◇七つの厄災
本部というから都心の真ん中にあるのかと思えば、郊外よりも少し遠い場所。
緑が多い。
鳥の声。風に擦れる木の葉の音。
門柱を抜けると真っ直ぐな道の向こうに白い建物。
建屋の入口を入って直ぐの窓口に置いてある呼び鈴を軽く叩く。
出てきた女性に名前を告げると「伺っています」「しばらくお待ち下さい」
窓口近くの古い診療所にでも置いてあるような長椅子に腰掛けて待つ。
電灯が点いていないので、少し暗い。
程なくして初老の男性が現れました。
「お待たせしました」
軽く頭を下げられ、僕も頭を下げました。
窓口の中の事務所に通され、先程の女性と事務的な手続きの後、バイト代は銀行口座に振り込まれることになりました。
「ここまでの交通費も振り込んでおきますので、あとで確かめて下さい」
そう言って女性は退室して行きました。
「中庭に出ませんか?」
初老の男性に誘われて、部屋を出ると「暗いのに電気、点けないんですよね」と言って男性は笑った。
「一度、もったいないから電灯を消すように言ったら、消しっぱなしになって……。
誰もいない時は消すようにという意味だったんですけどね」
中庭に出ると子供達が走り回っていて、僕の周りでも全力疾走。
「こらこら、ちゃんとお客さんに挨拶して」
「こんにちは」 「こんにちは」
それぞれ気ままに挨拶。
子供の表情から、自由にしていることが解りました。
「ここでは話が出来そうもないから、外に出ましょう」
とって返して、建物の入口を出ました。
「ごめんなさいね。子供が自由すぎるでしょ。
あれもね、子供を厳しく躾けるのは良くないと言ったら、放任主義みたいになっちゃって。
困ったものです」
この人がリーダーなのだなと思いました。
「集団で生活することになって、規律が必要だと言ったら、戒律みたいに厳しいルールができて、子供にも強制するような場面も見られたので、子供が萎縮するようなことは良くない思っただけなんですけどね」
道なりに門柱を越えて、近くの川まで歩きました。
土手に上がり、緑の葉を茂らせた桜の並木を歩きました。
「君の考えは伺っています。
私に足りないものを持っていると思いました。
私達は宗教を始めた訳ではないのに、今では宗教団体のようになってしまって……」
彼女からも聞いてはいましたが、改めてリーダーからも事の起こりを聞きました。
初めは神の実在について論理的に検討する事を目的とした研究会のようなものだったそうです。
やがて神自体より、人が神の如く尊い行ないをする事実に関心が向かうようになり、その行ないを通して神の実在を知る事ができないか考え始めるようになったそうです。多くの人の意見を聞くために人を集めているうちに、組織化され、いつの間にか運営費を集めるようになり、生活に困る者も出てくるようになったので、集団生活を始めて、いまのような状態になったとのこと。
多くの人を養うためにお金を集めるより、自給自足の生活の方が効率的と考え、高原に土地を買って畑の準備をしたものの、彼女以外、高原への移住を希望する者はいなかったそうです。
「いまでは共同生活の組織運営の仕事が殆どで、神の位相について真面目に語る者はいない始末です。
こんな話、あそこではできないですよね」
それで川まで歩いてきたという事でしょうか。
「神の位相を、もっと理解できれば多くの人の幸福につながると考えて頑張って来たのですが、……難しいですね。
君の方が良い考えがありそうだと思った次第です」
勧誘だろうかと思いました。
「君の考えを、もっと深める気はありますか?」
「これからも考え続けると思います」
「では、研究費を出させて下さい」
唐突でした。
「いや、出してもらっても返せませんよ」
「返さなくて結構です。
私達には、もう神の位相を解き明かす力はありません。
君が楽園衝動について考えを深めることができれば、いつかは神の位相も解き明かされると思ったのです」
