第1章:喝采という名の断頭台
1.胃薬が欲しいパレード
想像してみてほしい。
視界の全てを埋め尽くす、数万人――いや、十万人はいるであろう人間の頭、頭、頭。
彼らは一様に目を血走らせ、口角を耳まで裂けそうなほど吊り上げ、喉が破裂せんばかりの絶叫で、あなたの名前を連呼している。
空からは色とりどりの紙吹雪が視界を遮り、王城のバルコニーには国一番の楽団が奏でるファンファーレが、暴力的な音量で轟いている。
誰もがあなたを愛し、あなたに期待し、あなたこそが世界を救う唯一の希望だと信じて疑わない。
これこそが人生の絶頂。誰もが夢見る英雄の凱旋――の前祝い。
――ただし、彼らがあなたに求めているのが、「唯一無二の親友の惨殺」だとしたら?
それは祝福ではない。
これは、『喝采』という名の断頭台だ。
そして僕は、今まさにその断頭台の階段を、満面の笑みで登らされている死刑囚だった。
「勇者カイト万歳!!」
「我らが光に、女神の加護を!!」
「憎き魔王ルシアンに、正義の鉄槌を!!」
ドゴォォォォォン……!
歓声はもはや音波の領域を超えていた。物理的な質量を伴った衝撃波だ。
僕はバルコニーの大理石でできた欄干に手を置き、身体を支えるふりをした。
実際には、指一本でこの欄干を粉砕できるだけの力が入っている。だが、僕はそれを悟られないよう、わざと指先を小刻みに震わせてみせた。
「プレッシャーに怯える、田舎出身の等身大の若者」。それが、ルシアンが僕に与えた配役だからだ。
(……吐きそうだ。いや、胃酸はとっくに逆流している)
隣には、国王陛下が立っている。
彼は興奮のあまり、茹で上がったタコのように顔を真っ赤にし、脂汗でテラテラと光る額を拭いもせずに叫んでいた。
「見よ! 民草よ! 刮目せよ! これぞ女神アリアンロッドの神託により選ばれし救世主! 聖剣アスカロンの正統なる継承者、カイトである!!」
王が唾を飛ばしながら叫ぶと、広場のボルテージは臨界点を突破した。
失神して運ばれていく女性、感涙にむせび地面に頭を打ち付ける老人、父親に肩車されて無邪気に「殺せー!」と手を振る子供たち。
彼らの純粋すぎる「善意」と「期待」が、無数の鋭利なナイフとなって僕の皮膚を一枚ずつ剥いでいく。
(笑え、カイト。観客は「完璧な超人」なんて求めていない。彼らが求めているのは、自分たちの代表として戦ってくれる「親しみやすい偶像」だ)
僕は頬の筋肉を完全に制御し、計算された角度で口角を持ち上げた。
少し引きつった、頼りなげだが懸命な笑顔。
鏡で見たら「頑張れ」と応援したくなるような表情だろう。
「見ろ! 勇者様が笑っておられるぞ!」
「なんて健気なんだ! 恐怖を押し殺して笑っておられる!」
「抱いて! 勇者様、私を抱いてぇぇぇ!」
計算通りだ。
彼らは僕の演技に騙され、勝手に感動している。
僕は心の中で冷めたため息をつきながら、さらに愛想よく手を振った。
2.黄金の嫉妬、白銀の嫌味
その時だった。
背後から、冷ややかな、それでいて極上のワインのように滑らかな声が、耳元で囁かれた。
「……フン。よくもまあ、それだけ能天気に笑えるものだ。事の重大さを理解していない証拠だな、田舎者」
殺気。
