舞踏会(シルヴィア一人称)
デュノア公爵家のタウンハウス――フラムステラ・コートは夢のように美しい場所だった。
広大な敷地や立派な城館。最先端の流行服を身に纏った招待客がふりまく華やかなオーラ。
それら全てに圧倒され、感嘆の溜息をつきっぱなしの半月を過ごしたわけだが、不思議とまた行きたいとは思わなかった。
だが、かけがえのない思い出になったのは確かだ。きっとこの先、私はあの日々を何度も思い出しては幸せな気持ちになるだろう。
ハウスパーティで公爵閣下と顔を繋ぐことが出来た義兄は、鉄道計画のことで以前以上に多忙な人となった。姉は姉で、何かと外出することが増えている。
デュノア公爵のお蔭で、各方面からどっとお誘いが増えたらしい。
「今のオルティス侯爵は健康なんだもの。断ってばかりだと変に思われるわ」
姉は苦笑しながらそう言っていた。
姉も社交界が苦手なのだ。リリーは言うまでもないから、私達三姉妹は根っからの庶民体質なのだろう。
貴族社会に馴染めない、いや馴染もうとしない三人組。……祖父が生きていたなら、杖を振りかぶって私達を追いまわしたに違いない。
義兄や姉が忙しそうにしていても、悲しいことに手伝えることは何もなかった。
極貧生活を送っていた時は、やらねばならないことが多すぎて泣きたくなっていたのに、いざ裕福になってみると暇を持て余してしまうだなんて、つくづく業が深いと思う。
その日も私は早々にやることがなくなり、ぶらぶらと庭を散策していた。正面玄関前の庭をぐるりと回ったところで、一台の馬車が入ってきたことに気づく。見覚えのある刻印で、すぐにマイルズ商会の馬車だと分かった。
義兄なら、つい先刻出社して行ったはず。珍しく忘れ物でもしたのだろうか。
歩みを早めて屋敷へ戻った私を待っていたのは、義兄ではなくアレックス・リッジウェイだった。
「こんにちは、シルヴィア」
すらりとした長身を流行のスーツに包んだ美青年が、にこやかな笑みを浮かべ玄関先に立っている。馬車の窓から私が見えたのだろうか。どうやら呼び鈴は鳴らさず、ここで私を待っていたらしい。
リュシアン義兄様もだがアレックス様は、いつも非常に洗練された出で立ちをしている。ポケットチーフの折り方一つとっても、自分に似合うものを知り尽くしているのだなと感じる。
貿易商をしていると、様々な国の優れたものを目にする機会が増えるからだろうか。美的センスが自然と磨かれていくのかもしれない。
「ごきげんよう、アレックス様」
「ごめんね、散歩の邪魔しちゃった?」
「いいえ、大丈夫です。ちょうど喉が渇いたところでした。アレックス様もご一緒にいかがですか?」
彼が一人で我が屋敷を訪ねてくるのは、大抵何かしらの伝言を預かっている時だ。
今回もおそらく『いや、ここでいいよ。実は〇〇で~』と用件を切り出すのだろう。そう見積もったものの、礼儀に乗っ取りお茶に誘う。
「いいね! 実は最近仕入れたばっかのお茶を持ってきてるんだ。今日は俺が淹れてあげる」
アレックス様は悪戯っぽく片目を瞑り、私の隣にさりげなく並んだ。
珍しいこともあるものだ……。内心驚きながら、応接室へと足を進める。
その応接室で、私はより大きな驚きを味わう羽目になった。
「私がアレックス様のパートナーに?」
「そう。リュシアンには別の人を探せってしつこく言われたんだけど、貴族様が来るようなパーティに連れていける知り合いなんていないっつーの。そもそも俺自体が場違いでしょ」
「いえ、そんなことは……」
「いいの、いいの。でもこんな言い方したらシルヴィアは気を遣うしかなくなるよね、ごめん」
アレックス様は優しい笑みを浮かべ、私に謝ってくる。
どう答えていいか分からず、私は口を噤んだ。
彼は半月後に行われる舞踏会のパートナーを探しているという。
仕事関係のパーティは多い。普段は一人で出向き、パーティの主催者が紹介してくれた女性をエスコートして過ごすらしいのだが、今回のパーティはパートナー同伴で出席して欲しいと先に言われてしまったそうなのだ。
「そういうの面倒だから、今までは断ってたんだけどね。今回は相手が鉄道事業の関係者でさ。俺も同席した方が良さそうなんだよ。それで、お願いしにきたってわけ」
