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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百話 細飯荷、初めて本番を渡る

 信長様の言葉が、清洲蔵の中にまだ残っていた。


 美濃攻略は、この四つの腹で動かす。


 高畑は太い腹。

 川道は細い腹。

 山裾は村の腹。

 北尾根は敵の腹。


 言われた時は、胸の奥が熱くなった。


 けれど、翌朝になると、熱より先に重さが来た。


 承認された。


 つまり、もう「試しです」だけでは済まない。


 今日から川道少量補助線は、準正式の運用へ入る。


 渡し場では、細飯荷と呼ぶことになった。


 細い飯荷。


 市松がつけた呼び名だ。


 清洲の帳面には硬く「川道少量補助線」と書かれる。


 だが、渡し場では「細飯荷」。


 そのほうが、誰の腹にも入りやすい。


 朝の清洲蔵では、佐助が川道用の厚味噌片を包んでいた。


 今日は試験ではない。


 本番の細飯荷だ。


 とはいえ、数は少ない。


 厚味噌片の包みが二つ。

 小さな握り飯の包みが二つ。

 乾燥菜が一袋。

 戻り用の空竹皮と濡れ札。

 そして、川見札の写し。


 飯荷と呼ぶには、少ない。


 だが、それでいい。


 細飯荷は、細いままでなければならない。


「本当にこれだけか?」


 権六が荷を見て言った。


「これだけです」


 佐助が答える。


「上様が認めたんだぞ。もっと持っていくんじゃないのか」


 かやが横から即答した。


「上様が認めたのは、太くすることじゃないよ。細いまま動かすこと」


「分かってる。分かってるけど、承認されたら大きくしたくなるのが人情じゃないか」


「それが一番危ない」


 俺は荷札を見ながら言った。


「今日、細飯荷が太い顔をしたら、川道は一日で閉じる」


 権六は少し黙り、腕を組んだ。


「……文句が言いにくいくらい正しいな」


「言わなくてもいいぞ」


「いや、言う。今日の文句は『細飯荷なのに背中が緊張する』だ」


 伊三郎がすぐ筆を取った。


「書くな!」


「重要です。準正式初日の人足心理です」


 権六は頭を抱えた。


 文句腹帳は、今日も順調に増えそうだった。


 作兵衛は、荷を持つ人足を二人だけ選んだ。


 太助と仁吉だ。


 どちらも川道の試験を経験している。


 新しい人足を入れたい気持ちもあったが、初日は慣れた者でやる。


 川道は、荷の数より手順が大事だからだ。


「太助、今日は本番だ」


 作兵衛が言うと、太助は嫌そうな顔をした。


「本番って言われると、背中がさらに重くなる」


「荷は軽いぞ」


「心が重い」


「良い文句だ」


「褒めるなよ。余計重い」


 かやが折り畳み小台を確認した。


 前に市松から文句が出た縄の音は、布を噛ませて直してある。


 舟の端に当たっても、甲高い音は出にくい。


 小台には小さな札が付けられていた。


 使ったら外す。

 舟に残さない。

 客の荷を押しのけない。


 これも、川道の約束だ。


 伊三郎は、川道飯荷手間帳の新しい欄を作った。


 今日から「本番細飯荷」として記録される。


 一、飯荷数。

 二、客の順。

 三、喜助の札。

 四、市松または客の文句。

 五、濡れ処理。

 六、病人・急ぎの暮らし用の有無。

 七、細飯荷が細いままか。


 最後の項目を見て、太助が目を細めた。


「細いままか、って何だよ」


「量が増えすぎていないか、態度が大きくなっていないかを見る項目です」


 伊三郎は真顔だった。


 かやが笑う。


「態度まで帳面に書くんだ」


「書きます。川道では大事です」


 確かに、大事だった。


 飯荷は、量だけで太くなるわけではない。


 言い方で太くなる。


 急がせ方で太くなる。


 客を見る目で太くなる。


 細飯荷が細いままでいるには、態度まで細くなければならない。


 出発前、弥助殿が蔵へ来た。


