第六話 UN POUR TOUS, TOUS POUR UN. 秘書が把握していた出張先
# 第六話 秘書が把握していた出張先
会社案内の一ページ目には、こう書かれていた。
**UN POUR TOUS, TOUS POUR UN.**
『一人は皆のために、皆は一人のために。』
サイバーナイト株式会社が、創業以来掲げてきた理念だった。
泉ガーデンタワーの一角に設けられたインシデント対応室では、その言葉を思い出す者は、まだ誰もいなかった。
午後四時十分。
最高情報責任者の黒木厳は、机の上に置かれた紙の資料に目を落としていた。
社長秘書の佐藤が、出張日程をまとめた書類を持ってきたのである。
「青木社長の出張について、確認できた範囲をご報告します」
佐藤は、必要以上に表情を動かさなかった。
「出張は、攻撃が発生した当日を含む二日間です。訪問先との面談予定は、こちらに記載してあります。宿泊先は、こちらのホテルです」
黒木はホテル名を確認した。
予約記録と経費処理の記録も、照合できる範囲で一致していた。
少なくとも、青木がそのホテルに宿泊する予定だったことは、社内の記録から裏づけられた。
「同行者は?」
「出張申請上は、社長お一人です」
佐藤は一拍置いた。
「出発前に、社長から『今回は同行は不要だ』と指示がありました。私が把握しているのは、そこまでです」
「分かりました。ありがとうございます」
黒木は、そこで質問を止めた。
同行者がいない予定だったことと、実際に誰とも会わなかったことは、同じではない。
そして、誰かと会っていたとしても、それだけでサイバー攻撃との関係が生じるわけではない。
この二つを混同すれば、調査はたちまち噂話に変わる。
「この資料は、調査記録として保管します。必要な範囲で、出張記録と認証ログを照合してください」
デジタル・フォレンジックチームの相馬が頷いた。
「承知しました。現時点では、社内アカウントが使われた時刻と、社長の出張日程が重なっている。それが確認できる事実です」
「接続元は?」
黒木が尋ねると、相馬は手元の記録を確認した。
「通常の社内端末からの接続とは異なる情報が残っています。ただし、この情報だけで接続に使われた機器や、操作した人物を特定することはできません」
「ホテルのネットワークだったと断定できるのか」
「いいえ。会社側の記録だけでは、そこまでは言えません。接続元の情報と、社長の宿泊先が一致することは別々に確認する必要があります。ホテル側の記録を確認する場合も、適切な手続きを踏む必要があります」
黒木は小さく頷いた。
ひとつの記録から、ひとつの事実を取り出す。
その事実から、まだ証明されていない物語を作らない。
それが、いま彼らに求められている仕事だった。
午後四時二十五分。
青木タツオが対応室に入ってきた。
「何か分かったのか」
「出張日程と宿泊先を確認しました」
黒木は、確認できた内容だけを説明した。
青木は資料に目を落とした。
「それで?」
「社長のアカウントが使われた時刻と、出張中の時間帯が重なっています。接続元は、通常の社内端末とは異なる情報です。ただし、誰が、どの機器を使って操作したのかは、まだ特定できていません」
「私は出張中も仕事をしていた。社内のシステムにアクセスした可能性はある」
青木は早口で言った。
「それ自体は、問題ではありません」
黒木は答えた。
「問題があるかどうかを判断するためにも、どのシステムに、どの経路でアクセスし、何が実行されたのかを確認する必要があります」
「つまり、私を疑っているということか」
「社長を疑うことが調査の目的ではありません。攻撃がどこから始まり、どこまで広がったのかを明らかにすることです。記録が社長のアカウントに結びついている以上、確認を省くこともできません」
青木は黙った。
普段の彼なら、会議の場で部下の説明を遮り、結論を急がせることもあった。
だが今日は、結論を急がせる側に立てなかった。
自分の名前が、調査対象の記録に載っている。
その事実が、彼の言葉を慎重にしていた。
「出張の目的は、正式な業務だ。訪問先にも説明できる」
「承知しています。業務上の出張だったかどうかと、今回のアクセスの技術的な意味は、分けて確認します」
黒木は、青木の目を見た。
「社長。いま必要なのは、説明を整えることではありません。記録を残すことです」
青木の眉が動いた。
「説明を整える、だと?」
「失礼しました。言い方が適切ではありませんでした。必要なのは、事実を確認し、確認できたことと、まだ分からないことを分けることです」
黒木は言い直した。
青木は何も答えなかった。
相馬が、静かに補足した。
「出張先が確認できても、攻撃経路が分かったわけではありません。社長のアカウントが記録されていても、社長本人の操作だと確定したわけではありません。逆に、本人ではないと確定したわけでもありません」
「では、何が分かっているんだ」
青木の声には、苛立ちが混じっていた。
「現時点では、社長のアカウントに結びつくアクセス記録があり、その時刻が出張中と重なっていることです。次に、接続先の端末、実行された操作、その前後の認証記録を照合します」
「いつ分かる」
「確認できた段階で報告します。ただ、時刻を約束することはできません」
青木は、椅子の背にもたれた。
彼は会社の最高経営責任者だった。
千百人の社員の生活を預かり、顧客との契約を背負い、取締役会に説明する立場にある。
その彼がいま、自分の会社のシステムで何が起きたのか、すぐには答えられない。
そのこと自体が、彼には耐えがたいのかもしれなかった。
「黒木君」
「はい」
「会社を守ることを忘れないでくれ」
黒木は、すぐには答えなかった。
会社を守る。
その言葉は、間違っていない。
だが、何を守るのか。
社名か。株価か。経営陣の立場か。顧客の業務か。社員の生活か。それとも、会社が自ら掲げてきた理念か。
それらが同時に守れるなら、誰も苦労はしない。
「守るべきものを守るために、事実を確認します」
黒木は答えた。
「都合のいい事実だけを選べば、いずれ会社そのものを危険にさらします」
青木は、黒木を見つめた。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
やがて青木は、資料を机に戻した。
「調査は続けてくれ」
そう言って、彼は部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
相馬が、黒木に声をかけた。
「社長のアカウントが使われた記録は、重要です。ただ、それを攻撃の原因だと結論づけるには、まだ足りません」
「分かっている」
黒木は答えた。
「社長の私生活を調べるために、フォレンジックをやっているわけじゃない。会社のシステムで何が起きたのかを調べているんだ」
「はい」
「ただし、会社のシステムを守る責任は、現場だけにあるわけでもない」
黒木は、机の隅に置かれた会社案内に目を向けた。
表紙をめくると、一ページ目に、あの言葉がある。
**UN POUR TOUS, TOUS POUR UN.**
一人は皆のために、皆は一人のために。
会社が順調なときには、額に入れて飾っておけば済む言葉だった。
だが、危機が起きたときには違う。
一人の失敗を、皆で隠すという意味ではない。
皆の責任を、一人に押しつけるという意味でもない。
では、この会社にとって、その言葉は何を意味するのか。
黒木には、まだ答えが出なかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
社長のアカウントに記録が残っていた。
それは無視できない。
しかし、記録が示す事実と、人間が語る物語は、まだ一致していなかった。
その隙間を埋めるのは、憶測ではない。
次の記録だった。




