第二章:優しさの条件
結婚には、いろんな形があります。
愛で結ばれるもの。
時間で育つもの。
そして――条件で始まるもの。
「一年以内に子供ができなかったら、離婚する」
それは軽い冗談だったのか。
それとも、最初から終わりを用意した約束だったのか。
あの言葉は、ただの過去ではありません。
今の関係を静かに蝕み続けている“違和感”です。
今回は、その違和感に初めて触れる章。
どうして、あの時そんなことを言ったのか。
そして――どうして、今になっても終わらないのか。
その答えの一端が、ここにあります。
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男の一言
「一年ってさ……短すぎるよな。
試すには、ちょっと残酷なくらいに」
第二章:優しさの条件
その言葉を、ずっと忘れたことがなかった。
忘れようとはしていた。
でも、消えることはなかった。
ふとした瞬間に、思い出す。
そして、そのたびに胸の奥が少しだけざらつく。
* * *
「……ねえ」
その夜、俺は珍しく口を開いた。
リビング。
テレビの音だけが流れている。
奈緒はソファに座り、スマホを見ていた。
「ん?」
視線を上げる。
「どうしたの?」
いつも通りの声。
優しくて、距離のある声。
「ちょっと、いいか」
「うん」
奈緒はスマホを置いた。
その仕草が、少しだけ他人行儀に見える。
* * *
「……あのさ」
言葉が詰まる。
こんなに話すのが難しかったかと思う。
でも、逃げたくなかった。
「昔の話なんだけど」
「昔?」
「ああ」
奈緒は少しだけ首を傾げる。
何を言われるのか、分からない顔。
それが、少しだけ怖い。
「結婚する前にさ」
「うん」
「言ったこと、覚えてるか」
奈緒の表情が、わずかに固まる。
ほんの一瞬。
でも、見逃さなかった。
「……何のこと?」
分かってるくせに。
でも、責める気にはなれない。
「一年以内にさ」
ゆっくりと言う。
「子供ができなかったら、離婚するって」
静寂が落ちた。
テレビの音だけが、やけに遠く感じる。
* * *
「……ああ」
奈緒が、小さく息を吐く。
「言ったね」
あっさりだった。
まるで、大したことじゃないみたいに。
「覚えてたんだ」
「忘れるわけないだろ」
苦笑する。
「俺、あれ結構……本気で考えてたから」
言葉にして、初めて気づく。
自分がどれだけ、それを抱えていたのか。
* * *
「……ごめん」
奈緒が言う。
でも、その“ごめん”は軽かった。
昔の話に対する、形式的なもの。
「いや、責めてるわけじゃない」
「うん」
「たださ」
少しだけ息を整える。
「なんで、あんなこと言ったのかなって」
ずっと引っかかっていた疑問。
やっと、口に出せた。
* * *
奈緒は少しだけ考えるように目を伏せた。
そして――
「怖かったから」
そう言った。
「……何が」
「結婚が」
予想外の答えだった。
「ちゃんと続くのか分からなかったし、
自分が変わらない保証もなかった」
静かな声。
でも、嘘じゃないのが分かる。
「だから、条件つけたの」
「条件……」
「理由があれば、終われるでしょ?」
その言葉に、胸が少しだけ痛む。
* * *
「じゃあさ」
思わず聞いていた。
「今は?」
「え?」
「今のこれは」
この関係。
終わりかけている、この状態。
「条件、満たしてるからなのか?」
子供はいない。
一年は、とっくに過ぎている。
あの言葉の通りなら――
今が“終わり”のはずだ。
* * *
「……どうだろうね」
奈緒は曖昧に笑う。
「正直、もう条件とか関係ないよ」
あっさりとした否定。
「じゃあ、なんで」
そこまで言って、止まる。
答えは分かっている。
でも、聞きたかった。
「なんで、離婚したいって言ったんだ」
奈緒は、少しだけ視線を逸らした。
そして――
「好きな人ができたから」
はっきりと言った。
迷いはなかった。
* * *
分かっていた。
でも、実際に聞くと違う。
胸の奥に、何かが落ちる。
重くて、冷たいもの。
「……そっか」
それしか言えなかった。
* * *
「でも」
奈緒が続ける。
「あなたのせいじゃないよ」
その言葉が、一番きつかった。
「優しかったし、ちゃんとしてたし」
「……やめてくれ」
思わず遮る。
「そういうの、いらない」
初めて、少しだけ強く言った。
奈緒が驚いた顔をする。
* * *
「俺さ」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「優しくしてたつもりだったけど」
自嘲気味に笑う。
「それ、ただ逃げてただけかもしれないな」
奈緒は何も言わない。
「嫌われたくなくて、何も言わなくて」
「……」
「気づかないふりして」
全部、分かってたのに。
* * *
「ねえ」
奈緒が小さく言う。
「じゃあ、どうするの?」
その問いは、静かだった。
でも、重かった。
* * *
離婚届は、まだ引き出しの中にある。
出せば終わる。
出さなければ、続く。
でも――
(もう、気づいちゃったからな)
このままじゃダメだって。
やっと、言葉にしたから。
* * *
「……少しだけ」
顔を上げる。
「考えさせてくれ」
奈緒は、静かに頷いた。
「うん」
それだけだった。
でも――
今までより、少しだけ距離が縮まった気がした。
壊れるために。
ちゃんと終わるために。
第二章を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は「過去の言葉」がテーマでした。
人は、何気なく言った一言でも、
相手にとってはずっと残り続けることがあります。
今回の「一年以内に子供ができなかったら離婚」という言葉も、
当人にとっては“保険”や“逃げ道”だったのかもしれません。
しかし受け取った側にとっては、
それは“期限付きの関係”として心に残ってしまう。
そして時間が経った今、その言葉が形を変えて――
現実の「離婚」という形で浮かび上がってきています。
優しさで続けてきた関係が、
少しずつ言葉によって壊れ始める。
ここから物語は、さらに踏み込んでいきます。
次章では、
奈緒の本音、あるいはもう一人の存在が、
よりはっきりと描かれていく予定です。
引き続き、よろしくお願いいたします。
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登場人物
■ 相沢 恒一
本作の主人公。
優しさゆえに離婚を決断できない男。
これまで「気づかないふり」をしてきたが、
過去の言葉をきっかけに、初めて違和感と向き合い始める。
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■ 相沢 奈緒
主人公の妻。
結婚前に「一年以内に子供ができなければ離婚」と口にした張本人。
現在は別の男性に想いを寄せており、離婚を望んでいるが、
どこか踏み切れない曖昧さも抱えている。
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■ 謎の男
奈緒の想い人。
まだ詳細は不明だが、すでに二人の関係に影響を与えている存在。
今後、物語の均衡を大きく崩す可能性を持つ。




