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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第二話 腹を壊さぬ飯は、槍より役に立つ

 五郎兵衛の一言で、飯場の空気が少しだけ変わった。


 それは、俺を助けるための大げさな褒め言葉ではなかった。


 ただ粥を一口食い、舌で確かめ、腹に落としてから出た、古参足軽の実感だった。


「腹に収まる飯だな」


 その言葉を聞いた弥助は、伸ばしかけていた手を止めた。


 殴られると思っていた俺は、息を詰めたまま立ち尽くす。


 飯場の端で腹を押さえていた若い足軽も、泥のついた膝を抱えたまま、ぽかんと五郎兵衛を見ていた。


 五郎兵衛はもう一口、粥をすすった。


「熱い。塩もある。味噌の臭みも薄い。……悪くねえ」


「五郎兵衛殿」


 弥助が低い声を出した。


「こいつは勝手に味噌を捨てようとしました。戦の前に、兵糧を無駄にされちゃ困ります」


「腐った味噌を食わせるほうが無駄だろうが」


 五郎兵衛は、あっさり言った。


 弥助の眉が動く。


「しかし」


「弥助。おまえ、昨日から何人腹を下してるか数えたか」


「……それは」


「俺は数えた。少なくとも七人はまともに立てねえ。三人は朝から便所代わりの藪に入りっぱなしだ」


 飯場の隅で、誰かが気まずそうに咳をした。


 俺は黙っていた。


 弥助も黙った。


 五郎兵衛は木椀の粥を最後まですすり、空になった椀を俺の前に差し出した。


「清吉とか言ったな」


「は、はい」


「もう一杯くれ」


「……はい」


 俺は慌てて粥をよそった。


 手が震えて、少しこぼれた。


「落ち着け。飯は逃げねえ」


 五郎兵衛はそう言って、口の端だけで笑った。


 その笑い方に、少しだけ力が抜ける。


 弥助はまだ面白くなさそうにしていたが、五郎兵衛の前で無理に俺を叱り飛ばすことはしなかった。


「……いいか、清吉」


「はい」


「勝手は二度とするな。だが、やるなら俺に言え」


 それは許しなのか、釘を刺されたのか、俺にはよく分からなかった。


 ただ、飯場から追い出されなかったことだけは確かだった。


「ありがとうございます」


「礼を言う暇があるなら、さっさと飯をどうにかしろ。腹を壊す奴がこれ以上増えたら、俺の首が飛ぶ」


「はい」


 俺は深く頭を下げた。


 顔を上げると、周りの足軽たちがこちらを見ていた。


 さっきまで笑っていた奴らだ。


 けれど、今の目は少し違った。


 馬鹿にしているというより、半信半疑。


 こいつの飯、本当に食っていいのか。


 そんな顔だった。


 俺は鍋の前に戻った。


 まず、水を見た。


 飯場には桶が三つあった。どれも泥が混じっている。


 井戸から汲んできたものではなく、近くの水溜まりに近い場所から運んだ水らしい。


 これをそのまま使えば、腹を下す。


 俺は桶を一つずつ火にかけることにした。


「水を煮ます」


「全部か?」


 近くの足軽が嫌そうな顔をする。


「全部です」


「面倒くせえな」


「腹を壊して藪に通うほうが面倒です」


 そう言うと、五郎兵衛が鼻で笑った。


「違えねえ」


 足軽たちが少しだけ笑う。


 馬鹿にする笑いではなかった。


 俺は胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じながら、火の調整を始めた。


 飯場の火は、弱いだけではない。


 薪の置き方が悪かった。


 湿った薪を下に詰め込みすぎて、煙ばかり出ている。


 俺は乾いた木を探し、細い枝を下に入れ直した。


「火を強くしたいなら、薪を突っ込めばいいってもんじゃないです」


「おまえ、やけに偉そうだな」


「すみません。でも、母がよく言っていたので」


「母?」


「はい。母は、村で人の分まで飯を炊くことが多かったんです。祭りでも、葬いでも、田植えのときでも」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 戦場で母の話など、女々しいと思われるかもしれない。


