詩とはY = F ( X, Z ) ,またはY = f ( X ) である
本稿では,詩とは何か,ということについてふれる。なぜあらためてふれる必要があるのか。それは,詩壇で,形式と内容が混乱して語られていることへ異議を申したいからである。内容と形式が不可分であるものが詩である,という見解には反対しないが,「内容が形式であり,形式が内容であるような状態を指して詩という」(野村[2005]p184)としてしまうことは,些か性急にすぎると考える。
≪1 詩とはY = F ( X, Z ) ,またはY = f ( X ) である≫
詩とは,内容および形式をもつものである。内容とは,文脈の中に位置づけられた主体の情動であり,形式とは,内容または主体の情動を文脈の中に位置づける方法をいう。なお,主体とは,発話するもの,またはメッセージの送り手である。
関数でモデル化してみると,詩の特徴がいっそうつかみ易くなると思われる。数学が不得手な諸氏を対象に,結論を先取りしておこう。詩を関数とみなすと,自由詩は,3変数関数であり,定型詩は,2変数関数である。自由詩の変数とは,内容,形式,および主体の情動を文脈に位置づけるための形式であり,定型詩は,内容および主体の情動を文脈に位置づけるための形式である。
さて,いま詩Yが,内容Xと,形式Zで構成されるならば,
Y = F ( X, Z )
F (・) … 関数
となるだろう。もうすこし厳密にいうと,詩Y,内容X,形式Zは,いずれも表現可能なものの非空集合であって(X,Y,Z ⊆ R+),かつ関数F (・)は,非空対応である。
さて,F (・)の形状は,自由詩にあるならばなんでもよく,回帰式型(Y = αX+βZ )でも,コブ・ダグラス型(Y = α×(X^β)×Z^(1-β))でも,あるいはその他お気に召すものを選択すればよいのだが,定型詩にあるならば規定されているはずだから,
Y = f ( X )
f (・) … 形式
となり,形式は,関数の形状にひとしくなることに留意しよう。
≪2 内容に至るにはg : M → X,またはG : D →→ Xを経る≫
ところで,主体の情動(poesyも含まれる)が存在するのみの状態は,依然詩といえず,①表出されること(≒表現されること),および②文脈の中に位置づけられること(poemと結びつくのでなく,レイアウトされること)によってはじめて内容となる。つまり②が,詩Y,内容X,形式Zが,いずれも表現可能なものの非空集合である(X,Y,Z ⊆ R+),という数学表現の意味するところである。では,①はどのように理解すべきか。
いま,主体の情動D(D ⊆ R+)にたいして,主体の表出していない情動が内容となっているとは,情動を内容化するプロセスGのもと,直接メカニズム
(D, G)
G : D →→ X
と表現される。いっぽう,主体がおよそ情動を表出させるプロセスをSとするとき,主体の表出された情動Mが,n個の構成要素mから成り立っているものと仮定すると(n > 0),主体の表出された情動を文脈の中に位置づける方法gもまた,形式に内包されうるたぐいのものである。gは決定関数として,内容は,間接メカニズム
(M, g)
S (・, M, g):D →→ M
g : M → X
m = ( m1, m2,…, mn ) ∈ M
と表現される。
≪3 主体の情動を文脈に位置づけるための形式はg:M → Xである≫
結論のみ述べれば,先の定義によるとき,直接メカニズムによって為された内容は,詩の要件を満たさない。主体の情動を文脈に位置づけるための形式gをもつ間接メカニズムによって内容が為されたものを,本稿では詩の要件を満たす内容であるという。なお,シュルレアリズムの自動書記が,直接メカニズムか間接メカニズムかについては,些か議論の余地があるかもしれないが,主体の情動が文脈に位置づけられるものと解されることが自然であろうことから,間接メカニズムに位置づけられることを為念注意しておく。
≪4 形式の定義について≫
