表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/33

第三話 信長様、飯炊き小僧を呼び出す

 足が、泥に沈む。


 草鞋の裏がぬかるみに吸いつき、一歩ごとに、ずるりと嫌な音を立てた。


 俺は小姓の後ろを、ただ黙ってついていく。


 雨は細くなっていたが、止んではいない。空は低く、鉛を溶かしたような色をしていた。陣の中では兵たちが慌ただしく動き回っている。槍を担ぐ者、馬の手綱を引く者、濡れた火縄を守る者、俵を積み直す者。誰もが声を荒らげていたが、その声の奥に、奇妙な静けさがあった。


 戦が近い。


 そう思うと、喉の奥が乾いた。


 なのに、口の中には味噌と飯粒の匂いが残っている。さっきまで握り飯を作っていたからだ。爪の間にも、まだ米がこびりついている。


 そんな手で、俺は織田信長様の前に出るのか。


 考えただけで、胃が縮んだ。


「遅れるな」


 前を歩く小姓が振り返らずに言った。


「は、はい」


 返事をした声が、情けないほど掠れた。


 小姓は俺よりいくらか年若く見えた。だが、身なりも歩き方もまるで違う。雨の中でも背筋が伸びている。腰の刀も、俺が触ったこともないような立派なものだった。


 俺は小さくなって歩いた。


 周りの兵たちが、ちらちらとこちらを見る。


「おい、あいつ飯場の清吉じゃねえか」


「なんで小姓様に連れていかれてる」


「何かやらかしたのか」


「味噌でも盗んだんじゃねえか」


 笑い声が混じる。


 否定したかったが、できなかった。


 俺自身、何をやらかしたのか分からないのだ。


 ただ、水を煮た。


 粥を炊いた。


 握り飯を作った。


 それだけだ。


 それだけのことで、織田信長様に呼び出されるなど、普通はない。


 もし、余計なことをしたと咎められるなら。


 もし、勝手に兵糧を動かした罪だと言われるなら。


 俺はどうなる。


 首が飛ぶのか。


 そこまで考えて、足が止まりかけた。


「清吉」


 背後から声がした。


 振り返ると、五郎兵衛が少し離れた場所に立っていた。槍を肩に担ぎ、蓑を濡らし、片目でこちらを見ている。


「五郎兵衛殿」


「腹に力を入れろ」


「え?」


「腹が抜けると、声も抜ける。殿様の前では、せめて腹だけは据えろ」


 俺は唾を飲み込んだ。


「……はい」


「それと」


 五郎兵衛は、にやりと笑った。


「飯の話なら、おまえのほうが殿様より知ってるかもしれねえ。そこだけは忘れるな」


 そんな恐ろしいことを、よく言える。


 俺は慌てて首を振った。


「滅相もないです」


「そういうところだ。すぐ縮むな」


 五郎兵衛はそう言うと、もうこちらを見ずに去っていった。


 雨の中へ、兵たちと同じように歩いていく。


 その背中を見ていると、少しだけ息ができた。


 腹に力を入れろ。


 俺は下腹に力を込めた。


 それでも膝は震えていた。


 小姓に案内された先は、陣の中央に近い場所だった。


 粗末な幕が張られている。だが、周囲の空気が違った。


 馬廻りらしき者たちが立ち、伝令が出入りし、誰かが低い声で報告している。槍場や飯場のような騒がしさはない。ただ、刃を抜く前のような張りつめた気配があった。


 小姓が幕の前で止まる。


「控えろ」


「はい」


 俺はその場に膝をついた。


 泥が着物に染みる。


 そんなことを気にする余裕はなかった。


 幕の向こうから声が聞こえた。


「連れてきたか」


 若い声だった。


 思っていたより高く、しかし妙に耳に残る声。


 小姓が頭を下げる。


「はっ。飯場の清吉にございます」


「入れ」


 その一言で、俺の心臓は跳ねた。


 小姓が幕を上げる。


 俺は中へ入った。


 最初に見えたのは、濡れた地面に広げられた簡素な地図だった。


 木片や石が置かれている。


 どれがどこの城を指すのか、俺には分からない。


 その奥に、男が座っていた。


 織田信長様。


 俺は噂でしか知らない。


 うつけと呼ばれた方。


 尾張をまとめつつある方。


 今川の大軍を前にしても、顔色を変えぬ方。


 目の前にいる男は、思ったより若かった。


 だが、若いというだけではない。


 濡れた髪を後ろに流し、片膝を立て、こちらを見ている。その目が、鋭すぎた。


 刀より怖い目だった。


 俺は慌てて頭を下げた。


「き、清吉にございます」


 声が裏返った。