 だが五郎兵衛は笑わなかった。


「飯を炊ける女は強いぞ」


 ぽつりと言った。


「俺の母親もそうだった。親父より怖かった」


 その言葉に、周囲の何人かが頷いた。


「うちもそうだ」


「母ちゃんの握り飯、でかすぎて顎外れるかと思ったな」


「俺は嫁の飯のほうが怖え。焦げてても食わねえと機嫌が悪い」


 飯場に少し笑いが戻った。


 俺は鍋をかき混ぜながら、味噌樽の中をもう一度確かめた。


 すべてが駄目なわけではない。


 表面と縁の部分は悪いが、奥のほうはまだ使える。


 母ならどうするか。


 母なら、まず匂いを見る。次に色を見る。最後に少しだけ舐める。


 俺は木のへらで悪い部分を削ぎ落とし、使えるところだけを別の器に移した。


「おい、それ本当に食えるのか」


 若い足軽が不安そうに聞く。


「食えます。でも、このままじゃ駄目です。火を通して、少し塩を足して、粥にします」


「粥かよ。腹にたまらねえだろ」


「半煮えの飯よりは腹に残ります」


 俺は鍋の米を見た。


 芯が残っている。


 水を足し、じっくり煮るしかない。


 米粒が崩れて、粥になれば、量も増える。


 本当は具が欲しい。


 山菜でも芋でもあればいいが、今は贅沢を言えない。


 俺は辺りを見回し、桶の隅に残っていた干し菜を見つけた。


 埃を払う。


 少し硬いが、湯で戻せば使える。


「これ、使っていいですか」


「そんなもん、馬の餌にもならんぞ」


「なら、人の飯にします」


「おまえ、変な奴だな」


 そう言った足軽が、少しだけ笑った。


 俺は干し菜を湯に浸し、刻んで鍋へ入れた。


 味噌と塩。


 水。


 米。


 干し菜。


 たったそれだけだ。


 だが、腐った水と半煮え飯よりは、ずっとましなものになる。


 鍋から湯気が立ち始める。


 酸っぱい臭いが薄れ、味噌の香りが少しずつ広がっていった。


 足軽たちの顔が変わる。


 腹を押さえていた若い男が、鼻をひくつかせた。


「……なんか、ましな匂いになったな」


「食えそうか」


「食う前から腹が鳴った」


 誰かが笑う。


 俺は木椀に粥をよそった。


 最初に五郎兵衛へ渡す。


 次に弥助。


 弥助は一瞬、受け取るのをためらった。


 けれど周囲の目がある。


 結局、無言で椀を受け取った。


 俺は息を呑んで見守った。


 弥助が粥をすすった。


 顔は変わらない。


 二口目。


 三口目。


 そして、短く言った。


「……塩が少し強い」


「汗をかくので」


「理屈を返すな」


「すみません」


 怒鳴られるかと思ったが、弥助は椀を置かなかった。


 最後まで食った。


 それだけで、俺には十分だった。


 足軽たちも次々と粥を食べ始めた。


「熱っ」


「味噌の臭みがねえ」


「干し菜って食えるんだな」


「腹が変に暴れねえ」


 うまい、と大声で言う者はいなかった。


 豪勢な飯ではない。


 肉も魚もない。


 白飯でもない。


 ただ、雨の気配を含んだ湿った空気の中で、熱い粥が腹へ落ちていく。


 それだけで、少しずつ人の顔色が戻っていった。


 俺は鍋の底をかき混ぜながら、ほっと息を吐いた。


 よかった。


 食える。


 戦場でも、人はまだ飯を食える。


「清吉」


 五郎兵衛が声をかけてきた。


「はい」


「おまえ、槍は駄目だな」


「……はい」


「だが、飯は炊ける」


「はい」


「だったら、胸を張れ。戦場で飯を炊ける奴は、槍を持つ奴より少ねえ」


 思わず顔を上げた。


 五郎兵衛は、空になった椀をこちらへ差し出している。


「もう一杯」


「はい」


 俺は二杯目をよそった。


 それから、昼まで飯場は慌ただしく動いた。


 水を煮る。


 火を保つ。


 味噌を分ける。


 飯を粥にする。


 腹の悪い者には薄めにする。


