「本題なんですね」


「正義は、チンポジ哲学の危険領域だ」


「危険領域」


「そうだ。本人にしかわからない収まりがある。最適解は人によって違う。他人が決めると事故る。これはチンポジ哲学の基本だ」


「はい」


「ならば、絶対の正義はあるか」


「ない、ですか」


「少なくとも、人間が簡単に持てるものではない」


 博士は紙ナプキンに書いた。


 絶対の正義はない。

 あるのは、それぞれの収まりと、それぞれの事情である。


「これは強いですね」


「強いが、誤解するな」


「誤解?」


「何でも許せ、という話ではない」


「違うんですか」


「違う。人を殴るな。盗むな。約束を破るな。殺すな。そういう共有領域のルールは必要だ」


「はい」


「だが、それを超えて、他人の内側や生き方や価値観まで、自分のベスポジで矯正しようとするな、という話だ」


「なるほど」


 博士はペンを置いた。


「己のベスポジを他者へ押し付けることは、正義ではない」


「では何ですか」


「傲慢だ」


 博士ははっきりと言った。


「傲慢」


「そうだ。自分にとっての収まりが、他人にとっても正しいとは限らない」


「右がいい人もいる」


「左がいい人もいる」


「固定がいい人もいる」


「自由がいい人もいる」


「一人一派」


「その通り」


「そこで、自分の派を正義と呼び始めると」


「戦争になる」


「そこまで行きますか」


「行く」


 博士は紙ナプキンに、少し強く書いた。


 己のベスポジを正義と呼ぶな。


「これがチンポジ哲学の正義論だ」


「最悪の言い方なのに、かなりまともですね」


「私はまともだ」


「名前以外は」


「名前も正義だ」


「それは疑うべき言葉です」


「よく学んでいる」


 博士は少しだけ笑った。


「では、チンポジ哲学における正義とは何か」


「何ですか」


「正義という言葉自体に疑問を持つことだ」


 博士は紙ナプキンに大きく書いた。


 チンポジ哲学における正義

 =「正義」という言葉そのものを疑うこと


「正義を持つな、ではない」


「はい」


「正義を語るな、でもない」


「はい」


「正義を持った瞬間に、自分を疑え」


「自分を」


「そうだ」


「相手ではなく?」


「まず自分だ」


 博士は続けた。


「自分は今、何を正義と呼んでいるのか」


「はい」


「それは本当に共有領域の問題なのか」


「はい」


「それとも、自分の好みを他人に押し付けているだけなのか」


「はい」


「相手の内側まで支配しようとしていないか」


「はい」


「終わりの条件はあるのか」


「はい」


「誰が判断するのか」


「はい」


「どこまでやったら止まるのか」


「いつものデバッグですね」


「正義ほどデバッグが必要な言葉はない」


 博士は紙ナプキンに線を引いた。


 正義を持った時ほど、自分の手を縛れ。


「手を縛る」


「そうだ」


「他人を殴る前に?」


「他人を殴る前に」


「自分がどこまでやってよいのかを決める」


「そうだ」


「それがない正義は?」


「暴走する」


 博士は淡々と言った。


「正義とは、他人を殴る許可証ではない」


「では何ですか」


「自分の行動を制限するための基準だ」


 博士は紙ナプキンに書いた。


 正義=他人を殴る許可証ではなく、自分の行動を制限する基準


「これも今日の中心だ」


「中心が多いですね」


「正義は厄介だからな」


「つまり、正義があるから何でもしていい、ではない」


「そうだ」


「正義があるからこそ、ここから先はやってはいけない、と決める」


「そうだ」


「正義がブレーキになる」


「その通り」


「でも現実には、アクセルになりやすい」


「そこが問題だ」


 博士はコーヒーを一口飲んだ。


「ここでカントを借りよう」


「正義でカントですか」


「当然だ。カントなら、君の行動原理は普遍化できるか、と問う」


「普遍化」


「自分だけがやってよい、ではダメだ。全員が同じことをしても成り立つか」


「たとえば、正義のためなら嘘をついてよい」


「全員がそれをやると、言葉が壊れる」


「正義のためなら相手を黙らせてよい」


「全員がそれをやると、議論が壊れる」


「正義のためなら相手の内心を裁いてよい」


「全員がそれをやると、人間関係が壊れる」


「正義のためなら例外的に暴力を使ってよい」


「全員がそう思えば、ただの衝突になる」


「カント、便利ですね」


「かなり便利だ」


 博士は紙ナプキンに書いた。


 その正義は、全員が使っても成り立つか。


「これは良いチェックだ」


「正義を持った側だけが使えるルールは怪しい」


「そうだ」


「自分たちだけ例外になる正義」


「危険だ」


「相手には許さないが、自分たちは許される」


「かなり危険だ」


「正義の名を借りた特権ですね」


「そうだ」


 博士は次に、別の名前を書いた。


 アリストテレス


「アリストテレスも借りよう」


「正義で?」


「正義は、一人では完結しない。人との関係、分配、共同体の中で問題になる」


「誰に何をどう配るか」


「そうだ。権利、責任、罰、報酬、役割。正義は関係の中で出てくる」


「自分の内側だけではなく、共有領域の話」


「その通り」


「だから、自分のベスポジだけでは決められない」


「そうだ」


「他人の領域、共有領域、制度、コスト、責任主体が要る」


「かなり設計ですね」


「正義は設計を逃げられない」


 博士は紙ナプキンに書いた。


 正義は、共有領域の設計問題である。


「ここで大事なのは、正義を気分で終わらせないことだ」


