第三話 信長様、飯炊き小僧を呼び出す
足が、泥に沈む。
草鞋の裏がぬかるみに吸いつき、一歩ごとに、ずるりと嫌な音を立てた。
俺は小姓の後ろを、ただ黙ってついていく。
雨は細くなっていたが、止んではいない。空は低く、鉛を溶かしたような色をしていた。陣の中では兵たちが慌ただしく動き回っている。槍を担ぐ者、馬の手綱を引く者、濡れた火縄を守る者、俵を積み直す者。誰もが声を荒らげていたが、その声の奥に、奇妙な静けさがあった。
戦が近い。
そう思うと、喉の奥が乾いた。
なのに、口の中には味噌と飯粒の匂いが残っている。さっきまで握り飯を作っていたからだ。爪の間にも、まだ米がこびりついている。
そんな手で、俺は織田信長様の前に出るのか。
考えただけで、胃が縮んだ。
「遅れるな」
前を歩く小姓が振り返らずに言った。
「は、はい」
返事をした声が、情けないほど掠れた。
小姓は俺よりいくらか年若く見えた。だが、身なりも歩き方もまるで違う。雨の中でも背筋が伸びている。腰の刀も、俺が触ったこともないような立派なものだった。
俺は小さくなって歩いた。
周りの兵たちが、ちらちらとこちらを見る。
「おい、あいつ飯場の清吉じゃねえか」
「なんで小姓様に連れていかれてる」
「何かやらかしたのか」
「味噌でも盗んだんじゃねえか」
笑い声が混じる。
否定したかったが、できなかった。
俺自身、何をやらかしたのか分からないのだ。
ただ、水を煮た。
粥を炊いた。
握り飯を作った。
それだけだ。
それだけのことで、織田信長様に呼び出されるなど、普通はない。
もし、余計なことをしたと咎められるなら。
もし、勝手に兵糧を動かした罪だと言われるなら。
俺はどうなる。
首が飛ぶのか。
そこまで考えて、足が止まりかけた。
「清吉」
背後から声がした。
振り返ると、五郎兵衛が少し離れた場所に立っていた。槍を肩に担ぎ、蓑を濡らし、片目でこちらを見ている。
「五郎兵衛殿」
「腹に力を入れろ」
「え?」
「腹が抜けると、声も抜ける。殿様の前では、せめて腹だけは据えろ」
俺は唾を飲み込んだ。
「……はい」
「それと」
五郎兵衛は、にやりと笑った。
「飯の話なら、おまえのほうが殿様より知ってるかもしれねえ。そこだけは忘れるな」
そんな恐ろしいことを、よく言える。
俺は慌てて首を振った。
「滅相もないです」
「そういうところだ。すぐ縮むな」
五郎兵衛はそう言うと、もうこちらを見ずに去っていった。
雨の中へ、兵たちと同じように歩いていく。
その背中を見ていると、少しだけ息ができた。
腹に力を入れろ。
俺は下腹に力を込めた。
それでも膝は震えていた。
小姓に案内された先は、陣の中央に近い場所だった。
粗末な幕が張られている。だが、周囲の空気が違った。
馬廻りらしき者たちが立ち、伝令が出入りし、誰かが低い声で報告している。槍場や飯場のような騒がしさはない。ただ、刃を抜く前のような張りつめた気配があった。
小姓が幕の前で止まる。
「控えろ」
「はい」
俺はその場に膝をついた。
泥が着物に染みる。
そんなことを気にする余裕はなかった。
幕の向こうから声が聞こえた。
「連れてきたか」
若い声だった。
思っていたより高く、しかし妙に耳に残る声。
小姓が頭を下げる。
「はっ。飯場の清吉にございます」
「入れ」
その一言で、俺の心臓は跳ねた。
小姓が幕を上げる。
俺は中へ入った。
最初に見えたのは、濡れた地面に広げられた簡素な地図だった。
木片や石が置かれている。
どれがどこの城を指すのか、俺には分からない。
その奥に、男が座っていた。
織田信長様。
俺は噂でしか知らない。
うつけと呼ばれた方。
尾張をまとめつつある方。
今川の大軍を前にしても、顔色を変えぬ方。
目の前にいる男は、思ったより若かった。
だが、若いというだけではない。
濡れた髪を後ろに流し、片膝を立て、こちらを見ている。その目が、鋭すぎた。
刀より怖い目だった。
俺は慌てて頭を下げた。
「き、清吉にございます」
声が裏返った。
情けない。
信長様は何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
雨が幕を叩く音だけが聞こえる。
「おまえが飯を変えたのか」
急に問われ、俺は肩を跳ねさせた。
「い、いえ」
「違うのか」
「変えたというほどのことでは、ございません」
俺は地面を見たまま答えた。
「水を煮て、悪くなった味噌を避け、半煮えの飯を粥にしただけでございます」