 動ける者には少し濃くする。


 古い木椀は一度湯にくぐらせる。


 桶は地面に直置きしない。


 蓋のない鍋には板を乗せる。


 そんな小さなことを一つずつやっていると、最初は面倒くさがっていた足軽たちも、少しずつ手を貸してくれるようになった。


「清吉、この水は煮たやつか?」


「まだです。そっちの桶が煮た水です」


「味噌はどれ使う?」


「右の器に分けた分を」


「この飯、固えぞ」


「粥にします。水を足してください」


 気づけば、俺が指示を出していた。


 自分でも驚いた。


 槍場では足を引っ張るだけだった俺が、飯場では人を動かしている。


 偉くなったわけではない。


 ただ、何をすればいいか分かる。


 それだけで、人は声を出せるのだと初めて知った。


 夕方近く、雲がさらに厚くなった。


 空の色が鈍く沈み、風が湿った。


 遠くで馬が嘶く。


 陣の外では、伝令らしき者が何度も行き来していた。


 今川が動いた。


 そんな噂が、飯場にも流れ込んでくる。


「いよいよか」


「大軍だってよ」


「今川義元の本陣は、えらい数らしい」


「俺たちなんか、踏み潰されるんじゃねえか」


 足軽たちの声が少し硬くなる。


 笑っていても、目が笑っていない。


 俺も怖かった。


 手元の米を研ぎながら、指先が震えた。


 戦になる。


 明日か、今夜か。


 俺は槍を持てば役に立たない。


 飯を炊いていても、敵が来れば死ぬかもしれない。


 死んだら、母と妹はどうなる。


 考え始めると、胸の奥が冷たくなった。


「清吉」


 弥助が近づいてきた。


 俺は身構える。


「はい」


「夜の分も作れるか」


「……作ります」


「食ったらすぐ動けるやつにしろ。腹が重くなりすぎても困る」


 俺は少し驚いた。


 弥助が、俺に飯のことを聞いている。


「粥を少し濃くします。あとは握り飯を小さく作っておけば、移動のときに食えます」


「握り飯か」


「はい。大きすぎると、急いで食べられません。小さくして、味噌を少し中に入れます。塩も強めに」


「贅沢だな」


「贅沢じゃありません。走るためです」


 言ってから、また余計なことを言ったかと口を閉じる。


 だが弥助は怒らなかった。


「……勝手にしろ」


 それだけ言って去っていった。


 その背中を見ていた五郎兵衛が、にやりと笑う。


「認めたな」


「認めたんでしょうか」


「飯を任せた。そういうことだ」


 俺は返す言葉がなかった。


 飯を任される。


 それがこんなに重いことだとは思わなかった。


 夜になり、とうとう雨が降り出した。


 最初はぽつり、ぽつり。


 やがて、陣の布を叩くほどの雨になる。


 火を守るため、俺たちは鍋の周りに板と布を張った。


 煙が目にしみる。


 湿った薪はすぐに弱る。


 それでも火を絶やすわけにはいかなかった。


 火が消えれば飯が止まる。


 飯が止まれば、兵の腹も止まる。


 俺は小さな握り飯を作り続けた。


 手のひらに米を乗せる。


 真ん中に味噌を少し。


 塩をまぶす。


 ぎゅっと握る。


 大きすぎないように。


 崩れないように。


 すぐ食えるように。


 竹皮が足りない分は、葉や布で代用した。


 泥がつかないように、高い台へ並べる。


 雨音の中、母の声がまた蘇る。


『飯はね、腹だけじゃなくて気も温めるんだよ』


 幼い頃、父がまだ生きていた頃。


 田の水が冷えて、足が震えるような日に、母は小さな握り飯を作ってくれた。


 中には味噌が少しだけ入っていた。


 それを食うと、もう少しだけ働けた。


 もう少しだけ歩けた。


 もう少しだけ、明日があるような気がした。


 俺は握り飯を見つめる。


 たったこれだけのものだ。


 米と味噌と塩。


 けれど、これを食った誰かが、明日の朝に一歩動けるかもしれない。