 荷を見て、頷く。


「少ないな」


「はい」


「よい。初日に増やすな」


「承知しました」


「喜助に従え。市松を黙らせようとするな。文句を持って帰れ」


「はい」


 権六が小さく呟いた。


「文句を持って帰れ、か。良い言葉だ」


「おまえが言うと変だ」


 作兵衛が返す。


 弥助殿は少しだけ目を細めた。


「敵は、川道なら札を狙う」


「札、ですか」


「渡し場不買板、川見札、手間帳。信用が形になったところを汚す。気をつけろ」


 札を狙う。


 その言葉が、腹に残った。


 北尾根では鳥場。

 山裾では針包み。

 川道では噂紙。


 次に狙われるなら、確かに札かもしれない。


 清洲を出た時、細飯荷は軽かった。


 だが、全員の歩き方は重かった。


 太助が途中でぼそっと言う。


「試験の時より喋りにくいな」


「なぜ?」


「本番って、失敗したら戻れない気がする」


 かやが答えた。


「戻れるように細くしてるんだよ」


「そうか」


「細いから、止められる。太くしたら、止めるだけで大騒ぎになる」


 太助は少し考え、頷いた。


「細いって、弱いんじゃなくて止めやすいんだな」


 俺は小帳面を出しかけた。


 太助がすぐ睨む。


「まだ書くな。歩きながらだと危ない」


「戻ってから書く」


「結局書くのか」


 茶屋に寄ると、女将がいつものように茶を出してくれた。


 荷を見て、少し笑う。


「今日は本番の顔だね」


「分かりますか」


「荷が少ないのに、皆の肩が硬い」


 その通りだった。


 女将は川の方を見た。


「川道は、少なく始めるのがいいよ。増やすのは簡単に見えて、減らすのが難しいからね」


「減らすのが難しい」


「一度『清洲の荷はこれくらい来る』と思われたら、減らしても疑われる。『今日は少ないが、明日は多いんだろう』ってね」


 また、嫌なほど的確だった。


 俺は頷いた。


「細いまま見せます」


「そうしな。細い約束は、太い約束より破れにくい時がある」


 茶屋を出て、川へ向かった。


 渡し場に着くと、喜助は舟の中を拭いていた。


 市松もいた。


 まるで待っていたように、布包みを抱えている。


「来たな、細飯荷」


 市松が言った。


 その呼び方が、もう渡し場に馴染み始めているのが少しおかしかった。


「今日は二包みです」


 俺が言うと、市松は目を細めた。


「昨日言った通りだな」


「はい」


「増やしてたら、最初から噛むところだった」


「噛まれずに済みました」


 市松は鼻で笑った。


 喜助は川を見た。


 札を一枚、掲げる。


 黄札。


 待て。


 いきなりだった。


「水ですか」


「客だ」


 喜助が顎で示す。


 渡し場の少し脇に、老婆と若い男がいた。


 若い男の背には、薬箱らしきものがある。


 医者ではない。


 薬師か、使いの者だろうか。


 老婆が言った。


「向こう岸の孫が熱を出してね。薬を届けるんだ」


 病人。


 まさに、昨日説明板へ書き足したばかりのことだった。


 市松がこちらを見る。


「さて、細飯荷」


「もちろん、先にどうぞ」


 俺は頭を下げた。


 喜助がすぐ舟を寄せる。


「薬が先だ」


 太助が小声で言った。


「初日にいきなり試されるのか」


「試されてよかった」


 かやが言う。


「口だけじゃないって見せられる」


 薬を届ける若い男と老婆が先に乗った。


 喜助は丁寧に薬箱を濡れない場所へ置く。


 舟が出る。


 細飯荷は岸で待つ。


 市松が近づいてきた。


「今のを嫌な顔せず待てるかどうかだな」


「顔、嫌そうでしたか?」


「緊張はしてた。でも嫌な顔じゃない」


「それはよかった」


「ただ、太助は顔が固い」


 太助が驚いて振り返る。


「俺ですか」


「おまえは荷を背負う顔が正直すぎる。客に『俺のせいで待たせてる』と思わせるな」


 太助は言葉に詰まった。


 作兵衛が小さく頷く。