「そうでしたか。その舞踏会には、お義兄様たちも?」
「もちろん。むしろ、リュシアンがメイン。俺はサポート役ってとこかな。……慣れない場所に出てやるって言ってんのに、『それはありがたいが、俺の義妹は誘うな!』だよ? 文句の一つも言いたくなるわ」
アレックス様の後半の言葉は、ぼやきに近かった。
ほとほと困り果てているのが伝わってきて、おかしくなる。
姉いわく、アレックス様は『非常に女性関係が華やかな真の放蕩者』だそうだが、こうして話している分には危険の欠片も感じない。普通の気の良い青年、という感じだ。
「実は私、正式にはデビューしていないのです。……王城での謁見のタイミングを逃してしまいまして」
この国の成人は18歳。本来なら私も18になった年の春に、王城で行われる式典に参加するはずだった。だが当時の我が家の状態は酷く、デビュタントが身に着ける白ドレスやティアラ、それにエスコート役の男性を用意出来なかったのだ。
そのことで、クラリッサ姉様はひどく苦悩していた。何度も申し訳ないと私に頭をさげる姉様を見るのが辛くて、『デビューなんてしたくないわ』と言い張ったことをほろ苦く思い出す。
「なので、保護者同伴でないとパーティへは出席できません。姉に聞いてみますね。許可が出たら、ご一緒させて頂きます」
「そっか~」
アレックス様は微かに眉を寄せた。
それからわざと渋面を作り、嫌そうな声で聞いてくる。
「クラリッサ嬢がリュシアンに相談しないで決める可能性って、あると思う?」
私は思わず笑ってしまった。
そういえば、義兄様は今回の同伴に反対だった。姉はどんな些細なことでもまず義兄に相談する。義兄の方も同じだろう。すでにこの話は、二人の耳に入っていると思った方が良さそうだ。
「ないと思います。ですが、本当にアレックス様が困っていらっしゃるのに、無碍にするような方達ではありませんわ。きっと何とかして下さいます」
たとえば私以外の別の令嬢を紹介するとか。
そう続けた私に、アレックス様はますます渋い顔になった。
「今から別の……? うわ、面倒くさい」
どうやら彼は、一番面倒ではない、という理由で私を誘うことに決めたらしい。
ここで上っ面のお世辞を言われたら、私はきっと嫌な気分になっていただろう。義務感から美辞麗句を並べる人より、正直な人の方が好きだ。
「分かりました。では、私が行ってみたいとお願いしてみます」
姉も義兄も、私とリリーには大層甘い。
おねだりすれば大抵の我儘は叶えて貰えると分かっていた。だからこそ、迂闊に願いを口にしないように気を付けているのだが、今回は特別だ。
何かと我が家を気遣って下さるアレックス様に、私も何かしたかった。
「ほんとに!? ありがとう、すごく助かる! これ、貸しにしといて」
アレックス様はパッと瞳を輝かせ、お日様のような笑みを浮かべそう言った。
「そんな……。いつも良くして頂いてるんですもの、借りを作っているのはこちらです。たまにはお返しさせて下さいませ」
慌てて答えるとアレックス様は笑みを消し、じっと私を見つめる。
「――なんでしょう?」
「ううん。リュシアンが過保護になるのも、分かるなぁと思って。……変な男にころっと騙されそうだよね、シルヴィアって」
「まあ……」
今までのやり取りの中に、そんな風に思わせる要素があっただろうか。
自分ではしっかりしていると思っているだけに、納得いかない気持ちが湧いてくる。
むう、と唇を引き結んだ私を見て、アレックス様はまた笑った。
◇◇◇◇
そして、舞踏会当日――。
「舞踏会って、仮面舞踏会だったのですね!」
私は迎えにやってきたアレックス様を見上げ、憤然と言った。
「あれ? 言わなかったっけ?」
アレックス様はニヤニヤしながら、とぼけようとする。
世間知らずな私は、まさしく『コロッと騙された』というわけだ。
仮面舞踏会という催しが存在することさえ、私は知らなかった。姉から概要を聞いた時は、ぽかんと口が開いてしまったくらいだ。