先の定義によると,形式とは,内容およびを文脈に位置づける方法であるから,およそ表現技法やレトリックとよばれるものは,形式に属する。リズムも比喩も定型も,「語」を選択する行為でさえも,形式に属するものである。「語」を選択する行為は,既存の詩壇において,内容に内包される,という見解があるが,本稿では,形式に内包される,との見解に立つ。
話が抽象的すぎて判りづらいから,具体例を交えて説明しよう。
例 「9.11」
「9.11」という語それ自体は,数字とドットの配列,という以上の意味を持たないはずである。ロビンソン・クルーソーに「9.11」という語を伝えたところで,主体の情動は伝わるまい。ところが,「9.11」にかんする背景知識をもつものにとっては,何らかの文脈に位置づけられる「語」となる。かくいう次第で,形式は,語を選択する行為をも内包する。むろん,「語の選択」には,ひらがなにするのか,カタカナにするのか,英語? はたまたSwahili語? という言語選択も含まれるし,それら言語に伴う韻律を選択しているのだ,とも言い換えられる。日本語を選ぶならば,等時的拍音形式や意識されにくい子音などを前提として詩を認めなければならない。
≪5 詩の射程について≫
およそ文字に依拠するものであれば,内容および形式をもたないものは存在しえないだろうから,この定義によるならば,詩の射程が小説やその他のものたちとの境目とが曖昧になることはしかたのないことである。とはいえ,「詩とは,内容および形式をもつもの」だと定義するということは,言い換えれば「詩でないものとは,内容または形式をもたないものである」と定義しているも同然であるから,少なくとも詩の範疇たりえる境界を示さなければなるまい。さもなくば,定義すること自体が不誠実なしごととなってしまう。
繰り返しになるが,詩たりえる範疇を定義する方法としては,①詩たりえるものを定義する方法,②詩でないものを定義する方法の二種類があるが,本稿では①を採用したい。というのも,文字に依拠するものが多種多様に存在する現代社会のなかで,詩でないものを定義することは,よっぽど骨が折れるだけでなく,それらを漏れなく定義しなければならず,実質的に(少なくとも筆者には)不可能だからである。
さて,先の3で記載したとおり,主体の情動を文脈に位置づけるための形式gをもつ間接メカニズムによって内容が為されたものを,本稿では詩の要件を満たす内容であるという。視点をかえてみると,詩の射程は,(主体の情動を文脈に位置づけるためのものを含め)形式が規定している,といえそうである。
≪6 小括≫
詩とは,主体の情動を文脈の中に位置づける形式g : M → Xをもつことで内容Xへ至り,かつ内容Xを文脈のなかに位置づける形式Zをもつものをいう。つまり,詩にとって,内容と形式は不可分であるが,内容と形式は,それぞれ別個の独立変数である。すなわち,「内容が形式であり,形式が内容であるような状態を指して詩という」とすることは,誤りである。
なお,ある文字表現が詩たりえるかは,g : M → Xを経て内容Xへ至っているかどうかによる。
≪7 次稿への課題≫
本稿でふれなかったことがらについて展望することで,本稿をおえることとしよう。
本稿では,
(1)内容について「規範的」および「記述的」(実証的)に分析をおこなっていない。
(2)形式については例示をするのみにとどまり,帰納的に定義をしていない。
(3)詩のルーツにふれていない。
(4)現代詩の可能性や展望にふれていない。
このうち,(2)については,多くの書籍がそうしたしごとを成しているからそれに譲ることとしたい(たとえば野村[2005],北川[1993],三好[1991]など)。また,(3)については,レトリック事典[2006]や時枝[2007]をはじめ,大著による詳説があるのでそちらに譲る。(1)や(4)について検討することを次稿の課題としつつも,本稿では,ひとまず筆を置くことといたしたい。
初出:活動報告2014年 06月23日(月) 01時18分(http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1734/blogkey/930139/)
なお,本稿に対しては,午雲氏から有用なコメントを頂いた。ここに御礼申し上げたい。