訓練された戦士だけが放てる、研ぎ澄まされた刃のような敵意。
僕は反射的に迎撃しそうになる身体の反応を意志の力でねじ伏せ、ロボットのようにギギギと首を巡らせた。
そこにいたのは、王国の至宝と謳われる近衛騎士団の若き筆頭騎士――聖騎士レオンだった。
太陽の光を浴びて黄金に輝くブロンドの長髪。陶器のように白く滑らかな肌。通った鼻筋に、見る者を射抜くような鋭い蒼穹の瞳。
彼は豪奢な白銀の甲冑を、まるで体の一部であるかのように完璧に着こなしていた。ただ立っているだけで絵になる。
本来なら、このバルコニーの主役は彼であるはずだった。王国の誰もが、そして彼自身も、「次代の勇者はレオン卿だ」と信じて疑わなかったのだから。
「あ、貴方は……レオン卿。……ごきげんよう」
僕は声を上ずらせ、わざと視線を泳がせてみせた。
レオンは優雅に鼻を鳴らす。僕の演技に完全に引っかかっている。
彼は僕を「取るに足らない雑魚」だと認識したようだ。
「聞こえるように言ったのだ、成り上がりめ」
レオンは民衆に向かって、まるで自分が主役かのように優雅に手を振りながら、口元だけで猛毒を吐いた。
「いいか、忘れるなよ。あの薄汚い聖剣が、何かの間違いで貴様を選んだだけだ。貴様のような魔力も剣技も持たぬ、芋の煮っ転がしのような凡人が、魔王討伐などという大任を果たせるはずがない」
芋の煮っ転がし。
妙に具体的な悪口だが、彼の分析は半分合っていて、半分間違っている。
確かに僕は、彼のような華麗な剣技も、派手な魔法も使わない。
だが、ただ「殺す」ことに関して言えば、僕は彼より遥かに効率的だ。
幼い頃から、ルシアンと共に論理的に構築した戦闘理論がある。
レオンの重心は爪先にかかりすぎているし、剣を抜く動作にコンマ数秒の無駄がある。
本気でやり合えば、彼が剣を抜く前に喉を潰せるだろう。
だが、それを知られてはいけない。
「……おっしゃる通りです。僕なんて、運が良かっただけで……。本当なら、レオン卿のような立派な方が選ばれるべきでした」
僕が縮こまって見せると、レオンは満足げに口の端を歪めた。
「自覚はあるようだな。……貴様が失敗すれば、すぐに私がその首と剣を貰い受ける。聖剣が己の過ちに気づき、私の元へ這ってくるのは時間の問題だ」
「そ、その時は……よろしくお願いします」
情けなく頭を下げる僕を見て、レオンは「チッ、張り合いのない」と吐き捨て、興味を失ったように視線を外した。
よし、これでいい。
騎士団の監視は緩む。最も警戒すべき「身内」の敵を、無害な存在だと思わせることに成功した。
3.聖剣の重み、処刑人の資格
「さあ、カイトよ。受け取るがよい。これぞ女神より賜りし救済の光、聖剣アスカロン!」
国王の厳かな合図とともに、控えていた神官たちが進み出た。
彼らが捧げ持つ深紅のビロードのクッション。その中央に、一振りの剣が鎮座している。
装飾は極めてシンプルだ。華美な宝石も、金細工もない。
だが、その刀身から放たれる存在感は異様だった。
白銀の刃は、周囲の光をすべて吸い込み、そして倍にして解き放つかのように輝いている。
聖剣アスカロン。
魔を断ち、持ち主の精神力に応じて切れ味を変えるという伝説の武具。
(……これを、ルシアンに向けろというのか?)
