決別の再会
ハルカ・カザマ殺害から二週間。
ノゾミは、隔離壁の外側、通称スラム街でしのぎを削るような日々をやり過ごしていた。
廃墟となった工場跡を拠点にし、その日暮らしの生活を送っていた。
鉄パイプの束にもたれかかったノゾミの表情には、どこか影が落ちている。
傍らでは、ネネが幼子をあやすようにノゾミの背を擦っていた。
「ノゾミ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない……自分で自分が分からないんだ」
ハルカの殺害によって、ノゾミの社会的地位は抹殺されたと言っていい。併せて、ノゾミの組織的アイデンティティも失われた。
当然、都市に戻るのも許されない。デュクタチュール市長のナギ・カザマは、息子と配下を殺した裏切り者に容赦しないだろう。あの監視社会の中に舞い戻った瞬間、殺人的な鬼ごっこが始まるだけだ。
「ノゾミが自分を見失っても、私がちゃんとノゾミを知っている。いっぱい悩んでいいよ」
「ネネ……ありがとう」
「どういたしまして」
今のノゾミは、ネネなしでは成り立たない。
ハルカへの復讐のとき、ノゾミの理性は吹っ切れていた。脳から多量のアドレナリンが分泌され、ハルカを殺すことしか考えられなかった。しかしスラムで過ごし、頭を冷やすうちに、ノゾミは犯した事の重大さに押しつぶされそうになっていた。
その点、スラムは良い隠れ家になった。
円環状に広がったスラムを捜索するには、広範囲をしらみつぶしに探す必要がある。そのため、ノゾミ一人をあぶり出すために、ハイコストロウリターンな選択をするとは思えなかった。
だからノゾミは落ち着いて、落ち込むことができていた。それでも潰れそうになったときは、ネネが傍で励ましてくれた。
勝手に感情を読み取るネネの傍若無人な行為が、いつしかノゾミの精神的な支柱となっていたのだ。
「それにしても、不気味なほど追っ手がないね」
「それは……」
――そうだが。
ノゾミはそのわけを探そうとしたが、ついぞ見当がつかなかった。
ナギが諦めたということはあるまい。ノゾミがハルカに恨みを晴らしたように、ナギにもノゾミを殺す理由があるのだから。その権利をナギが放棄するはずがない。
さらに付け加えれば、ノゾミはデュクタチュールの秩序を崩しかねない存在で、ヌーヴォの敵になったのだ。
これを放置することを良しとする人間でもないはずだ。
やらなければやられる。そんな苦境がノゾミに差し迫っていた。
「心配ない」
不安げな表情のノゾミの頭をネネが撫でた。絡みついて離さないように、手首をつかい、ねっとりとノゾミの頬を愛撫する。
ノゾミは自分のものだ、と主張しているようだった。
復讐以外の全てを失ったノゾミは、そこが唯一の居場所な気がして、身を委ねた。
「私と祢々切丸が、ノゾミを必ず守りきるから。ノゾミが私を信じ続ける限り」
「……ネネ」
ノゾミはネネの顔を覗き込んだ。
少女は愉快そうに微笑んでいたが、ノゾミは何の疑問も持たなかった。とろけるように甘く、心地よく感情を揺らすネネの巧言は、気持ちの隙間にすっと入り込むのだ。
ネネ相手に疑心をもつなど、欠片も考えようとはしなかった。
「少し楽になったよ」
「よかったぁ」
今日の食料を確保しないと。
ノゾミは地味に死活問題なことを棚上げにしていたことを思い出した。
立ち直って拠点を出ようとしたら、ネネも素足でついて回った。その健気な様子は愛らしく、ほっとしてしまう。小さい子が使う安心毛布のような温かみがあった。
「今日はなにが流れ着いてるかな?」
「なんでもいいじゃない。口に入れば」
「それもそうか」
スラムにて食料と定義できるものはごくわずか。
毒の水や環境汚染の雨のせいで、ほとんどの残飯は食べ物ともいえないお粗末なもの。ただの人間は、このスラムで一年まともに生きられるかどうか……。
しかしながら、ノゾミはこのデメリットの影響を受けない。ノゾミの体はネネとの契約により、特殊な加護で守られているからだ。
今日もまたノゾミはデンジャーな食料を捜しに外へ出た。
そして出会う。
「見つけた……!」
――っ!
