第七章 仮面と信じられるもの
エミリとの別れ、大学で再び会う風はるか・・
彼女は何かとヒロシに付きまとうのであった。
1983年3月末・・ヒロシは静岡の倒れそうなボロアパートにいた。無論だが、最初の人生の時と同じ場所であり同じ部屋だ。マルコ荘103号室。
四畳半の畳部屋に押入れが一つと吊られた棚一つ、狭い流し台が1基に、プロパンのガス台だけ・・そこに新聞店で使っていた机と椅子に、フォークギターがあるだけだ。
テレビも冷蔵庫もトースターもない・・何もない部屋に、周囲は茶畑だけで、夜は恐ろしいほど静かで暗かった。遥か遠くで騒ぐ学生の声が偶に聞こえるぐらいだ。
貧乏で・・それがヒロシの本来の生活だった。
食べるにも困っていたこの時期に、大学生である事が間違いではないか?そうも考えられるほど貧しかった。だが、ここから流れる人生の鼓動に合わせて生き抜いた。紛れもなく・・最初の人生だった。
自分の選択を曲げ奔走した過去・・最終的には何も無くなって、最初にリセットされた。結果だった。
そんな何もなく、静かで娯楽もない若者には退屈な街で最初の人生をまた一歩踏み出すヒロシだった。
「そうだった・・ここには何も無かったよな。淋しさと孤独感で、よく恵美を思い出し手紙を書いてた」
ヒロシは寒いので、布団に包まりながら、入学の後のカリュキュラムを考えていた。
「そう言えば・・エミリは元気かな?凄く悲しい別れだった。俺・・結局のところ本当に高校生に恋してたんだな。はあ・・今思えば惜しかったな。別にここなら遠距離恋愛だってできたろうしね。・・ああっ!いかん!忘れなきゃ!夢だった・・そう思うのがいい」
そんな事をここに来てから幾度か考えていた。
あの日、ヒロシが去った東京駅ホーム・・
ヒロシと別れた駅のホームでエミリは泣き崩れた。
最後の別れで悲しみの淵にいた。
だが・・・エミリは涙を手で拭くとすくっと立ち上がり、何も無かったように歩き出した。
夜空を見つめて歩くエミリがいた・・
その顔には笑みがあった。仮面?だったのか?
そんな事も知らずにヒロシは、3月31日に駅前の居酒屋に向かいバイトの面接を受けたのだった。
「じゃあ!谷君、明日からよろしく頼むよ。夜の7時くらいから2時間くらいが忙しいから、遅刻だけしてないようにね。時給は550円からね」
店長にある程度の話を聞き、過去に自分が面接を受けた時と同じだと即座に感じるのであった。
「店長!明日からよろしくお願いします」
ヒロシがアパートに帰ると、部屋の前に荷物が置いてあった。
「うん?母さんか・・」
部屋で箱を開けると、米や野菜など生活必需品が満載されていた。
「ありがたい・・」ヒロシはそう思い実家に電話をしてお礼を伝えるのだった。
米を実家から持ってきた米袋に移し替え、野菜は傷まないように流しの下の陽の当たらない場所にストックしたのだった。
「電気釜だけは買わないとな。炊けないや。・・ん?これはなんだ?」
ヒロシは箱の底にある紙を見つけた。
「これって俺のメモ書きの束だ。しかも高校生時に使っていたノートの切れっ端・・野菜梱包のクッションか?まあ・・ゴミだな」
そういい箱底にある紙の束を、ゴミ箱代わりの段ボールに入れた。だが・・突然、ある文字が見え気になり拾い上げた。
それは授業中に書いたであろう文章であった。
(12月某日。恵美が俺にもう一度付き合いたいと言ってきた。・・今でも好きだけど、今更と思う。だからもう好きじゃない・・そう伝えた)
ヒロシは恵美という文字が気になって拾い上げたのだった。その自分で書いた文章に驚きの事柄書いてあった。この時ではありえない事だった。
(いつか・・恵美とバス停で会ったら、おお!って答えよう。笑えないかもしれないけど、挨拶してバスに乗ろう。出来れば好きな歌でも2人で小声で歌って、体を寄せ合い一緒に眠ろう・・きっと幸せな気分になるだろう・・そして又君に好きだと言えたらいいなぁ。時間は流れる・・俺と恵美に平等にね。だからきっと俺も君も心にある蟠りが無くなっていたら、2人で歩いて行きたい)
