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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第一話 貧乏足軽の俺、飯炊きに回される

 尾張の六月は、妙に湿っぽい。


 朝から空気が肌に貼りついて、草鞋の鼻緒まで湿る。泥の匂いと、人の汗と、湿った藁の臭いが混ざると、もうそれだけで腹が重くなった。


 俺は槍を肩に担ぎながら、ぼんやりそんなことを考えていた。


「おい清吉、ぼさっと歩くな!」


 怒鳴り声と同時に、背中を蹴られる。


 踏ん張りきれず、俺は前につんのめった。危うく槍を落としかけ、慌てて抱え直す。


 振り返ると、小者頭の弥助が眉を吊り上げていた。


 日に焼けた顔。太い腕。額の古傷。年は三十くらいだろうか。戦慣れした男特有の、獣みたいな目をしている。


「す、すみません」


「謝る暇があったら足を動かせ。今川がいつ動くか分からねえんだぞ」


「はい……」


 俺は慌てて列に戻った。


 周囲の足軽たちが、くすくす笑う。


「清吉は相変わらずだな」


「槍より鍋の蓋のほうが似合うぜ」


「その細腕で誰を突くんだよ」


 笑い声に混じって、誰かが咳き込む。湿った痰を吐く音がした。


 俺は何も言い返さなかった。


 言い返せるほど、立派な足軽でもない。


 事実だからだ。


 俺は槍が下手だった。


 走るのも遅い。


 腕力もない。


 戦場に出れば、真っ先に死ぬ側の人間だと、自分でも分かっている。


 だからといって、逃げられるわけでもない。


 家には妹がいる。


 母もいる。


 父は三年前、小競り合いで死んだ。


 首がどうなったのかも分からない。ただ、「戻らなかった」という事実だけが残った。


 それから母は畑を耕し、味噌を仕込み、夜な夜な藁草履を編んで、俺と妹を育てた。


 だが去年、とうとう倒れた。


 無理をしすぎたのだ。


 だから俺は足軽になった。


 槍一本で食っていけるほどの男ではなくても、織田の軍に混ざれば、少なくとも口減らしにはなる。


 ……なるはずだった。


「止まれ!」


 弥助の声で列が止まる。


 前方には即席の槍場が作られていた。


 泥地に杭が打たれ、藁束が敵代わりに立っている。


「今川とぶつかる前に、せめて突く形くらい覚えろ!」


 足軽たちが槍を構える。


 俺も見よう見まねで構えた。


「踏み込め!」


 声と同時に、一斉に槍が出る。


 だが、俺は足を滑らせた。


 泥に草鞋を取られ、槍先がぶれる。


「あっ――」


 隣の男の槍に引っかかり、俺は派手に転んだ。


 泥水が顔に跳ねる。


 一瞬、静まり返ったあと、爆笑が起きた。


「ぎゃははは!」


「戦の前に死ぬなよ清吉!」


「おまえ敵より泥に負けてるじゃねえか!」


 俺は熱くなった顔を隠すように起き上がった。


 悔しかった。


 けれど、それ以上に情けない。


 弥助は額を押さえてため息をついた。


「……おまえ、本当に駄目だな」


「……すみません」


「もういい。おまえは槍組から外れろ」


 周囲がまた笑う。


 俺は唇を噛んだ。


「飯場へ行け。炊き出しの手伝いだ」


「……はい」


「そのへっぴり腰で前に出られるより、飯でも炊いてたほうがまだ役に立つ」


 笑い声がさらに大きくなる。


 俺は頭を下げ、その場を離れた。


 背中に刺さる視線が痛い。


 けれど、不思議と怒りはなかった。


 むしろ少しだけ安心している自分がいた。


 槍を持つより、鍋の前にいるほうが落ち着く。


 そんな自分が情けなかった。


 飯場は陣の端にあった。


 大鍋が並び、煙が立ち上っている。


 近づいた瞬間、俺は顔をしかめた。


 臭い。


 酸っぱい臭いと、生臭さ。


 湿った米と腐りかけた味噌の臭いが混ざっている。


