Digital Incident Management 第一話 - 消えたノートPC、終わらない移行
Digital Incident Management 消えたノートPC、終わらない移行
第一話 復帰初日の三つ巴
黒木厳が職場に戻ったのは、予定よりもずっと早い朝だった。
始業時刻にはまだ間がある。受付の前を通り、エレベーターに乗り、見慣れたフロアに降り立つ。窓の外には、いつもの都市の景色が広がっていた。ビルの谷間を縫うように車が流れ、歩道を行き交う人々は、それぞれの一日を始めようとしている。
何も変わっていないように見えた。
しかし、黒木の机には、すでに三つの案件ファイルが積まれていた。
・ 一つ目は、CIOとして本来担うべき情報システム全体の管理と経営判断。
・ 二つ目は、体調不良で離脱した前任者から引き継ぐ、複数の進行中案件。
・ 三つ目は、部門をまたぐ重要案件の調整と、暫定的な業務体制の維持だった。
黒木は、机の前に立ったまま、しばらくファイルを見つめた。
「……歓迎されているのか、試されているのか」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
もちろん、歓迎会などあるはずもない。復帰を祝う花束も、拍手もない。あるのは、期限の迫った資料と、返答を待つメールと、誰かが判断しなければ前に進まない案件だけだった。
それでいい、と黒木は思った。
情報システムの責任者が戻ってきたからといって、システムが自動的に安定するわけではない。人が一人戻れば、仕事が一人分だけ片づくというものでもない。
むしろ、仕事の全体像を把握するまでの間は、見えていなかった問題が次々に姿を現す可能性がある。
黒木は椅子を引き、最初のファイルを開いた。
そのとき、携帯電話が鳴った。
「黒木です」
『おはようございます。朝早くから申し訳ありません』
電話の相手は、管理部門の責任者だった。
「構いません。何かありましたか」
『復帰後の体制について、関係部署への説明をお願いしたいのです。前任者の担当案件もありますので、当面の役割分担を整理しておきたく』
「わかりました。午前中に時間を取りましょう。ただし、前任者の体調に関する情報は、業務継続に必要な範囲を超えて共有しないようにしてください」
『承知しました』
電話を切ると、黒木は手帳を開いた。
復帰の説明。担当案件の引き継ぎ。通常業務の確認。
そして、もう一つ。
Microsoft 365からGoogle Workspaceへのグループウェア移行である。
この案件は、黒木が職場を離れる前から進んでいた。すでに計画は動き、各部門が準備を進めている。しかし、移行はまだ完了していない。メールや予定表、ファイル共有、アカウント、アクセス権限など、確認すべき事項は残っていた。
ここで担当者が変わったからといって、計画を最初からやり直すわけにはいかない。
かといって、引き継ぎ資料を読んだだけで、すべてを把握したつもりになるのも危険だった。
「まず、現状を確認する。次に、止めてはいけない仕事と、止めてもよい仕事を分ける」
黒木は手帳に書き込んだ。
仕事を三つ兼務するということは、三倍働けばよいという意味ではない。
限られた時間と人員の中で、何を優先し、何を委任し、どの判断を自分が引き受けるべきか。それを決めることこそ、責任者の仕事だった。
*
午前九時。会議室には、管理部門、情報システム部門、セキュリティ担当、グループウェア移行プロジェクトの関係者が集まっていた。
黒木は、冒頭で簡潔に説明した。
「ご存じのとおり、前任者が体調不良のため、当面の業務継続が難しい状況になりました。そのため、私が急遽復帰し、暫定的に担当業務を引き継ぎます。前任者の回復を妨げないよう、個人の事情に関する詮索は控えてください」
参加者の何人かがうなずいた。
「ただし、私が戻ったからといって、すべての案件を私一人で処理する体制にはしません。従来のCIO業務、前任者からの引き継ぎ、部門横断の調整。この三つを当面並行して担当しますが、技術的な作業や個別案件の管理は、それぞれの責任者に担ってもらいます」
黒木はホワイトボードに三つの項目を書いた。
**責任者。担当者。期限。**
「この三つを曖昧にしないこと。私が判断する案件と、担当者が判断してよい案件を分けます。報告は必要ですが、何でも私の承認を待つような仕組みにはしません」
情報システム部門の担当者が口を開いた。
「グループウェア移行についても、その方針で進めるということでしょうか」