ノゾミは追っ手を警戒して振り向いた。
その人物は、追手というにはあまりに場違いな少女だった。
「メグル? どうして、ここに」
「ノゾミ君が、ハルカ君を殺してしまったのをサイコメトリーで見たから……」
やはり――ノゾミは予想通りの答えにため息を漏らした。メグルは優秀なサイコメトラーだった。ノゾミの後を追うくらい造作もなかったのだろう。
ふと、メグルは密告するつもりではないのかと、最悪のビジョンが脳裏をよぎる。
「……」
ネネはまずい奴に見つかったと思ったらしい。珍しく端整な表情を歪めていた。
ノゾミは警戒しながらネネを後ろに下げつつ、メグルと相対した。
メグルは固い表情のまま話を進める。
「私はノゾミ君を助けに来たの」
「僕を助けに?」
よく見れば、メグルのヴェトマパンタロンはあちこち汚れていた。遠出用に防水リュックを背負ったメグルは、まるで昔の冒険家のような出で立ちだ。鉛雲の隙間から漏れた光を艶やかに反射していた髪は、何日も洗っていないのか、くすんで見えた。
「そうだよ。街では私たちのニュースが流れてる……」
現在デュクタチュールでノゾミがどういう扱いを受けているか、メグルはかいつまんで説明し始めた。
サスケが死んだこと。ハルカが殺されたこと。ノゾミとメグルが行方不明者として捜索されていること。
ノゾミはおおよそ予想通りの流れを黙って聞き流していた。
そして、何食わぬ顔でメグルに問い返した。
「で? なんでそれが、僕を助ける話になるの?」
ノゾミの言葉にはバラのような棘があった。棘はメグルの心に刺さり、想いの血となって溢れそうになった。
強い口調にメグルの胸は締め付けられる。
「それはっ」
ノゾミ君が好きだから。
言い返そうとして、メグルは急に口ごもってしまった。拒絶されるのが怖くて口が動かなかった。
目を泳がせたメグルは、慎重に言葉を選んだ。
「……ノゾミ君が死んじゃうのが嫌なの」
「僕が、死ぬのが嫌?」
「友達だもの、当たり前だよ! それにノゾミ君、見るのが辛いくらい酷い顔してる……」
「そうかな」
久しぶりに見たノゾミの顔はやつれていた。
恰好はメグルの比じゃないほど薄汚れ、眼光は鈍く荒んでいる。ベタ塗りしたような黒髪は乱れていた。
それでもノゾミが生きていてくれたことが、メグルは嬉しかった。
捜索中、サイコメトリーでノゾミの生きている姿を見て、何度安堵の息を吐いたことか。
メグルの安堵に比例するように、謎の少女もサイコメトリーを妨害してきた。幾度も不安を掻き立てられたのは記憶に新しい。
ふと、メグルは謎の少女の姿を探した。
妖しい紅眼と透き通るような白髪を持った少女だったはずだ。目立つ外見なのですぐ見つかると踏んでいたが、ノゾミの傍にはいないように見えた。
「ねえ、ノゾミ君は一人なの……?」
「……」
メグルは気がかりだった質問に踏み切った。
問い掛けられたノゾミは、間の抜けた表情になった後、しばらく逡巡していた。
――やはり、ノゾミは誰かと一緒に行動している。それもおそらく、サイコメトリーをことごとく妨害して来る少女と共に、だ。
ノゾミが質問に戸惑っているのを見て、メグルは確信に近い仮説を立てた。
その仮説を元にノゾミの答えを予測した。
「うん、一人さ」
こう答えるに決まっている。
「むー、本当は私もいるのに」
ノゾミの横で、蚊帳の外状態だったネネが頬を膨らませていた。契約者のノゾミに素っ気なくされたようで納得がいかないのかもしれない。
とはいえ、ネネはノゾミの返答が間違っているとは思わなかった。
メグルがサイコメトリーでネネの存在を知っているように、ネネも妨害する過程でメグルに感づかれたことを知っているからだ。
ネネはこれから先の予定のために、自らの存在を秘匿する選択をしたのだ。
だから、ノゾミが返答する邪魔をしなかった。
「そっか」
全身くたくたで疲労が溜まっていたが、メグルは微笑んで見せた。
ノゾミからすれば、今の短いやりとりはメグルをはぐらかすための答えだっただろう。しかし、予想通りの反応は、逆にメグルを勢いづかせた。
「だったら、私も一緒に逃げさせて」
「えっ?」