 なら、俺の仕事は無駄ではない。


「清吉」


 五郎兵衛が近くに腰を下ろした。


 濡れた蓑から水が滴っている。


「寝ろ。倒れるぞ」


「まだ少し」


「少し、少しと言ってる奴から倒れる」


「でも、明日の朝に足りなかったら」


「足りねえものは、戦場じゃいつも足りねえ。だから倒れる前に寝ろ」


 その言い方が妙に優しくて、俺は思わず苦笑した。


「五郎兵衛殿は、怖い方かと思っていました」


「怖いぞ」


「……はい」


「だから寝ろと言ってる」


 俺は少しだけ肩の力を抜いた。


 それでも、最後の鍋を見届けてから、飯場の隅に腰を下ろした。


 眠れたのかどうかは分からない。


 雨音。


 人の寝息。


 遠くの馬の音。


 伝令の足音。


 何度も目が覚めた。


 夜明け前、まだ空が黒いうちに、陣がざわついた。


「起きろ!」


「支度だ!」


「動くぞ!」


 怒号が飛ぶ。


 足軽たちが起き上がる。


 俺も跳ね起きた。


 胃がきゅっと縮む。


 いよいよだ。


 鍋の中の粥はまだ温かい。


 握り飯も濡れていない。


 俺は声を張った。


「煮た水はこっちです! 粥は先に腹の悪い人から! 動ける人は握り飯を二つ持っていってください!」


 自分の声が、思ったより通った。


 足軽たちがぞろぞろと飯場へ集まる。


 昨日までなら、押し合い、怒鳴り合いになったかもしれない。


 だが今朝は違った。


「煮た水はこっちだな」


「俺、昨日腹やったから粥くれ」


「握り飯、二つでいいのか」


「清吉、味噌入りのやつまだあるか」


 誰も俺を笑わなかった。


 ただ飯を受け取り、食い、立ち上がっていく。


 その顔色を見て、俺は息を呑んだ。


 昨日より、ましだ。


 全員ではない。


 腹を壊している者もいる。


 青い顔の者もいる。


 けれど、俺たちの飯場で食った組は、明らかに立っている。


 足に力がある。


 目が死んでいない。


 五郎兵衛が槍を担ぎ、俺の前を通った。


 その手には握り飯が二つある。


「清吉」


「はい」


「腹がもったら、槍ももつ」


 そう言って、五郎兵衛は笑った。


 俺は何も言えず、頭を下げた。


 弥助も通り過ぎる。


 一瞬だけこちらを見る。


「……次の飯も用意しておけ」


「はい」


 それだけだった。


 けれど、その一言で胸が熱くなった。


 兵たちが雨の中へ出ていく。


 泥を踏み、槍を担ぎ、黙々と進む。


 その背中のいくつかに、俺の握り飯がぶら下がっていた。


 俺は鍋の前に立ったまま、しばらく動けなかった。


 槍を持って前に出ることはできない。


 敵を討つこともできない。


 けれど、あの背中を一歩だけ押すことはできたかもしれない。


 飯で。


 たった一杯の粥と、小さな握り飯で。


 朝の雨は強くなっていた。


 その雨の向こうで、誰かが叫ぶ。


「清吉という飯炊きは、どいつだ!」


 飯場にいた者たちが、一斉にこちらを見た。


 俺は手についた飯粒を見下ろしたまま、固まった。


 声の主は、織田家の小姓らしい。


 身なりが、足軽とは違う。


 その男はもう一度、鋭く言った。


「清吉はどこだ。上様がお呼びだ」


 上様。


 その言葉が、雨音よりも重く胸に落ちた。


 織田信長。


 俺は、握り飯を作っていただけだ。


 ただ、水を煮て、粥を炊いただけだ。


 なのに、どうして俺の名がそこまで届く。


 膝が震えた。


 五郎兵衛の声が、雨の向こうから聞こえた気がした。


 腹がもったら、槍ももつ。


 俺は濡れた手を着物で拭い、深く息を吸った。


「……俺です」


 小姓の目が、俺を射抜いた。


「来い」


 飯場の火が、ぱちりと小さく鳴った。

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