ヒロシは自分が自分で予言していたことに驚いた。
しかしながら、このストーリーは第三の人生時に起こる事であり、本来の人生では起きない。
「・・今の自分には無意味なメモだな。この現世でこうあるべきであり、バスでのことは木村先生に会う日に起きなくてはならない事だったから。今となっては意味がない」そんな事を思った。
だがヒロシはふと考えた。
(待てよ・・お互いに平等な時間経過であれば、恵美も現世で普通に時間が流れているのに、彼女は地元で就職もせず、お見合いもしていない。明らかに恵美の人生経過に歪みが生じた。)
恵美が本来の第一の人生を進まずに、逆行した形で進んでいることに、自らに起きている変わった事象が、恵美自身にも起こっているのではないか?ヒロシはそう思うのであった。
ヒロシは一度捨てた紙の束を拾い戻し確認し始めた。
殆どは当時感じていた事や、季節を感じながら作った歌詞のメモだった。だがその中に、卒業式の前の日に書いたメモがあった。
(あゝ、明日は卒業式だ。俺は春から都内の大学に行く。家を離れ一人で生きていく。心残りは恵美との事だ。最後まで恵美に正直な自分の気持ちを言えなかった。それが心残りだ。だから最後の一幕は俺の心を卒業式の答辞に潜り込ませた。きっと・・恵美だけが分かるようにね!バレるかなぁ?みんなに・・でもいいや、これも生徒会役員の俺の特権だ!)
「そうか・・確かにそうだった。俺は過去に例を見ない程の内容で答辞を作成したんだった。同級生や下級生に先生たちへの御礼が殆どだったけど、後半に俺はキーワードを入れて答辞を述べたよな。どんな内容だっけ?なんか覚えていないな?」
ヒロシはそう言いながら更に、メモを書いた紙の束を見ていった。
「あゝ!これだ。下書きが残ってる・・どれどれ」
ヒロシが作成した答辞の下書きは、前半はいわゆる一般的な内容だったが、後半の三分の一にキーワードを入れていたのだった。
(ここにいる皆が巣立ち、それぞれの運命的な事に出会いながら生きていくでしょう。茜に彩られる雲と嵐の山々で恵みと美しい人との出会いと別れに、立ち向かい、十の暑さと九つの惑わされた別世界で愛を取り戻すでしょう。別れは出会う為であり、別れは再び会う為の心残りと奇跡だからです。・・中略・・今日ここを旅立ち、皆さん!またお会いしましょう。
卒業生代表 谷ヒロシ
ヒロシは我ながら良い文章を考えたと思った。
「そう言うことか・・」
ヒロシは気づいた。卒業式の日に恵美がなぜ途中で居なくなり、東京に就職したかを。
「俺を・・追っていたな。あの時はそんなつもりで答辞を考えたわけはなかったけど、結果的には互いの勘違いで、この現世ですれ違ったんだ。そっか、俺がまともに大学辞めずに東京に居たら、恵美がきっと来てくれたんだ。・・でも遅かった。今これに気づいても、この次元では恵美と俺に大きな距離が生まれた・・もう探しようもない」
彼にとって現世から恵美とはほんとに縁がないと思うのだった。恋愛物語にはよくあるケースだけど、自分に今起きている事にガッカリしたのだった。
「でも・・一度だけ聞けた声・・それに、もしかしたら例の“風はるか”のコンサート会場に恵美が来るかもだよな?まだ見込みあるかもしれない・・」
ボロアパートでは、無論だが最初の人生同様に同級生たちが部屋に集まり、夜な夜なくだらない話を語り明かすのだった。
そして運命を作った、井上と浅井ともここで出会う。
井上は最初の人生で将来の伴侶となるサユリとの出会いを演出した。浅井は堕落のスタートである、賭け事に誘ってきた友人である。
ヒロシはこの出会いや出来事に逆らう事はせず、流れに任せることとした。それが歪んだ次元を戻せるからと信じていたのだった。
4月中旬、ヒロシが講義を終えアパートに帰ろうとした時、ある人集りが見えた。
