尊いですわ!
「セラフィナ、本当に申し訳ないのだが……、婚約を破棄させてはもらえないだろうか」
マクラクラン公爵家が長女、セラフィナ。彼女は定例のお茶会という、もっとも平穏であるはずの席で、長年寄り添ったジェラテリア侯爵家次男アシェスから、唐突にその言葉を投げつけられた。
「……理由を、伺っても?」
セラフィナは口をつけようとしていたティーカップを、音ひとつ立てずにソーサーへと戻した。次いで扇子を優雅に開き、表情の半分を隠す。その瞳だけは、凍てついた湖面のように静かだった。
「……申し訳ない。今の段階では、こちらの都合としか言いようがないんだ」
アシェスは視線を泳がせた。かつて愛を誓い合った瞳には、今は後ろめたさと、何かに急かされるような焦燥が混じり合っている。
「そうですか」
「慰謝料はもちろん、他家への挨拶回りや根回しも、責任を持って私のほうで行う。君に泥を塗るような真似は決してさせない。だから……」
「了承いたしましたわ」
食い気味に放たれたセラフィナの即答に、アシェスは言葉を詰まらせた。
「え……?」
「婚約破棄、承りました。この場を以て、私と貴方はただの他人ですわね。アシェス様」
彼女は立ち上がり、ドレスの裾を払った。その動作には一点の迷いも、未練の欠片も見受けられない。
「あ、ああ。……そう、だな。君ならもっと激しく詰るかと思っていたが……」
呆然とするアシェスを置き去りにし、セラフィナは出口へと歩を進める。だが、扉に手をかける直前、彼女は一度だけ足を止めた。振り返りはしない。
「一つだけ、お聞きしてもよろしいかしら?アシェス様」
「なんだろうか」
「最近、側近をお変えになりましたわよね。彼が、理由のひとつでしょうか?」
アシェスの肩が、目に見えて跳ねた。
「な、なぜそれを……。いや、彼はただの優秀な事務官だ。君との婚約破棄とは何の関係もない!」
「……アシェス様、私は」
セラフィナはそこで言葉を切り、ゆっくりと振り返った。扇子の端から覗くその瞳は、先ほどまでの氷のような冷徹さとは裏腹に、獲物を見つけた猛禽類のような、あるいは禁断の聖典を読み解く賢者のような、異様な熱を帯びていた。
「私は、貴方の幸せを一番に願っておりますのよ? ……『ルヴァ』様と、末永くお幸せに」
アシェスの顔から血の気が引いた。
ルヴァ。それは、彼が最近「事務官」として傍に置いた、平民出身の美青年。隠し通せていたはずの、胸に秘めた切実な恋情。
「な、なぜ……その名を……。い、いや、彼とは本当に、主従の……」
「主従、結構ですわ。むしろ、そこからしか得られない栄養素がございますもの。……ふふ、あの日、執務室の影で貴方が彼のネクタイを整え、彼が耳まで赤くして俯いていたあの一幕。……あれは、至高の『公式供給』でしたわ」
アシェスは絶句した。
婚約者は、裏切りに嘆いているのではない。あの日、自分が必死に隠したつもりだった「情事の一歩手前」を、特等席で鑑賞し、あまつさえ「栄養」に変換していたというのか。
「アシェス様、勘違いしないでくださいませ。私が冷淡に婚約破棄を受け入れたのは、貴方を愛していなかったからではありません。……貴方と彼が並んでいる姿が、あまりにも『完成』されていたからです。そこに私が割り込むなど、無粋の極み。物語の冒涜ですわ」
セラフィナは恍惚とした表情で、そっと胸元に手を当てた。
「あの完璧な光景に、私は泥を塗りたくなかっただけ。さあ、慰謝料の話は忘れてくださって結構です。その代わり……今後、閨を行う際、私を手短なクローゼットに潜ませていただけませんか?」
「な、何を言って……!?」
「あるいは、天井裏でも構いませんわ。もちろん隠密術も、息を殺す訓練も積んでおります。ああ、身分差ゆえの苦悩、主従のしがらみ、そして禁断の愛……! 素晴らしい。この世の真理がそこにある。アシェス様、あなたは私の『光』なのです」
「セラフィナ、正気に戻れ! 君は公爵令嬢なんだぞ!」
アシェスの叫びは空しく響いた。セラフィナはすでに自分の世界に没入している。
彼女は流れるような動作で懐から一冊の手帳を取り出すと、猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。
「待ってください、今の『正気に戻れ』という台詞、いいですわね……。攻め側の苦悩と、受け入れがたい現実への逃避。メモしておかなくては。……あ、それでアシェス様、ルヴァ様との初夜の予定はいつかしら? スケジュールを調整いたしますので」
「……ない! そんな予定はないし、君を呼ぶわけがないだろう!」
「じゃあ破棄しませんわよ? アシェス様と婚姻を結べば、最も近くで貴方がたを観察出来ますもの。正妻という名の特等席、あるいは壁。悪くないわ……」
「狂っている……。君は、そんな女だったのか……っ!」
アシェスは戦慄し、後ずさった。かつて愛した淑女の皮を被った、深淵を覗く怪物がそこにいた。