「だけ、か」
信長様の声が少しだけ笑った気がした。
「はい」
「それで腹を下す者が減ったと聞いた」
「減ったかどうかは……まだ、はっきりとは」
俺は慎重に言った。
調子に乗って大きなことを言えば、すぐに化けの皮が剥がれる。
「ただ、今朝は、うちの飯場で食べた者のほうが、いくらか立てておりました」
「いくらか」
「はい」
「なぜだ」
なぜ。
その問いは難しかった。
水を煮たから。
腐った味噌を避けたから。
腹に残る粥にしたから。
理由はいくつかある。
だが、信長様が聞きたいのは、たぶんそこだけではない。
俺は手を握った。
爪の間の飯粒が潰れる感触がした。
「腹を壊した兵は、走れませぬ」
自分の声が、思ったより静かに出た。
「走れぬ兵は、槍を持っても戦えませぬ。槍がどれほど立派でも、持つ者の腹が空であれば、足が出ませぬ」
幕の中にいた者たちの視線が集まる。
俺は一瞬、言葉を止めた。
怖い。
余計なことを言っている。
けれど、信長様は黙っていた。
だから続けた。
「戦の前に飯を食うのではなく……飯が、戦に連れていくのだと思います」
言ってから、背中に冷たい汗が流れた。
偉そうだ。
ただの飯炊き小僧が、何を言っているのか。
頭を地面につけたくなった。
だが信長様は、しばらく黙ったあと、低く笑った。
「飯が戦に連れていく、か」
その声は、馬鹿にしたものではなかった。
むしろ、面白がっているようだった。
「槍で勝つ者、弓で勝つ者、鉄砲で勝つ者、策で勝つ者は見てきた」
信長様が身を乗り出す気配がした。
「飯で戦を語る者は、初めて見る」
俺は何も言えなかった。
顔を上げていいのかも分からない。
「清吉」
「は、はい」
「顔を上げろ」
恐る恐る顔を上げた。
信長様は、まっすぐ俺を見ていた。
視線が刺さる。
だが不思議と、怒りではなかった。
「おまえ、どこの者だ」
「尾張の外れの村にございます。名もないような村です」
「父は」
「三年前に小競り合いで戻らなくなりました」
「母は」
「病で伏せております。妹がおります」
「飯は母から習ったか」
俺は少し驚いた。
「……はい」
「母は強いか」
何を聞かれているのか、一瞬分からなかった。
けれど、母の細い背中が頭に浮かんだ。
荒れた手。
夜明け前から火を起こす姿。
自分はほとんど食べず、俺と妹に粥をよそう顔。
俺は答えた。
「強いです」
「そうか」
信長様は短く言った。
それだけで、なぜか胸が詰まった。
「清吉。明日、兵が走れる飯を用意しろ」
言葉が落ちた。
俺は一瞬、意味を掴めなかった。
「……明日、でございますか」
「今からだ」
「今から」
「そうだ。兵が動く。雨も降る。腹が重すぎれば鈍る。軽すぎれば持たぬ。片手で食え、濡れても崩れにくく、腹に残るものを作れ」
頭の中で、米、味噌、塩、水、竹皮、釜、人手が一気に駆け巡った。
無理だ。
いや、無理ではない。
どれくらい必要だ。
何人分。
釜はいくつある。
水はどこから。
味噌は足りるか。
俺は反射的に聞いていた。
「何人分でございますか」
幕の中の何人かが、微かに息を呑んだ。
ただの足軽が、信長様の命に問い返したからだろう。
俺も言ってから青くなった。
だが、信長様は笑った。
「できる限りだ」
「できる限り……」
「そうだ。戦では、足りぬものを足りるように見せる者が役に立つ」
無茶を言われている。
けれど、そこに怒りは湧かなかった。
むしろ、頭が動き始めた。
今ある米を全部白飯にすれば足りない。大きな握り飯にすれば数が減る。小さく握る。中に味噌。塩を強める。水は煮る。握る前に手を湯で洗わせる。竹皮がなければ葉で包む。濡れぬよう高い台に置く。運ぶ者がいる。火を守る者がいる。
俺は頭を下げた。
「やってみます」
「やってみる、では弱いな」
信長様の声が、少しだけ鋭くなる。
俺の背筋が伸びた。
五郎兵衛の言葉を思い出す。
腹に力を入れろ。
俺は腹に力を込め、言い直した。
「やります」
信長様の口元が、かすかに動いた。
「よし」
その一言で、命が決まった気がした。
「必要なものは飯場にあるだけ使え。ただし無駄にはするな。人手が要るなら小者を使え。逆らう者があれば、わしの名を出せ」
わしの名を出せ。
そんな恐ろしい札を、俺のような足軽に渡していいのか。
俺はまた震えそうになった。
だが信長様はもう地図へ視線を戻していた。
「下がれ」
「はっ」
俺は深く頭を下げ、幕の外へ出た。
外の雨が、急に冷たく感じた。
小姓が俺を見る。