その中に入っていくと、混乱の要因は“風はるか”・・であった。
大学の噴水の縁でなぜかサイン会をしていた。
「押さないで下さいね。ちゃんとサインしますので」
そう丁寧に笑顔で話す風はるかにヒロシは少々の違和感を感じた。ひと月前に入試試験の時とは雲泥の差であった。表情も言葉遣いも・・
握手などもしたりで、ファンに対し丁重に対応しているのだった。
(あの子?本当に同じ人?別人だわ・・あれは)
ヒロシには特に興味がない事だったので、その場所をスルーしようといそぎ足で歩き始めた。
しかしその時「ねえ!Hiroshi Tani!無視なの!」
急に彼女が大声でヒロシに向かって叫んだ。
ヒロシはここで“風はるか”に関われば、ごまんと居るファンたちの恰好の餌食になると思い、走って逃げようとした。
だがそこに・・何かが飛んできてヒロシの後頭部にあたった。「痛っ!う・・」そう言いうずくまってしまうヒロシだった。彼女は裸足の片足で器用に走ってきて言うのであった。
「ちょっと・・逃げるからだよ!」
そう言いながら彼女はヒロシの側にきてヒールを拾い履き言うのであった。
「ちょっと!痛いじゃないですか!」
そうヒロシが睨もうとしたが、彼女はヒロシの後頭部に手を充て、そっと撫で言うにであった。
「べ、別にい〜悪気はないわ!私から逃げようとするから頭に来て、ヒールを投げて君を止めただけ!」
ヒロシは無論だが・・思い出していたのだった。第三の人生で起きた、恵美との再開時に彼女が投げたヒールの痛みと抱きかかえられた時の胸の膨らみ・・
なんだなんだと2人の周りに人が集まってきて、ヒロシは逃げたい気分満タンであったが、“風はるか”がヒロシのバックの紐をしっかりと握りながら絶対に離さなかったのである。
「君!ここは場所が悪るそうだわ!こっちに!」
そう言いヒロシを引っ張り、自分の送迎用ワゴン車に乗せてしまった。これを見ていたファン達は大騒ぎをして、車を囲んだが、車の窓は黒いスモークが貼られており、しかもカーテンまで布れていたので、中の様子は全く見えなかった。
「ちょっと困ります。こんな群衆のなか僕を車の中に拉致して!どう言うつもりですか?!」
ヒロシは“風はるか”の傲慢な行動に怒りを感じていた。
「あのね君!て言うか、Hiroshi Tani君・・よく聞いて!」
「な、何ですか!殴ろうと思ってるんですか?」
「まさか。君が私を無視して逃げたからだよ。拉致した訳じゃないわ。話したいから、あそこで待っていたら人集りになって・・仕方ないからサイン会してた」
「俺を待っていたんですか?」
「そうだよ」
“風はるか”に見つめられヒロシはかなりドキマギした。ブルーのトレーナーにミニのタイトなスカート。それに高いピンヒールを履いて、いかにもアイドルスターであった。
「なんだか、貴方ってファンの前と僕の前で態度が一変しますよね?相当にギャップがあります」
「そりゃそうでしょう!人気商売だもの、ファンの前では、妖精のようなアイドルだよ。でも君と会う時は地の私になるわ。なんか、おかしい?」
ヒロシにとっては、入試の時から厄介な人ではあったが、この次元では彼女が何故か遠いアイドルスターと言うよりも、同郷の友人のように思うのだった。
「ねえ!私のチケット買ってくれた?中野サンプラザの?」
「えっ!・・何でその事を知っているんですか?」
「だって、私が招待したから、あのお金で買ってくれたかなあって」
「まさか・・恵美にお金渡したのは貴方なんですか?」
「そうだよ。直接の接点は無いから、彼女に頼んで渡してもらったよ。で、買った?」
「ああ・・買いましたよ!恵美が来るかも?って思って・・ダメですか?というか?恵美とはどんな関係なんですか?親しいいですか?今はどこに居るんですか?」ヒロシは矢継ぎ早に質問をしたのだった。
