第九十六話 帳面が増えると、飯より先に筆が倒れる
山裾仮線の重し入り空荷試験は、晴れの日に行うことになった。
雨後線は、前回見た。
女衆が雨の日に使う迂回路。
糸干し場の裏から、古い桑畑の脇へ抜ける細い道。
足元は畑端よりましだが、桑の枝が多い。
荷は細くしなければならない。
枝は勝手に切れない。
時間は昼前の短い隙間だけ。
それが雨後線。
今日は晴れ線を見る。
畑端を通り、洗い物の道と交わる前に曲がり、竹藪手前の荒地へ抜ける道。
晴れの日なら小荷一列で通れそうだったが、まだ本当の荷では試していない。
だから、重し入り空荷。
飯は入れない。
米も味噌も水も入れない。
ただ、飯荷と同じくらいの重さになるよう、清洲から持ち込んだ石と木片を入れる。
村の石は使わない。
とめ婆様に言われたからだ。
村のものは、勝手に動かさない。
石でさえ、村の腹にある。
「空荷なのに重いって、もう空荷じゃないよな」
太助が背負い籠を見て、朝から文句を言った。
籠の中には、布で包んだ重しが入っている。
見た目は飯荷に近い。
だが、中身は石と木。
「飯じゃないから空荷だ」
作兵衛が言う。
「背中からしたら本荷だぞ」
「だから試す」
「文句が出る前提で運ばせるの、清洲式すぎる」
かやが荷紐を締めながら笑った。
「太助、今日は文句の質が大事だからね」
「質?」
「重い、だけじゃ駄目。どこで重いか。どこで揺れるか。どこで誰の邪魔になるか」
「文句にも質を求められる時代か……」
太助は大げさに肩を落とした。
権六が横から言う。
「文句役の道は険しいぞ」
「俺、文句役になったつもりはない」
「もう半分なってる」
「やめろ」
朝の清洲蔵には、いつも通りの笑いがあった。
だが、その奥で伊三郎は笑っていなかった。
帳面を前に、じっと固まっている。
俺は気づいて声をかけた。
「伊三郎?」
「はい」
「どうした」
「帳面が、増えすぎています」
その一言で、蔵の空気が少し変わった。
高畑線。
北尾根仮線。
川道仮線。
山裾仮線。
それぞれに帳面がある。
高畑は正式線だから、水札、常備飯、見張り前飯、連絡足、偽札対応まである。
北尾根は保留だが、鳥場、薬売り、弥吉、歩き飯、低い松、割れ石の記録がある。
川道は川見札、川道飯荷手間帳、濡れ戻り棚、渡し場不買板、小台、厚味噌片。
山裾は村水火板、針売り、女衆の文句、晴れ線、雨後線、水桶、火種、針包み。
そして今日、重し入り空荷試験が加わる。
「帳面が増えると、何が困る?」
俺が聞くと、伊三郎はすぐ答えた。
「見るべき時に、見る帳面を間違えます」
重い。
米を間違えるのも怖い。
水札を間違えるのも怖い。
だが、帳面を間違えれば、そもそも判断が間違う。
「高畑の常備飯記録を見たい時に、川道の濡れ戻り記録が混ざる。山裾の水火約束を確認したい時に、北尾根の歩き飯試作が挟まる。今は私が覚えていますが、覚えていることに頼ると危険です」
かやが真顔で言った。
「伊三郎が倒れたら終わるね」
「そうです」
伊三郎は素直に頷いた。
冗談ではなかった。
井戸番の時と同じだ。
水を一人の腹に乗せすぎれば倒れる。
帳面も同じだ。
伊三郎一人の頭に乗せすぎれば、いつか倒れる。
権六が腕を組んだ。
「筆が倒れたら、飯も倒れるってことか」
「はい」
伊三郎は言った。
「飯より先に筆が倒れる可能性があります」
嫌な言葉だった。
けれど、今日すぐ解ける問題ではない。
山裾の重し入り空荷試験も止められない。
俺は決めた。
「午前は山裾見分。戻ったら、帳面の分け直しをする」
「分け直し?」
「線ごとじゃなく、見る目的ごとにも分ける必要があるかもしれない。飯、水、連絡、文句、銭、村。……いや、今ここで決めると混ざるな」
伊三郎が少しだけ苦笑した。
「はい。まず見分へ行ってください。今日の記録も必要です」
「無理するなよ」
「無理をしないために、限界と言いました」
伊三郎がそんなことを言うのは珍しい。
それだけ、本当に限界が近いのだ。