「気分」


「許せない。腹が立つ。かわいそう。ひどい。そういう感情は入口にはなる」


「はい」


「だが、それだけでは設計にならない」


「何をどう変えるのか」


「そうだ」


「誰がやるのか」


「そうだ」


「どこまでやるのか」


「そうだ」


「費用は誰が払うのか」


「そうだ」


「どうなったら終わるのか」


「そうだ」


「それがない正義は?」


「叫びだ」


「厳しい」


「叫びにも意味はある。だが、叫びを制度にするには設計が要る」


 博士は続けた。


「ここでニーチェも借りられる」


「やっぱり来ますね」


「ニーチェなら、その正義は誰の都合で作られた価値なのか、と疑う」


「正義の背後を見る」


「そうだ」


「誰が得をするのか」


「そうだ」


「誰が裁く側に立つのか」


「そうだ」


「誰が悪者にされるのか」


「そうだ」


「誰が責任を逃れるのか」


「そうだ」


 博士は紙ナプキンに書いた。


 その正義は、誰を裁くために作られたのか。

 その正義で、誰が裁く側に立つのか。


「これは嫌な問いですね」


「必要な問いだ」


「正義を疑う」


「そうだ」


「でも、疑いすぎると何もできなくなりませんか」


「なる」


「じゃあどうするんですか」


「疑いながら使う」


「難しいですね」


「正義は難しい」


 博士は、そこで少しだけ優しい声になった。


「正義を完全に捨てる必要はない」


「はい」


「だが、正義を握った時、人は強くなりすぎる」


「強くなりすぎる」


「そうだ。だから、握った手を見ろ」


「握った手」


「その手に刃物がないか確認しろ」


 博士は紙ナプキンに、ゆっくり書いた。


 正義とは、他人を裁くための刃ではない。

 自分が刃を持ってしまったことに気づくための警報である。


 私は、少し黙った。


 正義が警報。


 それは、かなり博士らしい答えだった。


「博士」


「何かね」


「正義って、持つと気持ちいいですよね」


「非常に気持ちいい」


「自分が正しい側に立てる」


「そうだ」


「相手を責められる」


「そうだ」


「自分の怒りに理由がつく」


「そうだ」


「周りも味方につけやすい」


「そうだ」


「だから危ない」


「その通り」


 博士はうなずいた。


「正義は、人間の怒りに翼を与える」


「かっこいいですね」


「だが、飛んでいく先は保証されない」


「落ちることもある」


「他人に突っ込むこともある」


「燃えることもある」


「そうだ」


 博士は今日の答えをまとめ始めた。


 正義とは、疑うべき言葉である。

 正義は必要である。だから危険である。

 絶対の正義はない。あるのは、それぞれの収まりと、それぞれの事情である。

 己のベスポジを他者へ押し付けることは、正義ではなく傲慢である。

 チンポジ哲学における正義とは、「正義」という言葉そのものを疑うことである。

 正義とは、他人を殴る許可証ではなく、自分の行動を制限する基準である。

 その正義は、全員が使っても成り立つか。

 正義は、共有領域の設計問題である。

 その正義は、誰を裁くために作られたのか。

 その正義で、誰が裁く側に立つのか。

 正義とは、他人を裁くための刃ではない。自分が刃を持ってしまったことに気づくための警報である。


「博士」


「何かね」


「正義って、かなり怖いですね」


「怖い」


「でも、ないと困る」


「非常に困る」


「正義がないと、理不尽に抵抗できない」


「そうだ」


「正義が強すぎると、他人を踏む」


「そうだ」


「だから、正義を持った時ほど疑う」


「そうだ」


「まず自分の手を見る」


「そうだ」


「刃を持っていないか」


「そうだ」


「チンポジで言うなら」


 博士は静かに言った。


「己のベスポジを、世界の正解だと思うな」


「かなり綺麗ですね」


「私は哲学者だからな」


「名前以外は」


「名前も哲学的だ」


「それは博士の正義ですか」


「いや、私の主張だ」


「弱めましたね」


「正義を疑っているからな」


 博士は笑った。


 喫茶店を出ると、外は少し騒がしかった。


 駅前で、誰かが何かを訴えていた。


 正しいことを言っているのかもしれない。


 間違っているのかもしれない。


 あるいは、正しい部分と、危うい部分が混ざっているのかもしれない。


 私は少し立ち止まった。


 正義とは何か。


 他人を殴る許可証ではない。


 自分の行動を制限するための基準。


 自分が刃を持ってしまったことに気づくための警報。


 絶対の正義はない。


 あるのは、それぞれの収まりと、それぞれの事情。


 だから、己のベスポジを他者へ押し付けることは、正義ではない。


 傲慢だ。


 その日から私は、「正義」という言葉を少しだけ怖く感じるようになった。


 もちろん、正義を捨てるわけではない。


 理不尽に抵抗するために、正義は要る。


 不正を止めるために、正義は要る。


 誰かを守るために、正義は要る。


 けれど、正義を握った時ほど、自分の手を見る必要がある。


 その手に刃がないか。


 その刃を、誰に向けているのか。


 その刃は、本当に必要なのか。


 そして、その正義は。


 他人の収まりを、自分のベスポジへ無理やり押し込もうとしていないか。


 チンポジ博士の言い方は最悪だった。


 けれど、その最悪の言い方の奥に、たぶん大事なものがあった。


 正義とは、まず疑うべき言葉である。

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