「神の位相についてはお約束できませんが、楽園衝動については考えをまとめるつもりです」
「それで結構です」
納得しているようでした。
「なぜ僕に、そこまでしてくれるんですか?」
僕の質問にリーダーは少し笑いましたが、どこか哀しそうでもありました。
「こうした団体を始めるまで、宗教依存症とも言える人々が居るとは知りませんでした。
自分自身の感じている困難を神にどうにかしてほしいと思ってしまう症状です。
心を軽くするための祈り。
浄財をすることで自分を優遇してほしいという保身。
私達の考えは神の実在を疑っていると話しても理解しようとしない。
祈りの方法を教えて下さい、とか。
修行の仕方を教えて下さい、とか。
そればかり。
いつの間にか宗教団体で働いていた人達が入り込み、あっという間に新興宗教のようになってしまいました。
もう私の思いとは掛け離れてしまったのです。
それでも夢が捨てきれない」
リーダーの言葉は、どこか虚しく、諦めにも似た響きがありました。
神は決してお金を求めたりしません。
お金は人間が造り出したものに過ぎません。神は人間が造ったものを欲しがったりしないものです。神と信者との間に居る人が欲しがっているだけです。
その中間に居る人に尽すのは神への不信心にもつながります。
神は信者との間に仲介者を必要としません。常に神と信者とは直接関係するものです。
必要なのは、神の位相にあろうとする事だけではないでしょうか。
仲介者を名乗り、金銭を要求する人は、無垢な信者を不信心へ誘う、紛い者です。
リーダーは自分たちが紛い者になってしまった事を嘆いているのだと思いました。
川を渡る風が葉桜を鳴らして通り過ぎて行きました。リーダーと会ったのは、これが最後となりました。
一週間ほどでバイト代は振り込まれましたが、同時に研究費も振り込まれていました。
その金額に腰が抜けるほど驚きました。
僕はそれを金融関係に詳しい友人の助けを借りて投資に回しました。生活費にしたら無くなるだけですので、増やす必要があると判断しての事です。
一年も経たないうちに数倍に増やすことができたので、とりあえず元金は返そうと本部を訪れたのですが……、誰も居ませんでした。
高原に移住したのかと思い、高原まで出掛けましたが……、そこにも誰も居ませんでした。
彼女も居ませんでした。露天の湯船に虚しくお湯が掛け流されていました。
ただ陽の当たりにくいビニールハウスの片隅にスペアミントのひと株が残されていて「トイト」と書かれてありました。
そのまま残しておいても、いずれ枯れてしまうと思い、僕が持ち帰り、麓の町でトイトを探すことにしました。
町で「側頭部に大きな傷がある男」と訊くと、直ぐにトイトの居場所が分かりました。
トイトにスペアミントを渡し、彼女たちの居場所を訊ねました。
「ひと月ほど前に、長く出掛けるから荷物は運ばなくて良いと言ってきたな。
戻ったら連絡するって言ってたけど……。
あと、君が、あの高原を買い取れないか気にしていたけど……」
高原全体は無理でも、一部なら買い取れるかもしれない。
「買い取っても、あそこで僕が農業するのは難しいですね」
「人手が必要なら、俺がやっても良いけど……」
冗談かと思いましたが、真剣な顔でした。
その時は適当な話しで終わらせて、東京へ戻りました。
戻ってから土地の登記を調べると、丁度ひと月ほど前に、東京の不動産会社が買い取っていた事が判りました。
その会社に土地の購入について検討していると伝え、それとなく以前の持ち主について訊くと、解散していた事が判りました。
土地は誰も欲しがらない土地のようで、かなり広い土地でしたが、安く購入できることが判りました。
教団のお金なのだから、せめて高原の土地だけでも買い戻して、いつでも帰って来れるようにしてあげるのも良いように思い、購入しました。
土地はトイトが自由に使って良いと伝え、野菜を作って得た利益は全てトイトが自由にして良い事にしました。