僕は震える右手を伸ばした。
この震えは、演技半分、本音半分だ。
武者震いではない。これから始まる「世界規模の嘘」に対する、重圧による震えだ。
「どうした、勇者カイトよ。民が待っておるぞ」
国王が訝しげに眉をひそめる。
背後では、レオンが嘲笑う気配がする。「やはり怖気づいたか。腰抜けめ」と。
違う。怖気づいているんじゃない。
この剣を受け取れば、もう後戻りはできないからだ。
この瞬間、僕はただの幼馴染から、公式に「魔王の処刑人」となる。
もし僕が拒めば、聖剣はレオンの手に渡るだろう。
功名心と正義感に燃える彼ならば、迷わず魔王の首をはね、その死体をトロフィーとして掲げるに違いない。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。
(僕が行くしかないんだ。僕がルシアンの前に立ち、あいつが書いた筋書き(シナリオ)を完遂させるしかない)
聖剣は、最も強い者を選ぶんじゃない。
最も「覚悟」を決めた者を選ぶのだ。
たとえその覚悟が、世界に対する裏切りであったとしても。
「……承知いたしました。この命に代えても」
僕は一歩踏み出し、聖剣の柄を掴んだ。
――ズシリ。
重い。
いや、物理的には拍子抜けするほど軽い。
僕の今の筋力なら、小指一本で振り回せるほどの軽さだ。
だが、そこに込められた「期待」と「嘘」の重みは、数トンにも感じられた。
(重そうに……もっと、押しつぶされそうに)
僕は奥歯を噛み締め、演技指導を脳内で反芻する。
全身の筋肉を強張らせ、脂汗を浮かべ、聖剣の重みに耐えかねるように膝を折る。
そして、ゆっくりと、震える手で剣を天に掲げた。
キィィィィン……!
刀身から眩い光が溢れ出し、雲を突き抜ける一本の柱となって天へと伸びる。
その神々しさに、民衆が次々とその場にひれ伏し、祈りを捧げ始める。
「おお、アリアンロッド様……!」
「光あれ! 我らに光あれ!」
その光景は、宗教画のように美しく、そして反吐が出るほど滑稽だった。
光の洪水の中で、僕は目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、この輝かしい式典とは対極にある、薄暗くて埃っぽい、けれど僕たちの原点だった「あの場所」の記憶。
さあ、開幕だ。
懐のポケットに入れた、一枚の銀貨が熱を帯びている気がした。
4. 図書館の怪人と、嘘つきたちの約束
あれは、僕たちがまだ12歳の頃だった。
王都の中央にそびえ立つ「王立大図書館」。
その最奥、何重もの封印と埃、そして静寂に支配された「立ち入り禁止区画」。
カビとインクの匂い、そして高い窓の隙間から差し込む陽だまりの匂いが充満するその場所は、世界から忘れ去られたポケットのような場所であり、僕とルシアンだけの秘密基地だった。
大人たちの目を盗み、崩れかけた螺旋階段を登り、古びた書架の迷路を抜けた先にある、世界の片隅。
『ねえカイト、知ってる? この世界の仕組み』
積み上げた古書の塔に埋もれるようにして、少年時代のルシアンは言った。
彼は当時から、まるで神様が手慰みに作ったビスクドールのように整った美少年だった。
窓から差し込む光を透かすような銀髪に、宝石を砕いて嵌め込んだような紫の瞳。
その肌は、触れればヒビが入ってしまいそうなほど薄く、蒼白だった。
事実、彼の体はガラス細工のように脆かった。
少し庭を走っただけですぐに息を切らせ、熱を出し、一週間の寝込みコースはざらだった。
だが、その魂は誰よりも優しかった。
いつだったか、庭で羽の折れた小鳥を見つけた時、彼は自分のなけなしの生命力を削って治癒魔法をかけたことがあった。