 情けない。


 信長様は何も言わなかった。


 沈黙が落ちる。


 雨が幕を叩く音だけが聞こえる。


「おまえが飯を変えたのか」


 急に問われ、俺は肩を跳ねさせた。


「い、いえ」


「違うのか」


「変えたというほどのことでは、ございません」


 俺は地面を見たまま答えた。


「水を煮て、悪くなった味噌を避け、半煮えの飯を粥にしただけでございます」


「だけ、か」


 信長様の声が少しだけ笑った気がした。


「はい」


「それで腹を下す者が減ったと聞いた」


「減ったかどうかは……まだ、はっきりとは」


 俺は慎重に言った。


 調子に乗って大きなことを言えば、すぐに化けの皮が剥がれる。


「ただ、今朝は、うちの飯場で食べた者のほうが、いくらか立てておりました」


「いくらか」


「はい」


「なぜだ」


 なぜ。


 その問いは難しかった。


 水を煮たから。


 腐った味噌を避けたから。


 腹に残る粥にしたから。


 理由はいくつかある。


 だが、信長様が聞きたいのは、たぶんそこだけではない。


 俺は手を握った。


 爪の間の飯粒が潰れる感触がした。


「腹を壊した兵は、走れませぬ」


 自分の声が、思ったより静かに出た。


「走れぬ兵は、槍を持っても戦えませぬ。槍がどれほど立派でも、持つ者の腹が空であれば、足が出ませぬ」


 幕の中にいた者たちの視線が集まる。


 俺は一瞬、言葉を止めた。


 怖い。


 余計なことを言っている。


 けれど、信長様は黙っていた。


 だから続けた。


「戦の前に飯を食うのではなく……飯が、戦に連れていくのだと思います」


 言ってから、背中に冷たい汗が流れた。


 偉そうだ。


 ただの飯炊き小僧が、何を言っているのか。


 頭を地面につけたくなった。


 だが信長様は、しばらく黙ったあと、低く笑った。


「飯が戦に連れていく、か」


 その声は、馬鹿にしたものではなかった。


 むしろ、面白がっているようだった。


「槍で勝つ者、弓で勝つ者、鉄砲で勝つ者、策で勝つ者は見てきた」


 信長様が身を乗り出す気配がした。


「飯で戦を語る者は、初めて見る」


 俺は何も言えなかった。


 顔を上げていいのかも分からない。


「清吉」


「は、はい」


「顔を上げろ」


 恐る恐る顔を上げた。


 信長様は、まっすぐ俺を見ていた。


 視線が刺さる。


 だが不思議と、怒りではなかった。


「おまえ、どこの者だ」


「尾張の外れの村にございます。名もないような村です」


「父は」


「三年前に小競り合いで戻らなくなりました」


「母は」


「病で伏せております。妹がおります」


「飯は母から習ったか」


 俺は少し驚いた。


「……はい」


「母は強いか」


 何を聞かれているのか、一瞬分からなかった。


 けれど、母の細い背中が頭に浮かんだ。


 荒れた手。


 夜明け前から火を起こす姿。


 自分はほとんど食べず、俺と妹に粥をよそう顔。


 俺は答えた。


「強いです」


「そうか」


 信長様は短く言った。


 それだけで、なぜか胸が詰まった。


「清吉。明日、兵が走れる飯を用意しろ」


 言葉が落ちた。


 俺は一瞬、意味を掴めなかった。


「……明日、でございますか」


「今からだ」


「今から」


「そうだ。兵が動く。雨も降る。腹が重すぎれば鈍る。軽すぎれば持たぬ。片手で食え、濡れても崩れにくく、腹に残るものを作れ」


 頭の中で、米、味噌、塩、水、竹皮、釜、人手が一気に駆け巡った。


 無理だ。


 いや、無理ではない。


 どれくらい必要だ。


 何人分。


 釜はいくつある。


 水はどこから。


 味噌は足りるか。


 俺は反射的に聞いていた。


「何人分でございますか」


 幕の中の何人かが、微かに息を呑んだ。


 ただの足軽が、信長様の命に問い返したからだろう。


 俺も言ってから青くなった。


 だが、信長様は笑った。


「できる限りだ」


「できる限り……」


「そうだ。戦では、足りぬものを足りるように見せる者が役に立つ」


 無茶を言われている。


 けれど、そこに怒りは湧かなかった。


 むしろ、頭が動き始めた。


 今ある米を全部白飯にすれば足りない。大きな握り飯にすれば数が減る。小さく握る。中に味噌。塩を強める。水は煮る。握る前に手を湯で洗わせる。竹皮がなければ葉で包む。濡れぬよう高い台に置く。運ぶ者がいる。火を守る者がいる。