それがトイトと僕の関係の始まりです。
彼は高原で野菜を売る傍ら始めたのが「お花忍者」です。
そもそも若い頃に極左過激派に属していたそうで、あの傷跡も内ゲバのものだと、随分経ってから教えてもらいました。
彼曰く、この国の国民は不必要に苦しめられているとのこと。
真面目に働いても報われず、景気を後退させ、失業率を高めておいて、非正規雇用という安価な労働力にさせられている。
非正規雇用も正規雇用も、何ら能力に違いはないし、仕事の難易度も変わらない。なのに賃金は安く設定されている。
トイトの主張を聞いたのも、随分経ってからの事でした。
確かに僕が働いていた時も、派遣社員などの非正規雇用の人と正社員は能力で違いはないどころか、派遣社員の方が真面目で書類作成も上手な場合もありました。
非正規雇用の人達に能力がない訳ではありません。運がなかったとしか思えないのです。
実力に関係なく、運がないと貧困になるなんて、現代社会ではあり得ないことを政策として推し進めていることを、マスコミを含め、知識層は口を噤んだままです。
トイトが言うところの「無理に貧困層を作り出し、安価な労働力にしようとしている」に共感を覚える事もあって、僕はトイトを援助する事にしたのです。
彼自身が過去の経験から人を傷付ける事に躊躇いを感じるようになっていたのと、花を植えて抗議の印とするところが粋だなと思ったからです。
表向きは生花やハーブの生産販売の会社です。
社名は「位相生花」。これなら彼女も戻って来るかと思いました。
しかし、あれ以来、彼女とは会えていません。
どこかで元気にしていてくれれば良いのだけれど……。
彼女の言った言葉が、僕の中で木霊する思いです。
「私達は幸福になるために存在している」
確かに、神が実在するなら、その位相は全ての人の幸福が含まれると思います。
但し、それに現実性がないと感じる自分に虚しさを覚えます。
なぜ全ての人が幸福になる事が難しいと思えるのか。
哀しいかな、人は優劣に翻弄され、他人と自分を比較して、劣ると思う時の感情は負価値の感情。不快な思いです。不快に幸福感はありません。
無闇に自分を価値判断しない。それが幸福への一歩となります。
それは神の位相でもあります。
神は自身を相対的に比較して価値判断したりしません。
神は絶対者であり、相対者ではないからです。
或いは包括者であり、何かの部分ではないからです。
自分を価値判断しないのであれば、他人を価値判断しない事も同じです。
無闇に人を価値判断しない。
これらが難しいのです。
人間は軽々しく互いを価値判断してしまう。それによって苦しみ、そのことから諍いを起こす。価値の奪い合いは、次第にエスカレートして命の奪い合いになる場合もあります。それは不幸でしかありません。
また、楽園衝動の行き先が楽園であったとしても、全ての人が同じ楽園とは思えないのです。
人それぞれに思うところの楽園があり、それは自定されるものであって、他定されるべきものではありません。
例え、同時代の人間全員の他由的合意によって、単一的な楽園状況が造られたとしても、未来の人間にそれを強制することはできません。何者に於いても自分自身の人生は自定されるべきであって、他定されるべきではないからです。
楽園は曖昧であるからこそ語り得るものにしかなりません。
しかし、それぞれに目指す楽園は在ります。
実存投企の完成型もまた楽園です。
人間のア・プリオリな道徳観念の先にあるものも楽園だと思います。
人間は楽園を目指しつつも、社会として確定することができない。その矛盾が人類全体の幸福が実現しない矛盾でもあります。
それでも楽園圏というような最大公約数的な社会状態の模索は可能なのではないかと考えました。
本質的に人間自身を苦しめるのは価値の構造にあると思いますが、そこから生み出される様々な事象や、自然現象などの災害、人間自身を楽園から遠ざける出来事を防げれば、僕達は楽園圏へと近付けるのではないでしょうか。