「まあ・・焦らない。嵐山は私のマネージャーよ。もう1年以上になるわ。高校出て直ぐに私の事務所にやってきて、“風はるか”のマネージャーにさせて下さい!って言って社長に直談判したわ。で、今も私のマネージャーなの。でもここには居ないわ残念だけど。私のプライベートには付き添わないの?で、運転席にいるのがプライベートマネージャーの飯田さんよ。大学の送り迎えや実家に用がある時は彼に頼むの」
ヒロシは正直、ガッカリしたのだった。この“風はるか”とある程度だが仲良くしていれば、どこかで恵美に会えると思ったからだ。
「こうなったら貴方のコンサートに行って恵美に会わなきゃ!それしか無い!」
「どうして彼女に会いたいの?私だと役不足ってこと?私の方が可愛いし、スタイルも良いけど?」
「・・会って少しだけ蟠りをとりたいんんです。過去に申し訳ない事してしまって・・」
「あゝ・・付き合っていて、振ったとか?」
「まあ・・そんなところです。彼女は何も悪くはなかった。でも、その時は少し自分が傲慢だったし、上から目線だったかもしれません」
「まあ良くある事だわ。で、反省して彼女に謝ろうって事?・・まだ好きなんだ、嵐山のこと?」
「ダメですか?別にいいじゃないですか。」
“風はるか”はヒロシを見つめて言うのであった。
「いい君!嵐山はお見合いしたわ。いい人らしいわ。きっと良縁だと思うの。彼女もあと一年位で事務所を辞めて、地元に帰るかも・・だから諦めな!君たち2人には濃い縁が無かったの。赤い糸は繋がっていなかった。そう思うのが自然よ」
ヒロシは薄笑いをして膝を叩いた。
「ええ、分かっていますよ、言われなくとも。彼女にあの日に別れを告げた時から僕達の縁は切れた・・そう思っています」
「じゃあいいじゃない!会わなくても?会ったらまた忘れぬようになって、長く長ーく心の中に住み続けるよ!一生苦しむと思うわ」
ヒロシには彼女の言葉が刺さっていた。最初の人生でそうであった・・。恵美を忘れずきれず、歳を取るまで彼女の笑顔が頭から離れず、本当の恋をする事は無かった。それがこの物語の始まりでもあった。
「そうですよね・・恵美だってきっと恨んでるだろうし。今更ですよね」
「恨みか・・良くは分からないけど、好きだったのなら諦めて幸せを祈ったら?」
「うん・・そうします」
ヒロシは諦めようとしたが、どこかで踏ん切りがつかなかったが、彼女の話を聞き、どこか納得するのであった。
「ところで・・なぜですか?・・僕をコンサートに呼ぶんです。僕はアイドルの曲など聞きませんし、申し訳ないけど興味がありません。なのに、あなたのコンサートに?意味がわかりません!」
ヒロシは疑問を彼女にぶつけてみたのだった。
「ん・・どこが!違うのか?君にアドバイスが欲しいの。来月のライブはテレビでは放送されていない私のオリジナルを歌うの。無論だけど、私の作詞作曲よ!」“風はるか”はそんな不思議な事を言った。
「アドバイス・・?」
「そうよ!Hirodhi Taniに私の曲を聴いてもらって、私がシンガーソングライターに踏み切れないか?のアドバイスが欲しい!私はアイドルでは終わりたくない!でもね、自分の曲や詩に納得がいかない。君が作った茜色が私を追い詰めるわ。だから・・君にはっきりとダメな部分を教えて貰いたいの!それが招待した理由だよ。その日をカップル席にしたのは、そのシュチュエーションをもとにした楽曲を披露するからよ!だからお願い来てくれるよね!」
ヒロシは正直なところ、高校卒業からは音楽からは離れており、曲作りもしていなかった。そんな自分がプロに何をアドバイスするのか?不安になった。
「すみません・・今の僕はこんな状況で、あなたみたいなスターにアドバイスなんて畏れ多いです。それに僕の音楽は人に教えをするものではないんです。僕だけが持つ心の痛みだったり、その時のふとした心境を楽譜にしているだけですから。僕の音は僕のもので、人にアドバイスするような体それたものではありません」