その反動で自分が三日三晩高熱にうなされることになったというのに、目を覚ました彼は「小鳥は飛べたかい?」と、自分のことよりも先に鳥の安否を尋ねるような――そんな、馬鹿で、愛おしいほどに優しい少年だった。
『仕組みって? 王様がいて、騎士がいて、魔物がいるってこと?』
『ううん、もっと根本的なこと。……魔王と勇者の戦いは、ただの勧善懲悪の殺し合いじゃないんだ』
ルシアンの声は震えていた。
それは未知への恐怖ではない。
理不尽な真実を知ってしまった者の、抑えきれない怒りに震えていたのだ。
彼は膝の上の分厚い歴史書――背表紙に重々しい鎖が巻かれた『禁書・世界創世記』を指差した。そのページは、彼の手汗で少しよれて波打っていた。
『数百年ごとに繰り返される、世界維持のための“儀式”。魔王が恐怖で世界を縛り、勇者がそれを解放する。そうやって溢れすぎた地脈の魔力を、衝突によって対消滅させて、この世界はバランスを保ってる。……僕たちは、そのための舞台装置に過ぎないんだよ』
当時から大人顔負けに聡明だった彼は、自分が魔王の血を引く「器」であることを知っていた。
そして、僕が勇者の素質を持っていることも、うすうす感づいていたのだろう。
歴史書に記された過去の勇者と魔王の末路は、どれも悲惨なものだった。
どちらかが死ぬか、あるいは相打ちになって消滅するか。そこに救いはない。世界というシステムを回すための、使い捨ての燃料だ。
『僕は、そんなの嫌だ』
ルシアンは拳を握りしめた。その指は白く血の気が引いていた。
『誰かの書いたつまらない筋書き通りに、君と殺し合うなんて……そんな未来、クソくらえだ』
彼が汚い言葉を使うのを初めて聞いた。
それほどまでに、彼は運命を呪い、怒っていたのだ。
その時だった。書架のさらに上、暗がりの中から、ゴム風船を擦り合わせたような、甲高く不気味な笑い声が降ってきたのは。
『キヒッ……キヒヒッ! よく勉強したねぇ、お二人さん! 100点満点、花丸をあげよう!』
ドスン、と天井から音もなく着地したのは、極彩色の派手な道化服を着た男だった。
顔の右半分を涙を流す泣き顔、左半分を口角を吊り上げた笑い顔の白塗り仮面で隠し、手にはジャグリングのボールを持った奇妙な男。
僕たちの家庭教師を名乗る謎の人物、道化師モロだ。
彼は重力を無視して空中で胡座をかき、ふわりふわりと浮遊しながら、仮面の奥の瞳でニヤニヤと僕たちを見下ろした。
『モロ! お前、その本をわざと目につく場所に置いたな!?』
僕は叫び、反射的にルシアンを背に隠すように前に出た。
この男は食えない。剣術も魔法も教えてくれるが、その教え方はいつも歪んでいる。
「敵を斬る時は、まず笑顔で油断させろ」「魔法は威力より、派手な演出で相手の目をくらませろ」。
それが家庭教師の教えか? まるで、詐欺師の養成講座だ。
『人聞きが悪いなぁ、カイト君。私はただの観客さ。特等席で、悲劇の序章を鑑賞していたのさ。……で? 真実を知った悲劇の王子様たちはどうするんだい?』
モロはボールをクルクルと指先で回し、仮面の奥から試すような視線を投げてきた。
その瞳は、笑っていなかった。冷徹な品定めをするような、深淵の色。
『運命に従って、泣きながら殺し合うかい? 「可哀想な僕たち」って悲劇のヒロイン気取りで心中でもするかい? おやおや、それはそれで美しい! 世界中が涙する三文芝居の完成だ!』
『ふざけるな!』
僕は近くにあった本を投げつけた。
だが、モロはそれを紙切れのように空中で掴み取り、パラパラとページをめくった。
『怒るなよ、カイト君。君に剣を教えたのは誰だい? 君に、「本音を隠して笑顔を作る技術」を教えたのは誰だい?』
モロが音もなく顔を近づけてくる。仮面の「笑い顔」の方が、僕の鼻先に迫る。