「市松、良い文句だ」


「文句じゃない。商人の目だ」


「似たようなものだ」


「違う」


 市松は嫌そうにしたが、やはり役に立つ。


 太助は深呼吸した。


「普通の顔って難しいな」


 かやが笑った。


「普通にしてって言われると一番難しいよね」


 薬の客を渡し終え、喜助が戻ってきた。


 今度は青札。


 渡し可。


「細飯荷、二包みだけ。小台を使え。長居するな」


「はい」


 手順通りに動く。


 小台を半組みの状態で舟へ載せる。

 最後の縄を締める。

 厚味噌片と握り飯の包みを平置きにする。

 人は後から乗る。

 足で荷を蹴らない位置に立つ。


 市松が岸から見ている。


 魚籠の男もいる。


 いつの間にか、渡し場の普通の客がこちらの手順を見るようになっていた。


 それは緊張する。


 だが、悪いことではない。


 見られているから、約束を破りにくい。


 舟が出る。


 川面は穏やかに見えるが、舟はやはり揺れる。


 喜助が低く言った。


「荷を見るな。足元を見ろ」


 太助が慌てて足元を見る。


「荷が心配で」


「荷より先に人が落ちる」


「はい」


 向こう岸へ着く。


 人が先に降りる。


 岸の泥を確認。


 荷を手渡し。


 上段へ運ぶ。


 小台を上段でも使う。


 今日は湯を作らない。


 渡し後飯として使うのではなく、向こう岸の見張り役へ渡す補助飯だ。


 高畑線の負担を少し軽くするため、川向こうの小さな番へ届ける。


 細飯荷の本番とは、そういうものだった。


 大勢を食わせる飯ではない。


 少し離れた目を支える飯。


 上段で待っていた若い番役が、荷を受け取った。


「これだけですか」


 思わず出た言葉なのだろう。


 太助の眉が動きかけた。


 俺は先に言った。


「これだけです。川道は細飯荷です。足りない分は高畑線から回ります。ここで増やすと、渡し場が詰まります」


 若い番役は、少し驚いた顔をした。


「あ、いえ、不満では」


「不満なら言ってください。記録します」


「記録?」


 かやが笑顔で答えた。


「川道は、文句も持って帰ります」


 番役は困ったように笑った。


「では……軽いのはありがたいですが、次にいつ来るか分からないと、分け方に困ります」


 良い文句だった。


 細飯荷は少ない。


 少ないなら、次の時刻が大事になる。


 多く持たせれば安心するが、川道は太くなる。


 少なく持たせるなら、次の予定が必要だ。


 俺は小帳面に書く。


 受け取り側、次時刻不明で分け方困る。細飯荷には次便見通し札必要。


 かやが頷いた。


「次便見通し札、要るね」


 太助が小声で言った。


「札が増える」


「増えるけど、これは必要」


 荷を渡し終え、上段に長居せず戻る。


 ここも約束だ。


 戻りの舟では、空包みと濡れ札だけを持った。


 濡れ戻りは濡れ戻り棚へ。


 清洲蔵へ帰るまで、混ぜない。


 渡し場へ戻ると、市松が待っていた。


「早かったな」


「湯を作りませんでした」


「それがいい。湯を作ると飯の顔がでかくなる」


 市松まで、飯の態度を言うようになった。


 喜助が川を見て、すぐ別の客を乗せる。


 細飯荷はもう終わった。


 渡し場は普通の渡し場に戻る。


 それが何より大事だった。


 俺たちは岸の端で手間帳を書いた。


 薬届け先客、飯荷より先。

 黄札、客あり。

 青札後、細飯荷二包み。

 小台使用。

 湯作りなし。

 向こう岸番役より、次便見通し札要望。

 市松文句、荷持ちの顔が固い。客に気を使わせる恐れ。

 濡れ戻り一。

 細いまま。


 市松が最後を見て鼻で笑った。


「細いまま、か」


「はい」


「今日は合格だな」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。明日太くなったらまた噛む」


「お願いします」


「頼むな」


 市松は嫌そうにしたが、目は笑っていた。