ヒロシは正直な気持ちで彼女に断りを伝えるのであった。
「それ!それなんだ!その人生観のフレーズが、私には掴めないんだよ。心の痛みとか、心から人を想う気持ちを楽譜にする・・そこなんだわ。だからお願い・・一度でいいから私の曲を聴いてアドバイスちょうだい」
“風はるか”はそう言いながら手のひらを合わせ、ヒロシに頼むのであった。
「あなたの歌を聴いてアドバイスを一度だけですか?・・まあ、お金を出したのもあなたですし、良い返事をしないとここから出して貰えそうもないから・・仕方ないです。分かりました。コンサートには行きますし、アドバイスもします。でも・・約束して下さい。これ切っきりって!お願いします」
彼女は微笑み「良かった・・断られたらどうしようか?って思っていたわ。本当よかった」
ヒロシは不思議な約束をして、ワゴン車を飛び降りダッシュで逃げたのだった。
不意を突かれたファンもヒロシの逃亡を察知できず、ヒロシを逃してしまった。
5月5日祝日・・
ヒロシは静岡駅に立っていた。
仕方がない前述のように“風はるか”のコンサートに行く事になっていた。
「はー・・なんか気が向かないな・・。行ったところで周りはカップルだし、彼女のうたのアドバイスまでしないといけない・・憂鬱だ」
ヒロシは小さなカバンに朝に炊いたご飯でおにぎりを持参していた。他には財布とチケットにハンカチくらいだった。
こよなくして上り電車が到着し、ヒロシは乗り込み、ボックス席に一人座った。
「始発ということもあり、乗る人は少なくヒロシは電車内で寛いだ。
おにぎりを食べ、ホームで買ったお茶を飲み、暫く外を眺めていた。だが日々の講義にバイトで睡眠不足であった為、いつしか居眠りをし始めた。
電車はコトコトと揺れ、ヒロシの眠気を更に加速させた。
どの辺りだったろうか、ヒロシの横に誰かが座り外を眺めながらヒロシの顔も眺めていた。
その乗客も眠気に誘われ、いつしか居眠りを始めた。
5月の晴れ間で心地よい天候であった。寒くもなく、暑くもなく春眠暁を覚えずだった。
特急電車の待合せのため次の駅で待合せらしく、線路切り替えがあり電車が大きく揺れた。
(ゴツんっ!)
「あ痛っ!・・あゝすみません!居眠りしていて・・気付かず頭がぶつかりました。悪気はありません!本当にごめんなさい・・・ん?・・う?・・えっ?」
ヒロシは謝りながら顔をあげ、我が目を疑う光景が見えた。(あり得ない・・夢だ。)
ヒロシはそう言いながら自分の頬を両手で叩いた。
(痛い・・夢ではない)
横に居眠りしていたのは、恋焦がれていた恵美だった。正に信じられない事であった。
彼女はヒロシと頭をぶつけても目も覚さず、イヤホンをして頭を通路側に倒して眠っていた。
(・・いったいどうなってるんだ。ここに恵美が居るなんて。でも・・やっぱり夢だ。こんな・・美人、俺の元カノってことあり得ない。それに白い肌に細身のジーンズ・・夢以外考えられない・・)
ヒロシはそんな事を恵美を眺めながら思うのであった。どれくらいの時間が経ったであろうか?ヒロシは恵美を見ながらまた眠っていた。
どこかの駅でたくさんの乗客が乗り込んできて、ヒロシはハッと思い目を覚ました。
「・・恵美?恵美がいない」
さっきまで隣に座って眠っていた筈の彼女は消えていた。ヒロシはガッカリし、彼女が座っていただろう席のシートに手を充てた。
「・・ん?暖かい。まるでさっきまで誰かが座っていたみたいだ」
ヒロシは突然立ち上がり電車を降りようとした。だが、出口に手をかけた瞬間にドアは閉まった。
彼は走り出す電車の窓からホームを覗き、恵美を探していた。
「・・やっぱり夢だったのか?・・妙にリアルだったけど。・・?」
走り出しゆっくりと走る電車。
その時だった・・
「恵美?」
ホームの最後尾に立つ彼女が見えた。
彼女はヒロシを見つけ、にっこりと笑みを浮かべた。
まるであの時のバス停留所で遭った時のように。