僕はその僕達を楽園圏から遠ざけるものを「厄災」と呼ぶことにしました。
厄災を遠ざけることで、人間の社会は楽園社会へ近付けるはずです。
彼女の言葉を僕が言い直します。
「人間は今よりも幸福になるために存在している」
僕達は諦めずに、繰り返し、繰り返し、厄災を遠ざけ、人々の中から不安と苦しみを取り除き、安寧に暮らせる社会の構築を努力し続ける必要があります。
それが楽園衝動の真の姿であり、彼女の求めた神の位相でもあると思います。
僕はこの考え方、現実的に楽園の実現を目指す主張を「実楽園主義」と名付けました。「実」には現実的と実存的の両方の意味が含まれます。実世界に楽園の実現を目指すという意味も含みます。
実楽園主義に於いて、誠実に位相を追いかけるものは苦しむでしょう。
実存を囲む環境は多くの不条理を含み、単純な倫理の達成を阻む、価値構造的な競争原理もあります。
弱者の所有すべき価値を過剰に搾取してしまう資本主義の構造的問題もあります。
人類の力を遥かに凌駕する自然災害もあります。
疫病の蔓延、貧困の発生、事件、事故でさえも、僕達に無力感を与えるのに十分です。
しかし、一つの光明もあります。
飢饉については、その危険が現実的に発生する可能性が小さい国々があるという事です。
それは次第に広がりを見せています。
人類は他由し共生すれば厄災を遠ざける事ができる証です。
楽園が如何なるものか、その具体的な姿を定義するのは難しくとも、厄災を定義し、その回避策を皆定的に決定する事は可能だと思います。
僕は避けるべき七つの厄災について検討を開始するべきだと思います。
① 自然災害
② 戦争
③ 事件
④ 病気(疫病・疾病)
⑤ 事故
⑥ 貧困
⑦ 飢饉
七つの厄災は克服が難しいと思われる順番に並べました。
既に飢饉は克服されつつあります。
世界は飢饉の完全な撲滅を目指すべきです。
貧困の克服も可能だと考えています。
それほど難易度の高い課題だとは思えません。
それ以上になると、精密で柔軟なプロセス管理、科学力と衛生観念、自定的で完全なメンタルコントロール、信頼性が高く公正で強力な調停機能、巨大なエネルギーに対する制御技術など、現時点では人類が達成できていない力が必要になります。
自然災害を無力化できるほどの力を手に入れることができれば、それは間違いなく神の位相と言えるのではないでしょうか。
逆に言えば、自然災害を制御する前に、戦争の可能性を無くしておかなければ、人類は回復できない破壊を一瞬で起す戦争を想定して行動しなければならなくなります。
まずは先進国と言われている国は自国から貧困を完全に撲滅する事を目標に掲げ、達成年度を明言すべきです。それが実楽園への一歩となるはずです。
僕は自身の考えを教団に伝えることが叶わないまま、時を過ごすこととなりました。
投資も増え、ただ友人を助けるためだけの出資も、いつの間にか利益を生むようになり、今では資金の運用は完全に人任せでも問題がない規模に成長しました。
僕だけの時間の中で、幾つもの思考実験と概念の構築により、少しづつ構想は成長し、単純には語り尽くせない思いだけが、思い出のように過去に積み重ねられていきました。
無口に街中を歩き、語るべきことを語らずに生きた時間です。
そんな時間の切れ切れに、もう一度、彼女に会いたいと思っていました。
人が人のために行動することを神の位相として当然のものとして受け止めていた彼女は、僕が「人の正しい行ないには理由がある。でなければ、人の正しい行ないに感動することを説明できない」と言うと、不思議そうな顔をした後で「共鳴じゃない?」と言ってから「楽園共鳴」と言い直し、それが気に入ったらしく得意げに僕に言いました。
「人と人は楽園でつながっている。だから正しい位相には感動し、不実な位相には憤りを感じるんじゃない?