 その時、喜助がふと小屋の脇を見た。


 渡し場不買板のところだ。


 板の下に、何か落ちていた。


 細い木札。


 喜助が拾おうとしたが、俺は止めた。


「触らないでください」


 小平が布を出す。


 木札を拾い、広げる。


 そこには、墨で短く書かれていた。


 青札の日は、清洲が先に渡る。


 ぞっとした。


 嘘だ。


 だが、嫌な嘘だ。


 川見札の青を使っている。


 渡し場の仕組みを知っている者が書いたか、聞いた者が書いたか。


 青札は「渡し可」であって、「清洲優先」ではない。


 そこをねじ曲げている。


 弥助殿の言葉が腹に落ちた。


 敵は札を狙う。


 喜助の顔が険しくなった。


「ふざけた札だな」


 市松も近づいてきて、木札を見た。


「青札を潰しに来たか」


「すぐ説明します」


 俺が言うと、市松は首を振った。


「説明じゃ遅い。今、ここで青札を出せ」


「え?」


「喜助、青札を出せ。客がいなけりゃ、誰でも渡れる札だって見せろ。清洲が先じゃないと今すぐ見せる」


 喜助は一瞬考え、頷いた。


 ちょうど、向こう岸から戻りたい農夫が一人いた。


 清洲の荷はもうない。


 喜助は青札を掲げた。


「渡し可。向こう岸の客を渡す」


 舟が出る。


 青札で、清洲ではなく普通の客が渡る。


 渡し場にいた者たちが、それを見た。


 市松が俺を見た。


「紙より早いのは、実際の渡しだ」


 その通りだった。


 俺は深く頷いた。


「ありがとうございます」


「だから礼を言うな。俺の渡し賃が上がると困るだけだ」


 そう言いながら、市松は木札を睨んでいた。


 細飯荷初日は、成功した。


 だが、同時に敵の次の手も見えた。


 噂紙ではない。


 札の意味をねじ曲げる。


 青札の日は、清洲が先に渡る。


 短い。


 嫌なほど効く。


 放っておけば、青札そのものの信用が腐る。


 清洲蔵へ戻ると、伊三郎は報告を聞いてすぐ顔を険しくした。


「札の信用を狙っています」


「はい」


「川見札の意味を、見える場所に出し直す必要があります」


 かやが言った。


「でも、札を増やしすぎるとまた硬くなる」


 権六が腕を組む。


「青は清洲の青じゃない、って言えばいい」


「分かりやすいですね」


 伊三郎が筆を取った。


「本気で書くのか」


「はい。渡し場で使えます」


 喜助と市松なら、たぶん笑う。


 だが、覚えやすい。


 青札は清洲優先ではない。

 青は、川が渡れるという意味。

 客がいれば客が先。

 細飯荷は客の後ろ。


 これを渡し場へ持っていく必要がある。


 弥助殿へ報告すると、彼は短く言った。


「やはり札を狙ったか」


「はい」


「初日に出たのは、むしろよい。早く潰せる」


「はい」


「次は札の意味を守れ。川道は飯より先に札が戦になる」


 川道は、札が戦。


 新しい局面だった。


 夜、清洲蔵では川道の厚味噌片湯を少しだけ出した。


 細飯荷初日の飯だ。


 権六がすすって言った。


「今日の飯は、青札の味だな」


「どんな味だ」


「渡れるけど、先に渡れるとは限らない味」


 かやが笑った。


「また難しいこと言う」


 佐助は真面目に頷いた。


「でも、分かります。湯があっても、すぐ食べるとは限らない。順番があります」


 作兵衛が言った。


「飯にも順番、渡しにも順番、札にも意味。敵はその順番を崩しに来る」


 市松の言葉が頭に残っていた。


 紙より早いのは、実際の渡し。


 今日は、薬を届ける客を先に渡した。


 青札で普通の客を渡した。


 細飯荷は二包みだけで終わった。


 だから、細いまま守れた。


 だが、次はもっと細かいところを狙われる。


 青札。

 黄札。

 喜助の判断。

 手間帳の記録。

 市松の文句。


 川道準正式運用は、始まったばかりだった。

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