ヒロシは窓にへばり付き、その光景を見たのだった。
ヒロシはいつまでもいつまで・・駅のホームを目で追っていた。小さくなる恵美の姿・・会えないと思った彼女が見えた瞬間、夢でなかったと気づき涙が溢れ出た。周囲の人の目も気にせずヒロシは泣くのであった。まるで子供のように・・
その15分前・・
ヒロシは恵美の肩に頭を乗せ眠っていた。
「・・ヒロ君、ご無沙汰です。私は・・会えて嬉しい。ヒロ君がこんなにボロボロになっても、頑張る姿見れて・・私うれしい」
彼女は小さな声でそう呟いた。
恵美は自分の頭をヒロシの頭に寄せ、暫く目を閉じ何かを噛み締めていた。
彼女はそっとヒロシのカッターシャツのポケットにメモを忍ばせた。
「もう少し・・もう少しだけ、大人になるまで」
そう言いながら、ヒロシの隣の席を立ったのであった。駅に着きヒロシがきっと目を覚ますだろうと思っていた彼女は、駅のホームに立ち、ヒロシが気づいてくれる事を願ったのだった。
(あゝ・・気付いてくれた!ヒロ君!ヒロ君!私の大好きなヒロ君・・一度きりの人生だからね!もっと先に居る私に気付いて!)
そう心に思いじっとヒロシを見つめるのであった。
電車は品川駅に着きヒロシは肩を落としながらも、中野駅に向かうのだった。
当然だがヒロシの心情は計り知れない程であり、コンサートに行くような心持ちではなかった。
中野駅に着き改札を出ると、そこから多くの人がごった返していた。ほぼ・・“風はるか”のファンであろう事が分かるのであった。
「すごい人だ。彼女ってこんな人気あるんだ。」
会場に着くとカップル席S席5番に座るヒロシは、
「へー!こんな前の席!ステージ際だ」
驚いたのは無論だが、それよりも周囲の席がカップルばかりだった。
ヒロシはこんな席に俺一人かと、少し意気消沈するのであった。ヒロシはパンフレットをあらためて見、“風はるか”のプロフィール等を読んだが、気になったのはプロフィールではなく、今日の前半が<はるかが選ぶ新鋭の歌手のLove Songコンサート>だった。
「なるほど・・それでカップル席か・・」
ヒロシはやっと意味を理解した。
一人目は中学生くらいかもしれない女の子であった。
「う〜ん。いい声だな。曲調も俺好みだ。・・だけど、後半のキーボード音が邪魔だ。もっと優しくピアノで編曲した方・・?えっ?・・ちょっと・・」
その時一人の女性が座ってきた。
「おまた・・遅くなってごめん!」
そう小声で言うのは、“風はるか”本人だった。
化粧もしておらず、トレーナーにダブダブのジーンズを履き、深くキャップを被っていた。
「えっ!ここに居ていいんですか?ステージでは?」
ヒロシは目が点となり、周りに気づかれるのではないか?と体を伏せるように小声で話すのだった。
彼女は「まあ、新人の歌聞いてよ!まずは!」
「それでどう?彼女の歌は?」
ヒロシは度肝を抜かれたが、バレないように更に小声で話すのであった。
「ん・・まあ・・曲も良いし声もいい。だけど欲を言えば、後半のくだりですね・・」
「どう言う感じ?」
「前半と後半のキーとコードが同じです。・・あれじゃ面白くないです。8小節目と9小節目に変化が欲しいですね。例えば・・フラットにしてm7からCmみたいに変化を出せば、聞いていて飽きなく心地よくて、気付いたら終わってるみたいな・・」
その話を聞いていた“風はるか”は、
「なるほど・・気付かなかったな。それなら独特のリフになるわね。さすがだわ。Hiroshi Tani!」
二人を見ていた数人のカップルがざわめき出したが、ヒロシと彼女は気が付かず、顔を寄せ合い会話をしていた。
その時に一人のファンが「あれって、うちの大学の谷じゃない?特待生候補の・・あいつがここに居ると言うことは、隣の女性はもしかすると・・」
その男性はヒロシの大学の先輩であり、“風はるか”の大ファンでもあった。
彼女がヒロシをワゴン車に乗せ会話をしていたのを見ていたのだった。無論、面白くはなかった。