『勇者とはね、強さじゃない。「象徴」なんだよ。民衆が望む虚像を演じきれる者だけが、世界を動かせる。……さあ、どうする? このまま舞台を降りるか? それとも――』
モロの挑発に、僕が言い返そうとした時だった。
背後から、細い手が僕の肩を強く掴んだ。
『――降りないよ。僕たちは、舞台を乗っ取る』
ルシアンだった。
彼は唇を噛み締め、俯いていた顔を上げた。
数秒前までの絶望は消えていた。
そこにあったのは、モロでさえ一瞬息を呑むほどの、凄絶な「悪役」の笑みだった。美しくも、どこか狂気を感じさせる瞳。
『乗っ取る……?』
『そうさ。ねえ、カイト。……約束しよう』
ルシアンはポケットから一枚の銀貨を取り出した。
表面が摩耗して王の肖像が消えかかった、何の変哲もないコイン。
彼が「幸運のお守り」として大事にしていたものだ。
『僕がもし魔王になったら、世界中を騙してやる。誰も殺さない、ギリギリの恐怖で世界を一つにまとめてみせる。誰も見たことがないような、最高の悪役を演じきってやるさ』
『演じる……? あの泣き虫のルシアンが?』
『そうさ。モロが教えてくれた通りにね。恐怖で世界を支配し、そして最後に勇者に倒される。そこまでが脚本だ』
ルシアンは道化師を睨みつけ、そして真っ直ぐに僕に向き直った。
『そして君が勇者として僕の前に辿り着いたら……その時こそ、二人でこのふざけたシステムをぶっ壊すんだ。剣ではなく、意志で。世界を騙し切って、ハッピーエンドを強奪するんだよ』
彼は僕の手を取り、その掌に冷たいコインを押し付けた。
金属の冷たさと、彼の体温の温かさが同時に伝わってくる。
それはあまりにも無謀で、子供じみた計画だった。神々が定めた世界の理に対する、たった二人の反逆。
けれど、僕にはそれが世界で一番輝かしい作戦に思えた。
『できるかな、僕たちに』
『やるんだよ。カイト、君は嘘が下手だけど……僕を守る時だけは、誰よりも強くなれるって知ってるから』
ルシアンの言葉に、僕は覚悟を決めた。
そうだ。僕は嘘つきになろう。この世界で一番強い、優しい嘘つきに。
夕陽が差し込み、黄金色に染まる図書館の窓辺で、僕たちは指切りをした。
『キヒッ……キヒヒヒヒッ!!』
それを見ていたモロが突然、腹を抱えて笑い出した。
それは嘲笑ではなかった。自分の育てた種が、予想外の形の芽を出したことを喜ぶ、狂気じみた歓喜の声。
『ブラボー! ブラボー! 最高の喜劇だ! 君たちこそ、私が待ち望んだ「壊れた部品」だ! いいだろう、私が脚本の添削をしてやろう。演出家が必要だろう? チケットは特等席で頼むよ!』
道化師が紙吹雪のように本をばら撒き、祝福する中。
僕たちは指を絡ませた。
「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本飲ます」
そんな子供じみた言葉が、あの時だけは血の契約のように重く、そして痛切に響いた。
僕たちはその日、神様が決めた運命を敵に回す契約を結んだのだ。
そしてモロは、その共犯者としての最初の「観客」となった。
あの日から10年。
僕のポケットの中には、今もあの日の銀貨がある。
摩耗したコインの表面を親指でなぞるたび、僕はあの日の夕陽の匂いを思い出す。
さあ、約束の時間だ。
待っていろ、ルシアン。
僕たちはまだ、嘘をつき続けている。
5. 孤独な門出
「――勇者の出立だ! 城門を開けよ! 総員、敬礼ッ!!」
王都を守る騎士団長の張り上げた号令が、石造りの壁に反響する。
それに呼応するように、地響きと共に巨大な歯車が軋む音が鳴り響いた。
ズズズ、と腹の底に響く重低音を立てながら、鎖が巻き上げられていく。
数瞬の暗転の後、現実に戻ってきた僕の目の前で、外界と王都を隔ててきた重厚な城門が、ゆっくりと、しかし確実に開いていく。
