第四章:逃げ場のない関係
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第四章:逃げ場のない関係
通話が切れたあとも、しばらくその場から動けなかった。
夜のざわめきが遠くに感じる。
さっきの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『見えてるから』
意味が分からない。
でも――分かりたくもない。
(……帰るしかない)
逃げ場なんて、最初からない。
重い足取りで家へ向かう。
* * *
玄関の前に立つ。
ドアの向こうに、美咲がいる。
それだけで、呼吸が浅くなる。
鍵を差し込み、回す。
カチ、と小さな音がやけに大きく響いた。
「……ただいま」
返事はない。
静かすぎる。
リビングに入ると、電気はついていた。
だが、人の気配がない。
「美咲?」
名前を呼ぶ。
その瞬間――
「おかえり」
背後から声がした。
心臓が跳ねる。
振り向くと、そこに立っていた。
美咲が。
「……っ」
「どうしたの?そんな顔して」
いつもの笑顔。
でも、どこか違う。
温度がない。
「いや……別に」
「そう?」
美咲はゆっくりと近づいてくる。
一歩ずつ。
距離が縮まる。
逃げ場がない。
「今日はどこにいたの?」
穏やかな声。
だが、その目は逸らさない。
「仕事だよ」
反射的に答える。
もう、癖になっている。
嘘をつくことが。
「へぇ」
美咲は小さく頷いた。
「どこの?」
「……会社」
「違うよね」
一瞬で否定された。
言葉が詰まる。
「ねえ」
美咲がさらに近づく。
「その嘘、いつまで続けるの?」
空気が張り詰める。
「何のことだよ」
「本気で言ってる?」
その声には、もう優しさはなかった。
「全部、知ってるよ」
心臓が止まったような感覚。
「……何を」
「誰と会ってたか」
息ができない。
「どこにいたか」
逃げられない。
「何を話してたか」
完全に、囲まれている。
「……嘘だ」
かろうじて絞り出した言葉。
美咲は、静かに笑った。
「じゃあ、これ見せようか」
そう言って取り出したのは――スマホ。
画面をこちらに向ける。
そこに映っていたのは。
――俺と理奈。
バーのカウンターで、向かい合っている姿。
はっきりと分かる。
言い逃れできない。
「……なんで」
声が震える。
「どうしてこんなの」
「簡単だよ」
美咲はあっさり言った。
「見てたから」
頭が追いつかない。
「どこから……?」
「全部」
その一言で、背筋が凍る。
「最初から?」
「うん」
笑顔のまま、頷く。
「あなたがあの店に入るところも、出てくるところも」
呼吸が荒くなる。
理解したくない現実が、目の前にある。
「……なんでそんなこと」
「決まってるじゃない」
美咲の笑みが、わずかに歪む。
「あなたが信用できないから」
その言葉は、あまりにも冷たかった。
だが、それだけじゃない。
「それに――」
一歩、距離を詰める。
逃げられない。
「監視してないと、不安でしょ?」
「……は?」
「だってあなた」
耳元で囁かれる。
「また“同じこと”するかもしれないじゃない」
心臓が止まりそうになる。
その言葉。
その意味。
それは――
「知ってるよ」
美咲が、ゆっくりと顔を離す。
「三年前のこと」
終わったはずの過去が、完全に目の前に引きずり出された。
「……誰から聞いた」
「誰でもいいでしょ」
「よくない!」
思わず声を荒げる。
だが、美咲は微動だにしない。
「ねえ」
静かな声。
「離婚したい?」
その問いに、言葉が詰まる。
したい。
でも――できない。
「できないよね」
即座に言い当てられる。
「だって、あれがあるもんね」
その“あれ”が何を指すのか。
分からないはずがない。
「私が黙ってる限り、あなたは自由でいられる」
ぞっとする。
「でも、逆に言えば――」
微笑む。
「私が話せば、全部終わる」
完全な支配だった。
逃げ場はない。
選択肢もない。
ただ一つ。
この関係に、縛られるしかない。
「だから」
美咲は優しく言う。
「ちゃんと、いい夫でいてね」
その言葉が、何よりも恐ろしかった。
愛でもない。
信頼でもない。
ただの――拘束。
俺は、ようやく理解した。
この結婚はもう、
壊れているんじゃない。
閉じ込められているんだと。
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