「はるか!」その男性は小声で呼んだのだった。
しかし振り向きもせず、ひたすらヒロシと話をしていたのだった。
「・・なんだ人違いか?他人の空似っていうことかな?席に座ってるわけないしね!」
男性は完全な人違いだと思い、その後は無視していた。
「ねえ!君は音楽しないの?センス抜群なのに・・まったく勿体無いわ。恵美のお尻ばかり追ってないで、本格的に音楽始めれば?」
ヒロシは彼女の話を聞くも、乗る気ではなかった。最終的には音楽プロデューサーとして60歳を迎えた次元だったけど、ここに戻った以上もう音楽家ではない・・単なるグーたらのダメな自分に戻った。
「いいえ・・音楽はもういいです。過去に置いてきましたから・・忘れました。あなたにコメントするなんておかがましいですよ。」
会場がシーンと静かになった。
前半の新鋭アーティストのステージが終わった様だった。ステージ上では司会者らしき人物が現れて、”風はるか“について話し出した。
「さあ!皆さん!いよいよ風はるかの登場です。彼女の今日の1曲目は、彼女が歌手を目指すきっかけになった楽曲をピアノ弾き語りで皆様にお送りします。では“風はるか”さん、どうぞお願いします!」
司会者がそう紹介するもステージには風はるかが現れず、会場がざわついた。それもそうである、彼女はヒロシの横に座ってるのだから・・
「ちょっと不味くないですか?ステージに上がらないと・・」
だが彼女は涼しい顔で平然としていた。
その時だった。
彼女はキャップを投げ飛ばし、長い髪を束ねていたゴムを取ると首を2、3度回し、黒髪を風に靡せた。会場は一斉に歓声に変わり、スポットライトが彼女を照らし始めた。
ゆっくりとステージに上がった彼女は、ピアノの前に着座すると、マイク越しに言うのであった。
「聞いてください・・茜雲」
それは紛れもなくヒロシの曲だった。
(どう言うことだ?なぜ俺の歌を唄う?)
彼女は優麗な演奏と歌声でヒロシが作った茜雲を歌ったのであった。
(・・何かおかしい。この次元のこの瞬間にこの曲が大勢の観衆が居るこの場所で流れる・・眠い・・なぜか、非常に眠い)
風はるかが唄う茜雲を聴いていたヒロシは突然の眠気に襲われて、ぐったりと椅子の上で眠ってしまった。
周囲の音も聞こえなくなり、歌い終わった後の歓声も遠くなっていった・・
ヒロシは夢を見ていた。遠く昔にこの茜雲を作った頃の中学生時代だ。
イジメを受け死のうとも思っていた時期だったが、一人の女性に会い生きる望みが出た。そんな時に生まれた曲だった。誰にも分からない心情だった。ひとつあった希望の光・・追い続けたあの日。小さな優しい声と、柔らかいそして白い手・・その手に触りたい。そう思っていた。
ヒロシはそんな夢の中で、最初の躓きからの脱却を感じていた。
そこに誰かの声が聞こえてきた。
「ねえ!お父さん!お父さん!起きてよ!」
ヒロシはゆっくりと目を開けた。
天井が見え、明らかに室内にいる。コンサート会場にいたはずなのに・・そう思うのであった。
ヒロシはゆっくりと起き上がると、仰天したのだった。
(これは・・)
ヒロシが横になり寝ていたのは、自分の家だった。
「まったく・・いつまで寝てるのよ?さあ起きてよ」
そう女性の声がした。
ヒロシは声のする方を覗き込んで、更に仰天したのだった。(あり得ない・・)
そこに居たのは、あの“風はるか”だった。
しかもある程度の歳をとっている。見るからに30過ぎだと分かった。
「あの・・どうしたんですか?ここにどうして居るんですか?・・ここ僕の家ですよ」
そうヒロシは少し怪訝そうに言うのであった。
「ねえ!頭おかしくなった!あなたの家は私の家ですよね!まったく・・訳分からない。それにどうして敬語なの?いつから他人行儀になったの!」
ヒロシにはどうにも理解に苦しんだ。目を覚ましたら、アイドルが自分の家に居て、私の家という?