さっきまでより、ほんの少し目が違っていた。
「聞いたな」
「はい」
「急げ」
「はい」
俺は飯場へ向かって走り出した。
泥に足を取られる。
何度も滑りそうになる。
けれど止まれなかった。
頭の中で、信長様の言葉がぐるぐる回る。
兵が走れる飯を用意しろ。
できる限り。
今から。
飯場に戻ると、かやが桶を担いでいた。
川筋の娘で、荷運びの手伝いに来ている女だ。年は俺と同じくらいか少し上。髪を後ろで雑に結び、裾をからげ、男たちに混じって平然と働いている。
口は悪い。
目つきも悪い。
だが、荷を担ぐ足は誰よりしっかりしていた。
「お、戻った。首はつながってるみたいだな、飯炊き小僧」
「かや」
「何だよ、その顔。殿様に味噌の腐り具合でも説いてきたのか」
「握り飯を作る」
「あ?」
「できる限りたくさん。片手で食えるやつ。味噌入りで、塩を強める。雨でも濡らさないように包む」
かやは目を細めた。
「いきなり何言ってる」
「信長様の命だ」
周囲の動きが止まった。
弥助がこちらを見る。
「……今、何と言った」
「信長様の命です。兵が走れる飯を用意しろと」
弥助の顔が強張った。
飯場にいた足軽たちもざわつく。
「おいおい」
「清吉が?」
「殿様が?」
「本当かよ」
俺は息を整える間もなく言った。
「米を集めます。釜も使えるだけ使います。水は全部煮てください。味噌は俺が見る。塩も要ります。竹皮、葉、布、何でもいいので包めるものを集めてください」
誰もすぐには動かなかった。
当たり前だ。
昨日まで笑われていた飯炊き小僧が、急に指図しているのだ。
俺の声も震えていたと思う。
その時、かやが桶を地面に置いた。
「包むもんが要るなら、あっちの荷に古い竹皮がある」
俺はかやを見た。
「本当か」
「ただし足りねえ。葉っぱも集めるなら、川沿いの連中に声かけたほうが早い」
「頼めるか」
「なんであたしが」
「俺には誰がどこにいるか分からない」
正直に言った。
「かやのほうが早い」
かやは一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、ふっと笑った。
「飯炊き小僧のくせに、人を使うのは覚えたか」
「使うんじゃない。頼んでる」
「同じだよ」
かやは濡れた前髪を払い、飯場の外へ向かった。
「竹皮と葉っぱだな。あと桶も要るか」
「要る。水を分けたい」
「わかった。借りるぞ」
「借りる?」
「返せば借りたことになる。返せなきゃ、あとでおまえが謝れ」
「俺が?」
「信長様に拾われたんだろ。偉い偉い」
そう言って、かやは雨の中を走っていった。
弥助が苦い顔で俺を見る。
「清吉」
「はい」
「本当に殿の命か」
「はい」
「……なら、やれ」
弥助は周囲を怒鳴りつけた。
「聞いたか! 米を運べ! 釜を空けろ! 水を汲め! ぼさっとするな!」
飯場が一気に動き出した。
俺は味噌樽の前に膝をついた。
手が震えている。
信長様に会った恐怖が、今さら身体に戻ってきた。
だが、震えている場合ではない。
米が要る。
火が要る。
水が要る。
人が要る。
そして何より、時間がない。
俺は自分の頬を軽く叩いた。
ぱちん、と情けない音がした。
「よし」
誰に言うでもなく呟く。
まず、味噌だ。
悪い部分を避ける。
使えるところだけを取る。
濃すぎれば喉が渇く。
薄すぎれば腹に残らない。
塩は強め。
雨で冷える身体には、そのほうがいい。
握り飯は大きすぎてはいけない。
小さく、固く、崩れにくく。
数を増やす。
腹いっぱいにする飯ではない。
走らせる飯だ。
「清吉、米来たぞ!」
「こっちへ!」
「水は?」
「まだ煮てません!」
「煮ろ! 煮た水とそうでない水を混ぜるな!」
「清吉、釜が足りねえ!」
「粥用の釜を一つ空けてください。残りは飯に!」
「薪が湿ってる!」
「乾いた枝を下に。太いのを上に乗せすぎないで!」
声を出すたびに、不思議と恐怖が薄れていった。
やることがある。
やることがあるうちは、人は怯えている暇がない。
雨は降り続いている。
今川の大軍は近い。
織田の兵たちは、やがて走る。
その時、腹の中に俺の握り飯があるかもしれない。
そう思うと、胸の奥が熱くなった。
俺は飯を握る手を止めなかった。
米の熱が、掌に食い込む。
熱い。
だが、離さなかった。
この熱を持っていけ。
雨の中へ。
戦の中へ。
俺には槍は使えない。
けれど、この熱なら渡せる。
飯場の火が、雨風の中で赤く揺れていた。