人は無意識のうちに楽園を知っているのよ、きっと。
だから位相が同じだと共鳴し合う。
人は皆、どんなに苦しくとも、楽園へ向かって歩み続けることが人生だと思う」
彼女の言っていることは、まるでプラトンのイデア論のようでした。
時折、彼女が言葉にする人生訓のようなものにも、彼女の思いが滲んでいたのだと、今更ながら思います。
もっと彼女と話しをすれば良かった。僕はいつも取り返しがつかなくなってから大切なことに気が付くのです。
彼女の笑顔が忘れられません。
あれから幾年が過ぎても、都心の高いビルに囲まれた広場に立てられた、大きなクリスマスツリーを見上げながら、彼女のことを想い、心を痛めたことが幾度もありました。
仲睦まじい男女を見かけると、彼女のことを良く思い出します。
神社や祠を見かけては、彼女と教団の人達が安心して暮らせているように手を合わせたり、お寺でも彼女の無事を祈りました。
不思議と疎ましく思っていたトイトとは関係が続いています。
トイトは生活に困窮する人達を助ける炊き出しを行なったり、無慈悲な政治家に対する抗議として、迷惑な花を植え続けています。
実業家に対する同種の抗議活動はトイトとは無関係だと本人から聞いています。
実業家の起こす問題は資本主義の構造的問題だとトイトは考えているようでした。
責任は資本主義の構造的問題に規制を設けずに、解決を先送りにしている政治家にあると考えているようです。健全な枠組みを設ければ、実業家はその範囲で最大の利益を上げるだろうと思われ、それは社会活動に不可欠な原動力でもあるので、無闇に否定するのは、良い考えではないとのことでした。
ですから、実業家に対するものは、完全な模倣犯です。
トイトは真似されたことについては気にしていないようでした。
もともと花を植えるだけですから、殺伐とした行ないより、許容されるものではあります。
それでも官権の取締を逃れるため、幾つもの目眩ましの為のペーパーカンパニーが在るそうです。詳細は僕も知りません。
拠点も郊外だけでなく、都市近郊や都心にもあるようです。
メンバーも増えたようですが、僕はトイト以外に接点を持っていません。
トイトは返礼のつもりなのか、季節ごとに、時には週に何度も、研究所の周りを美しい花々で飾ってくれます。
いつも夜中に来て、プランターを交換し、夜明け前に去っていきます。
ここ十年はトイトと顔を合わせてもいませんし、資金提供の依頼もありません。
生花やハーブの販売が好調だと思われます。
花を見ているだけで、その仕事の丁寧さが判ります。
トイトの見た目からは想像できない繊細さです。
トイトは恐らく優しい性格なのだと思います。花を愛する者にしか、本当の花の美しさを追求することはできません。トイトは花を想うのと同じように、人を想っているのだと思います。ただ、そこに静かに咲いている花を踏みにじるような真似は許せないのだと思います。咲いた花なら、綺麗に咲かせてやりたいと願うのは、楽園衝動です。
トイトはトイトの楽園を追求しているのだと思います。トイトが憂う政治家も自分自身の楽園を追求しているだけでしょう。
では何故、僕がトイトを支援し、政治家を支持しないのか。
それは単純です。トイトは他由であり、政治家は自由でしかないからです。
トイトと僕では方法論が違います。僕は思想的ですが、トイトは位相的です。明確な動機と目的意識をもって行動しています。トイトの方が僕よりも、遥かに神の位相に近く生きているように思えるのです。
僕達はもっと楽に生きることができます。
その実現のために行動しているのは、僕よりもトイトです。
ただトイトだけの位相では神の位相にはなりません。社会は常に皆定されるべきものであって、トイトが自定して良いものではありません。楽園衝動を動機とする共生を目的とした位相を皆定することで、社会は神の位相に従うでしょう。
ただ黙って見ているだけでは、僕達の社会は神の位相へは辿り着けないのです。
穏やかな口調をもって、決して荒ぶることなく、抗議すべきことは抗議し、恩恵に対しては感謝し、互いに敬意をもって、より良き社会へと皆定する努力を続ける必要があります。その倫理は古くから伝わっているはずです。それは先人達が私達を護るために用意した結界です。
即ち、生きることは結界となります。それは神へ至る位相です。