 鍋の脇では、若い足軽が腹を押さえてうずくまっていた。


「うぇ……」


「またかよ」


「昨日の汁じゃねえのか」


 別の男が桶から水を汲む。


 だが、その水は濁っていた。


 桶の底には泥が沈んでいる。


 俺は思わず声を上げた。


「その水、煮てないんですか」


 男が怪訝そうに振り返る。


「あ?」


「いや、そのまま飲んだら腹壊します」


「戦場でそんなこと言ってられるか」


「でも――」


「飲めりゃ同じだ」


 男は笑って水を口にした。


 俺は鍋を覗き込む。


 米は芯が残っている。


 火が弱い。


 しかも蓋が半分開いていて、灰が入っていた。


 味噌樽を開ける。


 嫌な臭いがした。


 表面に白い膜が浮いている。


「……うわ」


 思わず声が漏れる。


 母なら絶対に使わない。


 この味噌は、もうかなり危ない。


 なのに、そのまま鍋へ放り込まれている。


 俺は周囲を見回した。


 誰も気にしていない。


 腹を押さえている足軽すら、


「戦場じゃこんなもんだ」


 と笑っている。


 俺は呆然とした。


 こんな飯を食って、戦うのか。


 いや、戦う前に倒れる。


 槍で刺される前に、腹で死ぬ。


 俺は鍋の前にしゃがみ込んだ。


 自然と、母の声が頭に浮かぶ。


『いいかい清吉。飯は腹に入れば同じじゃない。腹に残る飯を作るんだよ』


 母の粥は、熱かった。


 具なんてほとんど無かったのに、不思議と力が出た。


 塩加減。水加減。味噌の香り。


 それだけで、人は立ち上がれる。


 俺はゆっくり立ち上がった。


「……駄目だ、これ」


「あ?」


 近くにいた足軽が眉をひそめる。


 俺は水桶を持ち上げた。


「まず水を煮る」


「何してる」


「味噌も選り分ける。腐ってる部分は捨てないと」


「おい勝手なことを――」


 俺はもう聞いていなかった。


 鍋の火を強める。


 濁った水を一度沸かす。


 腐りかけた味噌を削ぎ落とし、まだ使える部分だけを取り分ける。


 半煮えの飯には水を足し、粥へ変える。


 近くの塩袋から少し塩を加える。


 汗をかく兵には、塩がいる。


 夢中だった。


 だから、背後に立った弥助に気づかなかった。


「……おい」


 低い声。


 振り返ると、弥助が鬼みたいな顔をしていた。


「誰が勝手にやれと言った」


 周囲の足軽たちが黙る。


 俺は慌てて立ち上がった。


「す、すみません。でも、このまま食わせたら――」


「勝手に味噌を触るな!」


「腐ってます!」


 思わず声が大きくなる。


 空気が止まった。


 弥助の目が細くなる。


「……なんだと」


 俺は喉を鳴らした。


 怖い。


 殴られるかもしれない。


 けれど、ここで黙ったら、本当に死人が出る気がした。


「この水も駄目です。飯も半煮えです。この味噌も悪くなってる」


「戦場で贅沢言うな」


「贅沢じゃありません!」


 気づけば叫んでいた。


「このまま食わせたら、明日の朝、半分は腹を壊します!」


 飯場が静まり返る。


 弥助がゆっくり俺に近づいた。


 大きな手が伸びる。


 殴られる。


 俺は反射的に目を閉じた。


 だが。


「……ほう」


 別の声がした。


 しゃがれた、年寄りの声。


 恐る恐る目を開ける。


 飯場の入口に、古参足軽の五郎兵衛が立っていた。


 白髪混じりの髷。片目に古傷。酒臭い息。


 だが、戦場帰りの獣みたいな空気を纏っている。


 五郎兵衛は鍋を覗き込み、木杓子で粥をすくった。


 一口食う。


 しばらく黙る。


 そして、ぼそりと言った。


「……腹に収まる飯だな」


 飯場の空気が、少しだけ変わった。

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