幕間 宗一郎
エレナを最初に見た時、うるさい子だと思った。
うるさい、というのは声の話ではなく、存在の話だ。
召喚の光の中で人垣の後ろに立って、こちらを睨んでいた。
隠す気もなく、ずっと睨んでいた。
ああ、いる――
こういう人間が、いつもどの世界にもいる。
力がなくても諦めない人間。
諦め方を知らない人間。
知らないのではなく、知ろうとしない人間。
そういう人間は、いつも見ていて疲れる。
どうしてそこまでできるのかが、俺にはわからないからだ。
わからないから、見てしまう。
訓練場で剣を振っているのを、何度か見た。
見るつもりはなかった。
通りかかったら見えた。
ただそれだけだ。
百三十二回しか振れなかった日があった。
五百回のつもりで、百三十二回で止まっていた。
自分が何かに意識を囚われていたことに、気づいていなかった。
俺には、それがわかった。
わかったから、今日も早かったな、とだけ言った。
余計な一言だったかもしれない。
でも言ってしまった。
こういうことが、以前の世界では何度もあった。
言うつもりがないことを、言ってしまう。
多くの世界を渡ってきた。
その中に、似たような人間がいた。
力がないのに諦めない人間。
そういう人間を、俺は遠くから見ていた。関わりすぎないように。
でもこの世界では、距離が縮まっていた。
なぜかはわからなかったが、縮まっていた。
エレナが自分から動くようになったのは、いつ頃からだったか。
王のところへ行った日から、だと思う。
自分の意志で情報を集め、自分の意志でレオンに教えを請いに行き、自分の意志でシオンを呼んだ。
その変化を、外から見ていた。
見ていて、思うことがあった。
変わり方を、知っている。
多くの世界で、こういう変化を見てきた。
何かを得るために動き始めた人間が、動いた結果に変えられていく。
その変化は、外から見るとわかりやすい。
でも本人は中々気づかない。
エレナも、わかっていないだろう。
自分がどれだけ変わったかを、本人はわかっていない。
でも変わっている。
確実に、変わっている。
打ち合いをした夜のことを、まだ覚えている。
重心が後ろすぎる、と言った。
エレナは黙って聞いた。
それから構えを直した。
直してから、また振り始めた。
悔しいから続けたくない、と言った。
その言葉が、印象に残った。
悔しいから続けたくないと逃げた。
エレナは逃げでも構わないと言い、そして実際に帰ってしまった。
しかし翌朝は、また訓練場に来ていた。
悔しいから続けたくないと言いながら、翌朝も来ていた。
それがエレナという人間だった。言葉と行動が、少しずれている。
言葉は弱くても、行動を止めない。
テオがいつも、嬉しそうにエレナを見ていた。
テオの目は正直だ。
テオが嬉しそうにしている時は、たいてい本当にいい場面だ。
テオが嬉しそうにしていることが、増えた。
それが何を意味するのかを、宗一郎はまだ考えていた。
レオンに話しかけられたのは、東部からの帰路の夜だった。
宿の外で空を見ていたら、レオンが来た。
「少し、いいか」
「なんだ」
「エレナのことを頼みたい」
俺は少し考えた。
「頼む、とはどういう意味だ」
「そのままの意味だ」
レオンは空を見た。
エレナが木剣を振る音が、裏手から聞こえてきた。
「俺にはできないことがある。言葉で届けることだ。俺は言葉が下手だ。頭に手を置くことしかできない。でもエレナには言葉が必要な時がある。そういう時に、俺じゃ届かない」
俺は何も言わなかった。
「お前は言葉を届けられる。昨日の打ち合いの後、土台がある、と言った。あれはエレナに届いた。俺には言えなかった言葉だ」
「なぜ俺に言う」
「パーティを組んでいないと言っているのは知っている。それでも道が同じなら、一緒にいることになる。一緒にいるなら、頼んでおきたい」
レオンは少し間を置いた。
「お前がエレナをどう思っているかは、俺には関係ない。ただ、エレナには隣にいられる人間が必要だ。折れそうになった時に、支えられる人間が」
「お前はエレナが折れそうになった時に、何をする」
「黙って隣にいる」
「それだけか」
「それしかできない」
俺は少し考えた。
「お前は、エレナのことが好きなのか」
レオンは答えに詰まった。
「関係ない話だ」
「そうか」
「ただ」
レオンは空を見た。
「エレナが変わっていくのを、一番近くで見てきた。その変化を、ちゃんと見ていてやれる人間がいてほしい。俺以外にも」
「わかった」
それきり、レオンは何も言わなかった。
少しして、宿に入っていった。
最後に振り返って、ありがとう、と言った。
「礼はいらない」
「言葉にして、伝えたかった」
ありがとう、という言葉が、少し引っかかった。
頼んだ側が礼を言った。
礼を言われる筋合いはなかった。
でも。それがレオンという人間の誠実さだった。
感情を持ちながら、黙って隣にいる人間。
俺に、そういうことができるだろうか。
感情を持つことは、まだできる。
しかし黙って隣にいることが、どういうことなのか、今一つわからない。
隣にいる、ということの意味が、長い時間の中でわからなくなっていた。
テオだけが例外だった。
テオは何も言わなかったから。
言葉を持たないから。
言葉がない分、ただそこにいることができた。
しかしエレナは言葉を持っている。
言葉で届けてくる。
思ってもいない場所に、届けてくる。
今夜の焚き火でも、そうだ。
力が足りないことが怖い、と言った。
そして俺に、何が怖いか、と尋ねた。
また繰り返すことが怖い、と答えた。
答えてから、自分で少し驚いた。
そんなことを言うとは、思っていなかった。
言うつもりがなかったことを言ってしまった。
エレナには思ってもないことを言ってしまう。
なぜなのかは、よくわからなかった。
過去に救った世界のことはあまり話さなかった。
話す相手がいなかった、というのが正確だ。
どの世界でも、俺は異世界に来て、救って、去った。
去り際に何かを残そうとしたことはなかった。
残す必要もなかった。
しかしこの世界では、何かが残りそうな気がした。
残りそう、というのはただの予感だ。
テオは知っているかもしれない。
テオはいつも、俺が気づく前に知っている。
だから先ほど、残ってほしいと言っていますか、とエレナが聞いた時に、テオが何か言った。
その間が、いつもより長かった。
それが、テオなりの答えだった。
俺はテオを見た。膝の上で丸くなって、寝息を立てていた。
テオと一緒にいるのは、何年になるか。
数えたことがない。
数える意味がないと思っていた。
でもこの世界に来てからは、数えてみたいと思うことが、少しある。
なぜなのかは、よくわからないが。
焚き火が静かに燃えていた。
エレナが空を見上げて、星を見ていた。
何を考えているのか、俺にはわからなかった。
出し方を忘れた感情が、この世界では少しずつ形を取り戻している気がした。
形を取り戻すことが、どういうことかも、よくわからない。
ただ、感情、記憶、それ以外にも、人が人に紡いでいけるもの――
そういうものを世界に残すというのは、悪くない気がした。