差し込んできたのは、城内の穏やかな空気とは異なる、荒々しい乾いた風だった。
その先には、草木もまばらな果てしない荒野が広がっている。
灰色に染まった大地は地平線の彼方まで続き、見ているだけで喉が渇くような殺伐とした光景だ。
そしてそのずっと向こう、視界の限界を超えた北の彼方には、まるで世界を覆い尽くさんばかりのどす黒い雲が渦巻いている。雷鳴と瘴気が入り混じるその場所こそが、魔王城。
あそこに、君がいる。
ルシアン。
あの日誓った約束から10年。君は本当に、誰もが恐れる魔王となり、人類への侵攻を開始した。
報告によれば、国境付近の街はすでに三つも壊滅させられたという。人々は君を「冷酷無比な怪物」と呼び、その名を口にすることさえ忌み嫌っている。
だが、奇妙な事実に気づいている人間は、この国の上層部にさえほとんどいない。
君の率いる軍勢は、建造物を破壊し、農地を焼き払いはしても、人的被害だけが極端に少ないのだ。
住民が避難するだけの猶予をわざと与え、逃げ遅れた者を見逃した痕跡さえある。
君は世界に「恐怖」は植え付けても、生きる気力まで奪う「絶望」は与えていない。
君は、まだあの日の約束を守っている。
誰からも理解されず、感謝もされず、ただ罵倒されるだけの道を選び、たった一人で孤独な悪役を演じ続けているんだ。その優しさが、僕には痛いほどに突き刺さる。
「……行くぞ」
僕は震える指先を隠すように強く握り込み、腰の聖剣に触れた。ずしりとした冷たい金属の重みが、僕の役目を思い出させる。
踵を返し、一歩踏み出した瞬間、背中を押すように爆発的な歓声が上がった。
「勇者様万歳!」「どうか我らをお救いください!」
無数の人々が振る手、期待に満ちた眼差し、熱狂的な祈り。それらは全て、僕がルシアンを討ち果たすことを願う声だ。
かつては心地よかったかもしれないその響きが、今の僕には、まるで親友との永遠の別れを告げるレクイエムのように聞こえた。
僕はもう、ただの幼馴染には戻れない。
君が魔王を演じるなら、僕はそれに応える「勇者」という仮面を被らなければならない。
そうして初めて、僕たちは対等な舞台に立てるのだから。
城門のアーチをくぐる直前、熱狂の渦の中で、冷ややかな視線が背中に突き刺さるのを感じた。
幻聴ではない。確かに、あの男の声が風に乗って鼓膜を揺らした。
「……せいぜい野垂れ死ぬなよ、偽物が」
振り返らずとも分かる。レオンだ。
聖騎士団の若き筆頭であり、僕が聖剣に選ばれたことを誰よりも妬んでいた男。
彼の声音には、純粋な悪意と、僕の失敗を確信しているかのような嘲笑が含まれていた。
おそらく、僕のこれからの旅路には、魔物による襲撃だけでなく、彼の差し金による妨害が待ち受けているだろう。あるいは、魔王軍よりも先に僕を始末し、自らが勇者の座に就こうと画策するかもしれない。
(上等だ。魔王も、騎士団も、世界中が敵でも構わない)
もとより、誰かに賞賛されるための旅じゃない。
僕は腰のポーチに入れた、一枚の銀貨を服の上から強く握りしめた。
使い古され、摩耗したその硬貨の輪郭。指先に伝わる硬く冷たい感触だけが、恐怖で竦みそうになる僕の足を支え、震えを止めてくれる。これだけが、僕と君を繋ぐ唯一の真実だ。
溢れそうになる涙を隠すように、僕は深くフードを被り直した。
そして、強く、強く、荒野の地面を蹴り上げる。砂塵を巻き上げ、風を切る。
王都の喧騒が遠ざかり、ただ風の音だけが耳に残る。
僕の、そして僕たちの、世界そのものを天秤に掛けた、孤独で壮大な「勇者ごっこ」が始まった。
さあ、開幕だ。
予言書に記された脚本は、もう破り捨てられた。
ここからは、僕たちだけのアドリブだ。