なんでも外国発祥の催しで、最近この国にも入ってきたらしい。招待客は仮面と凝った衣装で変装し、自らの正体を隠す。誰が誰か分からないまま会話やダンスを楽しむことを目的としているらしいのだが、それで本当に楽しめるのだろうか。
リリーなら飛び上がって喜ぶだろうが、未知のものには尻込みしてしまう性質なので、この状況はいただけない。
「聞いておりません!」
「先に話したら、断ったでしょ?」
「それは――」
「しっ……」
何かを言いかけたアレックス様は、途中で表情を変え、人差し指を口元に当てた。
「どうしたんだ?」
背後からリュシアン義兄様の声がする。
振り返った先には、支度を終えた姉夫婦が立っていた。
黒のタキシード姿の義兄と、深紫と黒を組み合わせたドレスを纏ったクラリッサお姉様は、目が覚めるほど美しかった。今夜の舞踏会に合せ、姉は黒の羽とサファイアをあしらった豪奢な仮面を手にしている。リュシアン義兄様が持っている仮面も、一回り大きくはあるものの姉とお揃いのデザインだ。
「すごく素敵だわ! 夜の王様と女王様みたい……!」
私が思っていたことを、先にリリーが言ってしまう。
留守番組のリリーは、心底羨ましそうな視線を私に向けた。
「シルヴィアお姉様もよ。暗い深紅色のドレスなんて、お姉様が一番選ばなさそうな色だと思っていたけど、すごく映えるのね! 仮面はどんなものなの?」
今着ているドレスは、アレックス様からの贈り物だ。
彼も黒のタキシードを着込んでいるのだが、胸には深紅色のポケットチーフをさしていた。私のドレスと同じ色だ。もしかしたら、共布で作らせたのかもしれない。
「も――」
持っていない、と答えかけたが、それより先にアレックス様が手を差し出してくる。
大きな手の平の上には、艶消しの金と黒で彩られた優美な仮面が乗っていた。仮面の片側には、細い銀の鎖が垂れさがっている。その鎖の先端で揺れるのは涙型のダイヤモンドだ。
これまで見たこともない、繊細な作りの仮面に目を奪われる。
「わぁ~! シルヴィア姉様の仮面も素敵ね! どんな感じになるのか、見てみたいわ」
無邪気に喜ぶリリーには、誰も勝てない。
私達は揃って仮面をつけてみせることになった。目元だけを覆うタイプなので圧迫感はないが、やはり視界は狭くなる。
「……はぁ~」
リリーは丸い瞳をいっそう丸くし、うっとりと両手を胸の前で組む。
彼女の反応からするに、そうみっともないことにはなっていないのだろう。どうにも慣れなくて結び目に手をやると、隣のアレックス様が身を屈め、すかさず紐の長さを調節してくれた。
「じゃあ、行ってくる。遅くならないようにするから。いい子にしてるんだぞ」
夜出掛ける時の決まり文句を口にした義兄様に、リリーは大きな声で「分かってる」と返事をする。
「ごめんね。こういう派手なの君は好きじゃないと思って、わざと黙ってた。貸しにしといて」
四人乗りの馬車に乗り込む直前、アレックス様は私の耳元で素早く言った。
「いつか返して頂きますからね」
負けじと小声で言い返す。
アレックス様は一瞬言葉に詰まったものの、すぐにクスクス笑い始めた。
義兄様は何を勘違いしたのか、アレックス様の肩を強く小突き、彼を呻かせた。
結論から言うと、仮面舞踏会はそう悪くなかった。
大勢の客が招かれていたが正体が分からないので、変に身構えることなくパーティの雰囲気を楽しむことが出来たのだ。変わった趣向に皆も浮かれていて、場の雰囲気自体が明るく弾んでいたせいもあるかもしれない。
アレックス様はといえば、女性好きを公言して憚らないだけあって、エスコートの仕方がとてもスマートだった。男性慣れしていない私の、ここまでなら大丈夫という距離を決して踏み越えてこない。きっと色んな女性に合せて、臨機応変に対応を変えられるのだろう。
「大丈夫? 疲れてない?」だとか「飲み物とってこよっかな。何がいい?」だとか、煩くない程度にこちらを気遣ってくれたところも良かった。
一通り踊った後は仮面を外し、男女に分かれて歓談ルームへ移動する段取りだというので、ダンスタイムが終わるまではずっとアレックス様と一緒だった。
普通のパーティの場合、いくらパートナーでも同じ男性と続けてダンスを踊るのは非常識だとみなされる。
