◇夏の終わり☆エピローグ
少し離れた塀の上にカナリア。
「あなた誰?」とでも言いたいかのように頸を傾げて見ていました。
いつもより遅く、昼前に家を出ました。
陽射しは暑く、額から少し汗が出ます。
研究所までの真っ直ぐな道には、アスファルトの上に微かに散らばる砂浜の白い砂粒が光っていました。
少し空が高い。
昨日、夕飯のあとに母が今後の話を持ち出してきて、私は少し感情的に反論してしまいました。
直ぐに口調を和らげて、研究所へどうして行っているのか説明したけれど、全く理解されませんでした。母が理解しないのは解ります。私も先生と初めてあった時には哲学も思想も理解して無かったのですから。
話しているうちに母の辛そうな顔を見て、我を通すことができなくなりました。
「わかったよ。
研究所には行かせてほしいけど、できるだけ控えるようにする。
それに就職もする」
その時の母のホッとした顔。
自分の感情的になるところを直したい。自分の思うところを論理的に説明できるようにもなりたい。何よりも、如何なる状況でも相手を思いやる余裕を持ちたいです。
自分には、まだ足りない部分が多い。
研究所への道を俯き加減に歩きました。いつもより足が重い。
これではいけない。
立ち止まって、背筋を伸ばし、目を瞑り、気持ちを切り替える。
先生に会って説明をする。明るい気持ちで話をしよう。
できるだろうか。
この夏の先生との会話が切れ々々に蘇り、どれもが私の知らない知識で、私が知らない間も私の身近に在り続けたものばかり。世界に関する多くの情報の殆どを私は気にもせず認識しようとしなかった事に気が付かされた時は驚きました。
「生まれながらに世界の全てを理解している人などいません。状況に対する対応も、全てを自ら考え習得する者もいません。知識として教えられ、型式化された行為として教えられて、対応方法を身につけます。即ち世界は継承された知識と型式によって理解され、知識と型式によって順応してゆくものになります。即ち世界は結界です。」
「皆定された楽園の前に、自定の楽園など語るに値しません」
「哲学の問は全て『人間とは何ぞや』ということに集約されるとも言われています。
しかし、それでは目的の半分しか達成できません。
人間を知り、人間を救済しなければ、哲学の目的は達成しないと思います」
「僕は結界学を創始する事で、将来の、本物の哲学者の仕事を手伝おうと考えたのです。
いつか必ず本来の意味での哲学者が現れ、人類を楽園へと導くでしょう。
それは争いの終わり。
七つの厄災の終焉。
子供達の絶え間ない笑顔の始まりです」
研究所への木立をゆっくり歩きました。
抽象的な小鳥のような形のブロックを敷き詰めた石畳。
砂浜の砂が、ここにも風で運ばれて、木洩れ陽に微かに光っていました。
ブロックに描かれた木洩れ陽の模様を踏み、踏むと足の甲に模様が描かれる。左、そして右。
ゆったりとしたテンポで、足音は砂混じりの音、木の葉の隙間から漏れてくる光と影をくぐり抜け、両手を胸に当て、巡礼者にも似た歩みを進め、心は遥か後ろに置いて来てしまったように重く、目頭の熱さをゆっくりとした瞬きで癒やしながら、私は前へ進みました。
門前で立ち止まり一礼。
白い曼珠沙華が風に揺らされていました。
入口へ進み、入口脇のカードリーダーにスマートフォンを翳すと入口のロックが解除される音がしました。
ここでも一礼。
中へ入り、自分専用のルームシューズを下駄箱から取り出して、靴を仕舞いました。
左の入口を開けて一礼。
書斎エリアに先生がいらっしゃるのを確認して、そこまで歩いていきました。
ショートポイントのワイシャツに星型のカフス。木漏れ陽に輝く白い御髪。
軽く握った左手を唇に当てて、集中して本をお読みになっておられました。
「おはようございます」
そして一礼。
「おはようございます」
いつになく丁寧な私を先生は怪訝な顔でご覧になっていらっしゃいました。
「今日は先生に悲しいお知らせがあります」
先生は驚いた顔をされ、私の次の句を待っておられました。
「昨日、母に、真剣に怒られました。ちゃんと就職して、働くように言われました」
先生は瞼を閉じられて、真剣なお顔で……、何も仰いませんでした。
「ですから、ここへ来るのは、難しくなります」
驚いたように瞼を開き、先生は本当に悲しそうな顔をされました。
「あ……」
先生は言葉にならない言葉を発して口籠り、瞳を閉じて押し黙り、そのまま。
私は「ごめんなさい」と一言。
「謝らないで下さい。君は何も悪い事はしていませんよ。お母様が仰っている事も至極真っ当な事です。誰も悪くない」
そう仰って、また押し黙り、私も言葉がなくて……。
朝の気配が消えた陽差しが書斎エリアの高い位置から差し込んで、先生のカフスを輝かせていました。
ホールの空気はゆっくりと回転して、右から左へ動いているのが、書棚の影と外光の狭間に見えました。
まるで先生の輪郭に沿ってオーラが輝いているように見える陽差しの悪戯が悲しくて、私は俯きました。
「先生に教えていただいた事は驚くものばかりで、どれだけ自分が世界を蔑ろにして生きてきたか思い知らされるものでした。
人は幸せになるために生きているというお考えだけでも、私には尊いものです。
もし全ての人を楽園に導く型式が作れるのであれば、それを核として……結界学では種と言うべきかもしれませんが、それは結界となり、長い時間を掛けて、少しづつ楽園へと誘えるのではないかと考えたりもしました。
私のような者が先生のお手伝いが出来るとは思えませんが、できれば近くで先生のお仕事を拝見していたかったです」
俯いたまま申し上げました。
「もし、君が良かったら……」
先生の声はか細くて、驚きながら顔を上げると、先生は真剣な顔で、こう仰ってくれたのです。
「ここで働きませんか?」
「え?」
「九時半から十五時半まで。いつもそれくらいに来て、それくらいに帰るでしょ?」
優しい話し方でした。
私は嬉しくて言葉になりませんでした。
すると先生は「副所長として、どうですか?」
冗談のような話しを先生は真剣な顔で話されていました。
このまま黙っていたら、もっと良い条件を先生は提示するのでしょうか。
でも、先生の申し出は今まで通りで何も変わりがない事を意味します。そして先生もそれを望んでいらっしゃる。
そう考えると嬉しくて何と言ったら良いか分かりませんでした。
そして私の心の中から不安が消えていました。
余りにも嬉しくて私は微笑んでいたのかもしれません。そして、こう申し上げました。
「先生は神様ですか?」
一瞬、驚いた表情を見せてから、先生は次の刹那には破顔してお笑いになられていました。
先生は笑顔。私は微笑み返しました。
「ア・プリオリの結界で、絶対に壊せない結界は何だか分かりますか?」
「いいえ。何ですか?」
「食欲です」
そういえば、そろそろお昼です。お腹が空いてきました。
「生命を維持するため、栄養補給が必要なのは抗えない構造です」
そこで先生は人差し指を立てました。
「しかし、美味しいものを食べようとするのも、それを誰かと一緒に食べるのも、自由意志です。
お昼にしましょう。
僕が作ります」
「わぁ♡楽しみです」
陽射しは天頂から降り注ぎ、ホールを照らしていました。
まるで森の中のような木漏れ陽。
まだ夏の強さを失っていない光が床に描いた模様。
極微かに響く蝉時雨のような空調機の振動音。
ホールの空気はゆっくりと回転しています。
その日が今年最後の真夏日となりました。
夏はもう終わりです。




