第23話: 紅葉の手には、まだ渡せなかった紐があった
「思い出そうとしてみる」
紅葉が、そう言い出したのは、五人で集まった翌日のことだった。
朔也は、止めるべきか迷った末、黙って隣に座った。
丘の花畑には、二人きりだった。
陸たちには「今日は、僕だけで行く」と伝えていた。紅葉が一人で試したいと言った以上、大勢で囲むのは違う気がした。
「無理は、しないでいい」朔也は言った。
「無理してでも、知りたい」紅葉は、膝の上で手を組んだ。「このままじゃ、いつまでも足踏みしてる気がするから」
昨日、五人で輪になって座った時間が、紅葉の中で何かを動かしたらしかった。四人分の記憶が出揃った今、残るのは自分自身の空白だけだという焦りが、彼女の横顔から伝わってきた。
「危ないと思ったら、すぐ止める」朔也は言った。
「うん」紅葉は頷いた。「その時は、ちゃんと止めて」
紅葉は、目を閉じた。
しばらく、何も起こらなかった。花畑の風だけが、二人の間を通り過ぎていった。
「何か、見える?」朔也は、そっと聞いた。
「まだ」紅葉は、眉間に力を込めた。「でも、何かある。すごく近くに」
紅葉の呼吸が、少しずつ深くなっていった。まるで、水の中に潜っていくような集中の仕方だった。朔也は、余計な言葉をかけずに、ただ見守り続けた。
風が止み、花畑全体が息を潜めたように静まった。
その言葉の直後、紅葉の指先が、微かに震え始めた。
「紐」紅葉が、掠れた声で言った。「紐を、持ってる」
「紐?」
「たくさんの紐」紅葉は、目を閉じたまま続けた。「色が、それぞれ違う。一つずつ、丁寧に編んだ」
朔也の心臓が、跳ねた。陸に渡された、あの色褪せた青と白の紐。あれと同じものが、他にもあるということだった。
「誰の分だったんだ」朔也は、慎重に聞いた。
「わからない」紅葉は、苦しそうに眉を寄せた。「でも、四つ、ある。ううん、五つ、かもしれない」
「五つ」
「数えてる」紅葉は、指を折るような仕草をした。「一本、二本、三本……手触りが、それぞれ違う。太いのと、細いのと」
「色は」
「はっきりしない」紅葉は、首を振った。「でも、一本だけ、青と白のが混じってる。あれは、陸くんの」
朔也は、腰道具にあった、あの紐を思い出した。記憶の断片が、既知の事実と少しずつ噛み合い始めていた。
「一つは、陸くんに渡した」紅葉は、記憶を辿るように言葉を選んだ。「残りは……まだ、渡せてない」
紅葉の目が、ゆっくりと開いた。
「持って、坂を上ってる」紅葉は、自分の手のひらを見つめた。「渡せなかった紐を、抱えたまま」
「どこに、向かってたんだ」朔也は、身を乗り出した。
「わからない」紅葉は、首を振った。「そこで、途切れてる。いつもと同じ、ぽっかり空いた場所」
紅葉の呼吸が、少しずつ荒くなっていった。無理に思い出そうとする負荷が、彼女の輪郭をわずかに揺らし始めていた。
「十分だ」朔也は、慌てて紅葉の肩に手を置いた。「今日は、ここまでにしよう」
「でも」
「無理する必要ない」朔也は、はっきりと言った。「紐が見つかっただけでも、大きな手がかりだ」
紅葉は、しばらく荒い息を整えてから、小さく頷いた。
「陸に渡した紐以外に、四つ」朔也は、確かめるように呟いた。「芽依の分、拓斗の分、僕の分。それから——」
「拓斗くんの分だけ、なんとなく手触りを覚えてる」紅葉は、指先をこすり合わせる仕草をした。「渡そうとして、渡せなかった、気がする」
「いつの話か、分かるか」
「わからない」紅葉は、頭を押さえた。「でも、渡せなかったことだけは、確か」
朔也は、行き場を失ったその紐が、五年間ずっとどこかに眠り続けているのだと思うと、胸が締めつけられた。
「もう一つ」紅葉は、自分の胸に手を当てた。「たぶん、わたしの分」
「紅葉の?」
「自分の分の紐を、自分で作るなんて、変だよね」紅葉は、力なく笑おうとした。「でも、そんな気がするの。誰にも渡せない紐を、一本だけ」
「なんで、渡せない紐を作るんだ」
「わからない」紅葉は、目を伏せた。「でも、たぶん、誰かに渡すためじゃなかった気がする。自分に、何か言い聞かせるために作った、みたいな」
「言い聞かせる?」
「ごめんなさい、とか。ありがとう、とか」紅葉は、自分の手のひらを見つめた。「言葉にできなかったことを、紐に結び込んだのかもしれない」
その言葉に、朔也は胸を締めつけられた。誰かのためだけでなく、自分自身のためにも、紅葉は何かを結ぼうとしていたのかもしれなかった。
「その紐、今どこにあるんだろう」朔也は言った。「見つかれば、何か分かるかもしれない」
「坂の途中か、この丘の周りだと思う」紅葉は言った。「でも、五年前のものだよ。もう、残ってないかもしれない」
「探す価値は、ある」朔也は言った。「草むらとか、木の根元とか。丘まで来る道なら、限られてる」
「見つかるかな」
「わからない」朔也は正直に言った。「でも、何もしないよりは、ずっといい」
紅葉は、少しだけ表情を緩めた。何かが具体的な行動に変わりつつあることに、安堵しているようだった。
「探してみる」朔也は、はっきりと言った。「陸にも、芽依にも、拓斗にも、手伝ってもらう」
紅葉は、朔也の顔をじっと見た。
「怖くない?」紅葉は聞いた。「わたしの、本当のこと知るの」
「怖いよ」朔也は、正直に答えた。「でも、知らないままの方が、もっと怖い」
「わたしも、そう」紅葉は、自分の胸に手を当てた。「早く、全部知りたい。でも、知るのが怖い。両方とも、本当の気持ち」
「両方あっていい」朔也は言った。「僕も、ずっとそうだったから」
紅葉は、小さく頷いた。矛盾する二つの感情を抱えたまま前に進むことを、二人はこの五年間で、それぞれのやり方で学んできていた。
夕陽が、花畑の輪郭を橙色に染め始めていた。まだ見つかっていない四本の紐が、五年前のどこかで、今も誰かに見つけられるのを待っているはずだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第23話は、第2アーク結パートの中核、「まだ見えない紅葉自身の秘密」に踏み込む回でした。第12話で伏線として置いた「五人分の紐」を、ここで初めて具体的な手がかりとして回収し始めています。
紅葉が「自分の分の紐」を作っていたかもしれない、という示唆は、彼女自身が誰かに想いを伝えるためだけでなく、自分自身を赦すための何かを必要としていたのではないか、という今後のテーマに繋がる伏線です。
紐という物自体の行方を探すという新しい目的が生まれたことで、次のアークへの推進力ができました。まだ紅葉自身の記憶の空白は埋まっていませんが、その空白を埋める鍵の一つが、少しだけ具体的な形を持ち始めています。どうぞよろしくお願いします。