俺は頷いた。
「分かった。戻ったら必ずやる」
山裾へ向かう道中、太助は重し入りの籠を背負っていた。
空荷より明らかに歩きが重い。
「どうだ」
作兵衛が聞く。
「背中は本荷。心は空荷。腹は納得してない」
「それは文句としては使いにくいな」
「俺もそう思う」
かやが荷の揺れを見ながら言った。
「縦に積んだのは正解かな。横幅は抑えられてる」
きぬが頷く。
「山裾では、横に広い荷は駄目ですね。家の道にも女衆の道にも引っかかる」
村に着くと、村水火板の前でおきよが待っていた。
水桶の絵が、また少し直されている。
「また直したんですか」
俺が聞くと、おきよは少し照れた。
「子どもに『今度は桶じゃなくて団子みたい』って言われて」
「子どもの目は厳しいね」
かやが笑った。
「はい。でも、見てくれてるってことだから」
その言葉が嬉しかった。
板は、ただ掛かっているだけではない。
見られている。
直されている。
村のものになっている。
とめ婆様と惣右衛門も来た。
今日は晴れ線の重し試験だと伝えると、とめ婆様は太助の籠を見た。
「重そうだね」
「飯じゃないのに重いです」
太助が正直に答える。
「中は?」
「清洲から持ってきた石と木です。村のものは使ってません」
とめ婆様は満足そうに頷いた。
「そこは覚えてたね」
「怖いので」
「よろしい」
畑端道へ入る。
晴れの日のため、雨後よりはずっと歩きやすい。
だが、重しが入ると事情が違った。
太助の足取りが、空荷の時より少し外へ流れる。
籠の揺れで、体が畑側へ傾く。
苗には触れていない。
だが、近い。
「止まれ」
作兵衛が声をかけた。
太助が止まる。
「今、右へ流れた」
「荷が背中で遅れてくる」
「遅れてくる?」
「俺が曲がってから、荷が後ろでまだ真っ直ぐ行こうとする感じ」
作兵衛が頷いた。
「重し入りだと、曲がりで荷が遅れる。畑端では危険」
かやが荷紐を見直す。
「もっと背中に近づける。でも近づけすぎると汗で包みが湿る」
「山裾は川道ほど湿らないだろ」
「汗は出るよ。特に晴れの日は」
人の汗も湿りだ。
川道の濡れ戻りとは違うが、山裾では包みが背に近すぎると汗を吸う。
また問題が増える。
俺は書く。
晴れ線、重し入り。曲がりで荷遅れ。畑側へ流れる。背に近づける必要。ただし汗湿り注意。
洗い物道との交差手前まで来ると、今日は道が空いていた。
昼前だからだ。
だが、とめ婆様が言った。
「空いてるように見えるだけだよ」
「どういうことですか」
「急に誰かが来る。女たちは水仕事を時刻通りに動くとは限らない。子どもが汚した、鍋を落とした、急に洗う物が出る。空いてるから大丈夫、とは言えない」
暮らしは予定通りではない。
軍の荷は予定を作りたがる。
でも村の家の中では、予定外の洗い物が出る。
この道を飯線にするなら、「空いているはず」を信じてはいけない。
かやが言った。
「交差点には先見が要るね。誰かが先に見て、通れるか合図する」
「人を増やすのか」
太助が嫌そうに言う。
「増やすというより、荷より先に目を出す。水場の近くには行かず、この交差だけ見る人」
おきよが言った。
「女衆に聞けばいいです。今日は洗い物が多いか少ないか、私たちのほうが分かります」
とめ婆様が頷く。
「外の者が勝手に見るより、村の者が言うほうがいい」
「では、晴れ線を使う時は、とめ婆様か女衆から『洗い物道可』の知らせをもらう」
俺が言うと、惣右衛門が少し複雑そうな顔をした。
「男衆より女衆の札が要るのか」
とめ婆様が即答した。
「要るよ」
惣右衛門は黙った。
もう慣れてきている。
竹藪手前の荒地へ向かう。
晴れているため、前回より足元はましだった。
しかし重し入りの荷を下ろすと、別の問題が出た。
地面に置くと、籠が傾く。
竹根があるせいだ。
空籠なら手で支えればよかったが、重し入りは少し傾いただけで中身が寄る。
もし飯荷なら、握り飯が潰れるかもしれない。
かやが小台を置こうとした。