 俺は頭を下げた。


「やってみます」


「やってみる、では弱いな」


 信長様の声が、少しだけ鋭くなる。


 俺の背筋が伸びた。


 五郎兵衛の言葉を思い出す。


 腹に力を入れろ。


 俺は腹に力を込め、言い直した。


「やります」


 信長様の口元が、かすかに動いた。


「よし」


 その一言で、命が決まった気がした。


「必要なものは飯場にあるだけ使え。ただし無駄にはするな。人手が要るなら小者を使え。逆らう者があれば、わしの名を出せ」


 わしの名を出せ。


 そんな恐ろしい札を、俺のような足軽に渡していいのか。


 俺はまた震えそうになった。


 だが信長様はもう地図へ視線を戻していた。


「下がれ」


「はっ」


 俺は深く頭を下げ、幕の外へ出た。


 外の雨が、急に冷たく感じた。


 小姓が俺を見る。


 さっきまでより、ほんの少し目が違っていた。


「聞いたな」


「はい」


「急げ」


「はい」


 俺は飯場へ向かって走り出した。


 泥に足を取られる。


 何度も滑りそうになる。


 けれど止まれなかった。


 頭の中で、信長様の言葉がぐるぐる回る。


 兵が走れる飯を用意しろ。


 できる限り。


 今から。


 飯場に戻ると、かやが桶を担いでいた。


 川筋の娘で、荷運びの手伝いに来ている女だ。年は俺と同じくらいか少し上。髪を後ろで雑に結び、裾をからげ、男たちに混じって平然と働いている。


 口は悪い。


 目つきも悪い。


 だが、荷を担ぐ足は誰よりしっかりしていた。


「お、戻った。首はつながってるみたいだな、飯炊き小僧」


「かや」


「何だよ、その顔。殿様に味噌の腐り具合でも説いてきたのか」


「握り飯を作る」


「あ?」


「できる限りたくさん。片手で食えるやつ。味噌入りで、塩を強める。雨でも濡らさないように包む」


 かやは目を細めた。


「いきなり何言ってる」


「信長様の命だ」


 周囲の動きが止まった。


 弥助がこちらを見る。


「……今、何と言った」


「信長様の命です。兵が走れる飯を用意しろと」


 弥助の顔が強張った。


 飯場にいた足軽たちもざわつく。


「おいおい」


「清吉が?」


「殿様が?」


「本当かよ」


 俺は息を整える間もなく言った。


「米を集めます。釜も使えるだけ使います。水は全部煮てください。味噌は俺が見る。塩も要ります。竹皮、葉、布、何でもいいので包めるものを集めてください」


 誰もすぐには動かなかった。


 当たり前だ。


 昨日まで笑われていた飯炊き小僧が、急に指図しているのだ。


 俺の声も震えていたと思う。


 その時、かやが桶を地面に置いた。


「包むもんが要るなら、あっちの荷に古い竹皮がある」


 俺はかやを見た。


「本当か」


「ただし足りねえ。葉っぱも集めるなら、川沿いの連中に声かけたほうが早い」


「頼めるか」


「なんであたしが」


「俺には誰がどこにいるか分からない」


 正直に言った。


「かやのほうが早い」


 かやは一瞬、きょとんとした顔をした。


 それから、ふっと笑った。


「飯炊き小僧のくせに、人を使うのは覚えたか」


「使うんじゃない。頼んでる」


「同じだよ」


 かやは濡れた前髪を払い、飯場の外へ向かった。


「竹皮と葉っぱだな。あと桶も要るか」


「要る。水を分けたい」


「わかった。借りるぞ」


「借りる?」


「返せば借りたことになる。返せなきゃ、あとでおまえが謝れ」


「俺が?」


「信長様に拾われたんだろ。偉い偉い」


 そう言って、かやは雨の中を走っていった。


 弥助が苦い顔で俺を見る。


「清吉」


「はい」


「本当に殿の命か」


「はい」


「……なら、やれ」


 弥助は周囲を怒鳴りつけた。


「聞いたか! 米を運べ! 釜を空けろ! 水を汲め! ぼさっとするな!」


 飯場が一気に動き出した。


 俺は味噌樽の前に膝をついた。


 手が震えている。


 信長様に会った恐怖が、今さら身体に戻ってきた。


 だが、震えている場合ではない。


 米が要る。


 火が要る。


 水が要る。


 人が要る。


 そして何より、時間がない。


 俺は自分の頬を軽く叩いた。


 ぱちん、と情けない音がした。


「よし」


 誰に言うでもなく呟く。


 まず、味噌だ。


 悪い部分を避ける。


 使えるところだけを取る。


 濃すぎれば喉が渇く。


 薄すぎれば腹に残らない。


 塩は強め。


 雨で冷える身体には、そのほうがいい。


 握り飯は大きすぎてはいけない。


 小さく、固く、崩れにくく。


 数を増やす。


 腹いっぱいにする飯ではない。


 走らせる飯だ。


「清吉、米来たぞ!」


「こっちへ!」


「水は?」


「まだ煮てません!」


「煮ろ! 煮た水とそうでない水を混ぜるな!」


「清吉、釜が足りねえ!」


「粥用の釜を一つ空けてください。残りは飯に!」


「薪が湿ってる!」


「乾いた枝を下に。太いのを上に乗せすぎないで!」


 声を出すたびに、不思議と恐怖が薄れていった。


 やることがある。


 やることがあるうちは、人は怯えている暇がない。


 雨は降り続いている。


 今川の大軍は近い。


 織田の兵たちは、やがて走る。


 その時、腹の中に俺の握り飯があるかもしれない。


 そう思うと、胸の奥が熱くなった。


 俺は飯を握る手を止めなかった。


 米の熱が、掌に食い込む。


 熱い。


 だが、離さなかった。


 この熱を持っていけ。


 雨の中へ。


 戦の中へ。


 俺には槍は使えない。


 けれど、この熱なら渡せる。


 飯場の火が、雨風の中で赤く揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