明らかな戸惑いの色を浮かべたノゾミは、メグルの反応を伺うように見つめていた。やがて、脳内整理が追い付いたらしく、「ああ、そういう……」と独り言ちた。
「ダメだ」
それからノゾミは短い言葉で、拒絶の意思を放った。
面喰ったメグルは、驚きを包み隠さず表に出してしまった。
「どうして? 一人より二人の方がいいじゃない! それにほら、私ならサイコメトリーを使えるから、逃げるのに便利だし……それに、」
「違うんだよ、メグル」
映画のカットのように、ノゾミはメグルの語りを打ち切った。その声音は鋼鉄よりも冷たく、メグルの心配を突き放した。
豹変したノゾミの態度を受けて、メグルは動揺した。まさかこんなに明確な拒絶をされるとは思わなかったのだ。
「なにが違うの?」
よろけそうになるのを堪えたメグルは、ノゾミの二の句を待った。
それも説明しなければいけないのかとでも言いたげに、ノゾミは頭の後ろをかいた。
「僕は超能力者を、ヌーヴォを信用していない。たとえメグルであっても、君がヌーヴォであるなら、僕の敵だ」
流石のノゾミも祢々切丸をメグルに突き付ける真似はしなかった。代わりに、それに近しい鋭利な言葉で彼女を刺し貫いた。
「……ノゾミ君」
メグルはノゾミの瞳を覗いた。黒い瞳の奥には恐怖と怒りが揺らめいていた。
――それは自分たちヌーヴォへのものなのだろう。
ハルカやその他大勢のヌーヴォたちは、寄って集ってノゾミを虐めていた。ノゾミがヌーヴォに感じている畏怖や憎悪のフィルターは、メグルにもかかっているのだ。
ノゾミがされてきた仕打ちを考えれば、至極まっとうな反応だと思う。
たとえそれが、メグルの心を切り刻むナイフのような鋭さを持っていたとしてもだ。
「……ノゾミ君は、そこまで傷付いていたんだね。今まで……私は何もしてあげられなかった」
自然とメグルの口からは「ごめんね」と懺悔がこぼれた。
メグルはサイコメトラーの直感からか、あるいは深い思慕からか、ノゾミの言葉に「怖い、苦しい、助けて」というSOSをはっきりと感じ取っていた。
そんなシグナル出してないとノゾミは否定するだろうから、口にはしなかったけれど。
「別に謝ってほしいわけじゃない」
ただ目の前からいなくなってほしいだけだ、とノゾミは続けた。
今は何を言っても訊き入れてもらえない。頑ななノゾミの態度は、歪みない意志をメグルに感じさせた。
しばらく沈黙し、メグルは頷いた。
「でも……これだけは覚えていて。私は絶対にノゾミ君の味方だよ」
絶対に見捨てない。ノゾミを助けることを諦めないと心に誓い、メグルは微笑んだ。
それから短く別れを告げ、去って行った。
ノゾミは彼女に手を伸ばしかけるが、呼び止めはしなかった。
「……味方」
「騙されちゃダメ、ノゾミの味方は私だけなんだから」
「あ、ああ」
邪魔者の背中を睨みつけながら、ネネはノゾミの腕に自分の細い腕を絡めた。
ネネの言葉を聞くと心がスッと軽くなる気がして、ノゾミは我に返ったように小さい手を握り返した。
*
「ビンゴ」
双眼スコープのレンズを覗き込みながら、黒尽くめのガンマンは指鉄砲で撃ち抜いた。
デュクタチュール市長ナギ・カザマの命令で動いていたジーコは、密会中のノゾミとメグルをじっくりと観察していたのだ。
当然、奴さんにバレない安全な位置から観測していた。
二人はたった今別れたところだったが、ジーコの推測ではまた出会う可能性が高い。それもメグルの方から会いにいくだろう。
メグルを発見次第、尾行するというジーコの考えは限りなく正解に近かったというわけだ。
次にノゾミとメグルが出会うときが、ノゾミの最期になるだろう。確信が持てないのは、ジーコの中でノゾミの正体が謎に包まれているからだった。
簡単な仕事のように思えて、何かがジーコの胸中で引っかかっている。
それはノゾミの使う謎の力が原因なのか、それとも……。
ジーコは、フェルト帽の下に薄っすら汗をかいていることに気付くと、額にハンカチを押し当てた。
「ふー。旦那、コイツは簡単に仕留まる相手じゃねえ気がするぜ……」
熟練の暗殺者は、言いようのない不安が溢れないように噛みしめた。