だが、川道用の小台はここには合わない。
脚が竹根に当たり、安定しない。
「川道の小台は使えないね」
「山裾用が必要か」
「でも、ここに台を置くと長居したくなる。とめ婆様に怒られる」
とめ婆様は腕を組んだまま言った。
「分かってるじゃないか」
小台を作れば、荷置きは安定する。
だが、荷置きが安定すれば、人は休みたくなる。
山裾では長居が困る。
便利な道具が、逆に悪い働きをする。
「山裾では、小台じゃなく敷き布かな」
かやが言った。
「薄い竹敷き。置いたらすぐ畳める。座れないくらい小さいもの」
「座れない台か」
太助が笑った。
「それ、台なのか?」
「荷だけ置ければいい。人が座れたら駄目」
かやの発想は、山裾に合っていた。
人を休ませすぎない荷置き。
飯を渡すだけの場所。
配り飯の考え方と同じだ。
俺は書く。
山裾用、座れない敷き。荷だけ。長居防止。
太助が重し入りの籠を下ろし、腰を伸ばした。
「ここで休みたい気持ちはある」
作兵衛が聞く。
「どのくらい?」
「少し座りたい。でも虫がいるから長くは嫌」
「人足は座りたがる。場所は座らせたくない。そこをどうするかだな」
とめ婆様が言った。
「立ったまま水を飲まれるのも嫌だよ。水を持ってきてるならいいけど、村の水場へ行きたくなる」
「水は持ち込みにします」
俺は答えた。
「でも、見えるところで飲むと子どもが寄るかもしれません」
おきよが言った。
「特に暑い日は」
山裾では、水を飲むことまで見られる。
清洲の水筒を見た子どもが寄る。
人足が村の水を欲しがる。
水場が近く感じる。
なら、飲む場所も決めなければならない。
竹藪手前ではなく、さらに村から少し離れた木陰。
ただし、そこは道から外れる。
空荷の見分だけで、飯線がどんどん細かくなる。
昼前の短い時間で、晴れ線の試験は終わった。
結論としては、使えないわけではない。
だが、条件が多すぎる。
小荷一列。
重し入りだと曲がりで荷遅れ。
女衆から洗い物道可の知らせが必要。
竹藪手前は荷だけ置く。座らせない。
水は持ち込み。飲み場も村から見えにくい場所。
山羊紐の家へ事前連絡。
苗の時期はさらに注意。
とめ婆様は最後に言った。
「晴れ線は、使えても細いね」
「はい」
「太くしようとするなよ」
「しません」
「太くしたら閉じる」
太くしたら閉じる。
俺はそのまま書いた。
帰り道、清洲蔵へ戻る前に少し休んだ。
太助は重し入りの籠を下ろし、肩を回している。
「飯が入ってないのに、飯荷より気を使った」
「村の目が乗ってるからな」
作兵衛が言う。
太助は頷いた。
「空荷は、村の目で重くなる」
それだ。
かやも聞いていて、すぐ笑った。
「今日の言葉、決まったね」
太助はもう抵抗しなかった。
「書け。どうせ書くんだろ」
俺は書いた。
空荷は、村の目で重くなる。
清洲蔵へ戻ると、伊三郎は帳面に埋もれていた。
本当に埋もれているように見えた。
高畑線の帳面。
川道飯荷手間帳。
山裾仮線の晴天記録。
雨後記録。
針売り記録。
村水火板写し。
北尾根保留帳。
机の上に積まれた板と紙を見て、かやが小さく言った。
「これは……倒れるね」
伊三郎は疲れた顔で笑った。
「はい。倒れます」
冗談ではない。
報告を終えると、伊三郎はしばらく筆を置いた。
「このままでは、次の線を増やせません」
俺は頷いた。
「今日やる。帳面の分け直し」
弥助殿も呼ばれた。
清洲蔵の中で、初めて「帳面そのもの」の軍議が開かれた。
飯でも水でもない。
帳面。
けれど、それは飯線の腹そのものだった。
伊三郎が言った。
「今までは線ごとに帳面を作っていました。高畑、北尾根、川道、山裾。しかし、線が増えると横の比較ができません」
「横?」
権六が聞く。
「水の問題を見たい時、高畑の水札、川道の細湧き、山裾の水桶が別々の帳面にあります。文句も同じです。権六殿、市松、おきよ、太助の文句が全部別です」
「俺と市松とおきよさんを並べるなよ」