今回もそうかと思い途中で離れようとしたのだが、アレックス様はこちらが驚くほど慌てた。
「ちょ、待って! どこへ行くつもり?」
「壁際で休憩しようかと」
「了解、一緒に行くよ」
「いえ、一人で大丈夫ですわ」
「大丈夫なわけないでしょ。ほんとこの子は……」
仮面のせいで目元の表情は分からないが、彼が呆れていることは曲がった唇の端で分かった。
「変な男に何かされたらどうするの。もっと危機意識を持たないとダメだって」
自分の日頃の行いを棚に上げたアレックス様に、懇々と説教されながら壁際へと移動する。
「こんな人目の多い場所で、一体何をされるというの?」
あまりに不思議で、つい声に出てしまった。
アレックス様は大きな溜息を一つ吐くと、私が腰掛けた椅子の後ろへと回った。
一体どうしたのかと視線で追う。彼はおもむろに椅子の背に手をかけ、私ごと方向を変えた。
「ひゃあ……っ!?」
驚きのあまり漏れた声は、途中で別の意味を持った。
ずらりと植木鉢が並ぶ部屋の隅、その後方のカーテンの背後。
アレックス様が向けた方角のいたるところに、ぴったりとくっついた人影が見える。仮面で顔が見えないのをいいことに、大胆な戯れにふける招待客達が視界に飛び込み、私は真っ赤になった。
「こういうのもあるから、君を誘ったら駄目だってリュシアンは言ったんだよ」
耳元で囁かれる声に、びくりとする。
これまで何とも思わなかったアレックス様が、急に怖くなった。
「……大丈夫。俺は安全だよ。まだまだ命は惜しいからね」
私の怯えに気付いたらしく、アレックス様はがらりと雰囲気を変えた。彼は明るく微笑みながら、再び椅子を元の向きに戻す。
「お姉様は大丈夫かしら」
つい気になって呟くと、アレックス様は今度は無言でバルコニーの方を指差した。
開け放たれた両開きの扉の向こうに目を凝らすと、見慣れた背中が二つ、並んでいるのが見える。
仮面を外した姉が、同じく仮面を取った義兄と楽しそうに歓談していた。
姉の横顔は、いつもより生き生きと輝いている。姉が何か冗談を口にしたらしく、義兄が笑い始めた。
義兄が姉の額をツン、と指でつつくと、姉も背伸びをして腕を持ち上げる。
ところが身長差があるせいで、なかなか仕返しをすることが出来ない。
分かりやすくふくれた姉を見て、義兄は膝を屈めた。
ようやく近くにきた義兄の頬を、姉は両手で挟んでぐいぐい押し始める。美しく整った彼の顔をあんな風に触ることが出来るのは、この世界でクラリッサお姉様だけだろう。
先程見た人々のように、抱き締め合ったり、キスをしたりしているわけではないのに、眺めているうちにどんどん頬が熱くなる。
姉夫婦のあまりに親密なやり取りは、私を居た堪れない気持ちにさせた。
そっと目を逸らしアレックス様を見上げると、うんざりした表情の彼と目が合う。
「大丈夫だったでしょ? 俺、こういうパーティで大抵アレを目撃させられるんだけど、どう思う?」
げんなりした声色だが、芯から嫌がっているわけではないことは彼の表情から伝わってきた。アレックス様はリュシアン様の幼馴染だという。親しい友人の幸せそうな姿を、彼も心では喜んでいるのだろう。
「お気の毒です、としか」
思わず知らず微笑んでしまう。ニヤニヤしながら私が言うと、アレックス様はぎょっとした顔でこちらを見つめた。
それから今度は本当に嫌そうに眉根を寄せる。
「……やばい。ミイラ取りがミイラになるっていうの? これ」
アレックス様がボソリと呟く。
ミイラ、とはなんだろう。聞き慣れない文句だ。
どういう意味か聞き返した私に向かって、アレックス様は「嫌だ、まだ死にたくない」と眉尻を下げた。
頂いたリクエストは、シルヴィアとアレックス、そしてリュシアンとクラリッサの幸せな姿が見たい!でした。
合せて書いてみましたが、いかがでしたでしょうか。
5月2日、アイリスNEO様より書籍版が発売されます。
イラストレーターは、宵マチ先生。とっても美麗な表紙とピンナップ、そして挿絵を是非お楽しみ下さい。
こうして書籍化できたのも、皆様の応援あってのことです。
本当にありがとうございました!