(自分の家?私の家?えっ?もしかして・・)
「あの・・もしかして、僕たち結婚なんかした?」
彼女は眉を曲げ少し怒るように言うのであった。
「あゝ!そうです。結婚しました!苦労かけないからとか、不自由はさせないとか言って、輝かしい私の青春をあげましたよ!直ぐに子供も授かりましたし、もうヒカルも10歳だしね!・・いい加減に起きて仕事に行ってよね!」
あまりの驚愕にヒロシは黙ってしまった。
なんでこんな事になっている?確か俺は大学に入学したけど、急に・・風はるかが現れて、翻弄された事はあったけど、こんな事態になっているなんて・・あり得ない。ヒロシは目を閉じ元の時代に戻ろうとしたが、場面は変わらず、風はるかが睨むだけだった。
仕方がなくヒロシは起き上がり、階段を降りて顔を洗った。その瞬間に記憶がフィードバックされた。
同じ大学だった。彼女の本名は上田ユカリで、アイドルスターであった。彼女の歌声と眩しい瞳が好きであった。だが彼女は遠い存在だった。アイドルで人気もあったし、彼女もヒロシに恋愛感情は無かった。しかし例の井上の誘いで、白糸の滝に男女4人で行くことがあり、そこで出会う筈のサユリ。の筈がなぜか?そこに上田ユカリが来た。無論、ヒロシの音楽センスが欲しくて、ヒロシに近づきたく井上の彼女と仲良くなり、白糸の滝でのデートとなってしまった。
要因はあれこれとあるが、偶然にしてしまったキスから始まっていた。
それから上田ユカリは芸能界を突然辞め、メディアから消えた。と言うよりも、ヒロシの子を身籠ったのであった。“風はるか”はそれに伴い“ただはるか”になっていた。
結婚したヒロシは大学を自主退学し、芸能事務所に就職をした。無論だが女房の紹介であった。
生活は厳しかったが、結婚して10年・・幸せな日々である。
「そうか・・俺はまた変な次元に迷い込んだらしい。でも・・ここでも何かを見つける為に俺に用意された人生なんだろう。・・それに俺はユカリが好きらしい。とても大切だと思う」
ヒロシは突然に飛んだこの時代を生きるしかないと、確りとした心に思うのであった。
「ちょっとお父さん?何ぼーっと考えてるの?早くご飯食べて!片付かないから」
「あゝそうだね。ごめんごめん」
食事をしながらヒロシはユカリの姿を見ていた。
若くして欲しかったもの・・彼女だったのか?それが19の俺だったのか・・
確かに美人である。細面で、目も綺麗で髪も良い香りがする。それに子供がいる体型じゃない。未だにスレンダーである。まるで恵美と暮らしていた頃の彼女にそっくりだ。そう思うヒロシだった。
ヒロシは着替えをすると玄関の靴を履き「行ってきます!」とユカリに言うのであった。
しかし彼女は口をだし「チューは?言ってきますのチューしないの?忘れないでよ!」
ヒロシは「あゝ・・ごめんね!チュッ!」
そう言いキスをした。ユカリは笑顔で「いってらっしゃい。早く帰ってきてね。芸能界は誘惑多いから・・引っかからないでよ・・」そう言い手を振った。
この事態をどう考えるべきか??
自分の選択にも疑問があったが、最初の人生で同じ流れはあったものの、時期も人も違う・・違い過ぎる。違和感だらけだ。それなのに何故か幸せを感じる。
信じられるものは・・自分自身だけであった。
続く
ふとした出来事でヒロシは別次元に飛んでしまった。
そこには想像も付かない事態が。どういう展開になるか?乞うご期待下さい。