権六が言ったが、誰も笑わなかった。
伊三郎は続けた。
「だから、線帳と腹帳に分けます」
「腹帳?」
俺は思わず聞き返した。
「はい。線ごとの記録は線帳。飯、水、火、文句、銭、村、連絡など、問題ごとの記録を腹帳にします」
飯の腹。
水の腹。
火の腹。
文句の腹。
銭の腹。
村の腹。
連絡の腹。
また増える。
だが、今までとは違う増え方だ。
ただ積み上げるのではなく、見つけやすくするために分ける。
かやが言った。
「つまり、高畑の水札も、山裾の水桶も、同じ水腹帳で見られる?」
「はい」
佐助が続ける。
「味噌片は飯腹帳ですか」
「はい。高畑の砦十人包み、北尾根の歩き飯、川道の厚味噌片、山裾の配り飯を並べます」
権六が腕を組んだ。
「文句腹帳もあるのか」
「あります」
「俺の帳面みたいだな」
「権六殿だけではありません」
「分かってる」
少し残念そうだった。
弥助殿は黙って聞いていたが、最後に言った。
「よい。だが、帳面を増やして仕事を増やすな」
「はい」
伊三郎が頷く。
「線帳は現場の流れ。腹帳は後で見返すもの。毎回すべてを二重に書くのではなく、重要なものだけ腹帳へ抜きます」
「抜き書き役がいるな」
作兵衛が言った。
全員が伊三郎を見た。
伊三郎は静かに首を横に振った。
「私一人では無理です」
ついに言った。
蔵が静かになる。
伊三郎が自分で無理と言うのは、大きい。
「なら、増やす」
弥助殿が即決した。
「帳面を見る者を増やす。字が読める者だけでなく、荷や水や文句を分かる者から一人ずつ出せ」
かやが手を上げた。
「荷腹帳は私が見ます」
佐助も続ける。
「飯腹帳は私が」
作兵衛が言う。
「人足と背の文句は俺が見る」
権六が少し迷ってから、言った。
「文句腹帳は……俺も手伝う」
皆が権六を見た。
「何だよ」
「字は?」
「読める。少しなら書ける」
初耳だった。
権六は照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「昔、親父に少し仕込まれた」
太助が笑う。
「文句だけじゃなかったんだな」
「うるせえ」
伊三郎は、少しだけ安心したように息を吐いた。
「助かります」
それは、本心の声だった。
その夜、清洲蔵では帳面分けの作業が始まった。
飯線の戦は、米俵の前だけで起きるのではない。
筆の前でも起きる。
高畑の水札は水腹帳へ。
川道の渡し賃は銭腹帳へ。
山裾の水桶は水腹帳と村腹帳へ。
北尾根の薬代は銭腹帳と人腹帳へ。
太助の泥の文句は文句腹帳と人足腹帳へ。
権六が文句腹帳を見ながら言った。
「文句って、多いな」
「おまえが言うな」
作兵衛が返す。
「いや、俺だけじゃない。市松も、おきよさんも、太助も、とめ婆様も、喜助も。みんな文句を言ってる」
権六は少し真面目な顔になった。
「文句は、道の痛いところなんだな」
伊三郎がすぐ書いた。
「書くな!」
「今のは重要です」
皆が笑った。
俺も笑った。
疲れていたが、笑えた。
今日の飯は、遅い時間に食べた。
山裾用の火なし飯に、少しだけ温かい湯を添えたものだった。
権六が噛んで言った。
「今日の飯は、帳面の味がする」
「うまくなさそうだな」
「うまいとは言わない。でも、これがないと次の飯が迷子になる」
かやが椀を持って頷く。
「帳面も飯線なんだね」
佐助が言った。
「飯がどこで濡れたか、どこで崩れたか、どこで嫌がられたか。忘れたら同じ失敗をします」
きぬも静かに言う。
「針仕事も同じです。どこで糸が切れたか覚えないと、また同じところで切れます」
俺は火なし飯を食べた。
空荷は、村の目で重くなる。
そして帳面は、線の数で重くなる。
けれど、重さを分けなければ、誰か一人が潰れる。
井戸番のように。
喜助のように。
茶屋の女将のように。
伊三郎のように。
複数砦飯線は、道を増やすだけではなかった。
見る目も、書く手も、分けなければならない。
そうしなければ、美濃へ向かう前に、清洲蔵の筆が折れる。