「そうです。Microsoft 365からGoogle Workspaceへの移行は、すでに進行しています。現在の進捗と残作業を確認し、計画どおり進められる部分は進めます。ただし、移行を急ぐあまり、認証や権限の確認を省略することは認めません」
「二つの環境が並行している期間については、どう管理しますか」
「まず、どのデータがどちらに存在し、どのアカウントが有効で、誰が何にアクセスできるのかを整理してください。移行済みという言葉だけで、旧環境の権限を無条件に残したり、反対に必要なアクセスを突然止めたりしないことです」
担当者は、手元の資料にメモを取った。
「移行作業そのものは、プロジェクト責任者が管理してください。私は全体の優先順位と、部門をまたぐ判断を担当します」
黒木はそう言って、ホワイトボードの三つの項目を指した。
「この体制は暫定です。前任者が戻る時期を、こちらから勝手に決めることはしません。それまでの間、業務が特定の一人に依存しないようにする。それも今回の引き継ぎの目的です」
会議室には、静かな緊張感が漂っていた。
誰もが、黒木の復帰によって仕事が楽になることを期待していた。しかし同時に、責任者が戻ったからこそ、これまで曖昧だった役割や判断基準が問われることにも気づき始めていた。
黒木は、最後に時計を見た。
「では、各担当者は現状と未確認事項を整理してください。今日中にすべてを解決する必要はありません。ただし、何がわかっていて、何がわかっていないのかは、今日中に明確にしましょう」
会議は、予定時刻どおりに終了した。
黒木が資料をまとめていると、情報システム部門の若い社員が近づいてきた。
「黒木さん、復帰早々、大変ですね」
「大変かどうかは、まだわからない」
「えっ?」
「仕事の量だけを見れば、大変だろう。しかし、仕事の量と、解決できない問題の数は同じではない。まず、整理することだ」
若い社員は、少し考えてからうなずいた。
「……なるほど」
「もっとも、整理する前に、新しい問題が増えないことを願っているが」
黒木がそう言った、その直後だった。
会議室の外から、慌ただしい足音が近づいてきた。
「黒木さん!」
セキュリティ担当の社員だった。顔色がよくない。
「どうしました」
「会社支給のノートPCが一台、紛失したと連絡がありました」
黒木の手が止まった。
「紛失?」
「はい。社員が昨夜、飲酒を伴う会食のあと、端末をなくしたようです。本人も、最後にどこで使ったのか、はっきり覚えていないとのことです」
黒木は、机の上に資料を置いた。
「端末の資産番号は」
「現在、確認中です」
「最後に正常な通信が確認された時刻は」
「まだ調査できていません」
「端末管理システムからロックできるか、確認してください。クラウド側のセッションについても、失効させる必要があるか検討を始めてください。ただし、ログは保全すること。先に消去して、あとから調べられなくなるようなことは避けてください」
「承知しました」
「それから、本人には、覚えていることと推測を分けて話してもらってください。責めるのは後でよい。今は事実を集めるのが先です」
社員が立ち去ると、黒木はしばらく黙っていた。
復帰初日。
三つ巴の兼務。
終わっていないグループウェア移行。
そして、ノートPCの紛失。
彼は手帳を開き、今日の予定を見直した。
「……願いは、さっそく聞き届けられなかったな」
誰に向けたものでもない言葉だった。
黒木は立ち上がった。
「まずはインシデント対応だ。移行プロジェクトは責任者に状況を整理してもらう。私が両方の作業を直接抱える必要はない」
そう言ってから、彼は一つ付け加えた。
「ただし、両方の仕事が交差するところは、私が確認する」
クラウド化された業務環境では、データが端末本体に保存されていないことも多い。今回のPCにも、業務データは原則としてクラウド上に置かれているはずだった。Windows Helloの指紋認証も設定されているという。
だが、それらは安全性を判断するための材料であって、結論そのものではない。
端末に一時ファイルやキャッシュが残っている可能性はある。認証セッションが有効なままかもしれない。第三者が端末を操作した形跡があるかどうかも、まだわからない。
何より、Microsoft 365からGoogle Workspaceへの移行が続いている最中だ。二つの環境が並行する期間だからこそ、アカウントやアクセス権限の状態を正確に把握する必要がある。
黒木は、セキュリティ担当のあとを追って歩き出した。
復帰初日の仕事は、予定表には書かれていなかった。
しかし、責任者の仕事というものは、たいてい予定表の外からやって来る。
そして黒木厳は、もう一度、その現実の中へ戻っていた。




