16 へがひっくり返る
16 へがひっくり返る
文月京香
「どう?ちゃんとできた」
「今、やってる」
「どれどれ」
母が煮物をしているわたしのそばに寄ってきて、大根を取り上げて味見をしている。
「うーん」
「だめ?」
「太一君って薄味が好きなの?」
「知らない」
ため息つかれた。
「我が家の基準から言うとちょっと味が薄いよ」
「醤油足せばいいの?」
「こら、適当に足すな」
「えー」
「先に味醂を少し足してしばらくしてから、煮汁の味みて」
「めんどくさっ」
「あんた、真面目にやる気あんの?」
「あっ、お母さんまでやめて」
母がちょいっと手を伸ばしてきたので、自分の両手でほっぺを守った。
「何よ。お母さんまでって」
「お姉ちゃんにこの前、思いっきりつねられたの」
すると母はニコニコ笑った。
「だって、京ちゃんのほっぺってむっちゃ柔らかくって気持ちいいんだもん」
「そんなんしるかっ」
「あんた、本当に一人で大丈夫?っていうか、三人だけどね」
「なに、急に」
「いや、京ちゃんがこの家からいなくなると一気に寂しくなるな。香音ちゃんまで連れてっちゃうし」
「……」
夕方の柔らかい光が差し掛ける古びた台所の片隅で、母と二人ちょっとしんみりした。グツグツと湯気を立てる鍋の横で。
「ま、でも、しばらくしたらお姉ちゃんが帰ってくるじゃん。で、そのうちまた、孫も生まれんじゃないの?」
「あ、でも、同居はしないわよ」
「え?」
「最初っから同居はしないわよ」
「どうして?」
「そんなん」
母が……、なんだろうな、ここぞとばかりにクワッと口を開いた。牙が見えたかと思うほどに凶暴な顔になった。
「あんたたちがお母さん、お母さんっておんぶに抱っこで甘えてくるのが目に見えるからよ。京香は太一君が社会人なるまでの限定って思ってたし、玲香も奥さんとして一人前になるまでは同居はしないっ」
「でも、近く住んでたら、なんだかんだと頼ってくんじゃない?」
「それでも同居よりはマシよ」
「なーに、本当は、娘がいないと寂しいくせに」
ツンツン突いてみた。
「獅子の子落としよ。あんたたちはどんなに口でいってもちっとも言うこと聞かなかったからね。ほら、煮物。まともな料理作れるようになってから、出ていきなさいよ」
「へいへい」
母に言われる通りに味醂を取り出した。お玉に少し入れてから全体に回し入れる。それから、味見をする。何も変わりませんが、お母様。
「そういえばさ」
不意に母がニヤニヤと語りだす。この顔はあれだ。おばさんの井戸端会議バージョンです。
「なに?」
「斉藤先生」
「うん」
「別人みたいなのよ」
「別人?」
「先生ってさ、もううちに来てからずーっと、こういう顔してたじゃん。毎日」
母は口元をへのへのもへじのへの形にした。
「うん」
「毎日、基本はつまらなさそうな顔してて、でも、話してみるとそこまでぶっきらぼうじゃないというか、ま、優しいんだけどさ」
「そうだね」
「そう言う人だとみんな思って、受け入れてもう10年近くなったのにさ」
「うん」
「最近、へではないのよ。口元が」
「へ?」
「へがひっくり返って、笑ってんだよ」
「ウッソ」
「初日はさ、たまたま相当機嫌がいいのかねと思ってたわけ。みんな。微妙な違和感を覚えながらもさ」
「はぁ」
「でも、それが続いてんだよ。なんだなんだって話になってて、ほら、みんなまだ玲ちゃんのこと知らないからさ」
「ああ……」
「タイミング見て話そうって思ってたからさ。お父さんもお母さんも。でも、言う前にもうバレちゃってるな」
「え?」
「この前、用事でちょっと帰ってきて、その時、玲ちゃん、先生んとこにもちょこっと顔出したのよ」
「うん」
「そしたら、もう、デレーっとしちゃってさ」
へぇ、そんなにデレてたのか。
「で、その日、一日ニコニコしてたわけ。そりゃもう別人みたいに。声からして違ったから」
はははははと二人でお腹抱えて笑った。
「もう、人って見かけによらないというか、お母さん、斉藤先生があそこまでデレデレする人だとは流石に思ってなかったわよ」
「よっぽど好きなんだねぇ」
「どこがいいのかしらね?」
「そうだねぇ、どこがいいのかしらねぇ」
そう言いながらも母は幸せそうな顔をしていた。
「ほら、貸してみ」
「はい」
煮汁を少し掬って味見用の小皿にうつし、お母様に差し出す。
「うーん、文月家伝統の味には程遠いなぁ」
「そんなもん、あるんかい?」
初めて聞いたわ。
「醤油の街で代々商売してるだけに、煮物にはこだわりがあるんだって」
「えー」
「ま、いいか。京香は外へお嫁行ったんだし」
「なんかムカつく。その言い方」
「それよか、中條家伝統の味、教えてもらいなさい。お姑さんに」
「……」
「ちょっと、返事は?」
「はぁい」
あ、香音が泣いている。寝かしてた居間から声がする。わたしはお玉を置いて、踵を返した。
約2年前から本格的に小説を書き始めてから今までいつも自分に一体何が書けるのだろうと自問自答しています。何のために何をどのような人のために書くのか、書けるのか。子供の頃から本が好きだった自分はたくさんの素晴らしい文学作品を知っていて、世に出るような人の書いたものと自分の書いたものを比べて……、定期的に落ち込んでいます。
もっと、なんか、こう……と、時々、なんだろうな?こうリカちゃんがバービーちゃんになろうとする、いや、違うな。そうではない。キューピーがバービーになろうとする。……。今のではキューピーファンに刺されるでしょうか。ええ、もう、無理に続けるのはやめました。とにかく、もっと世の中で流行っていてもっと目新しいものを書かなければと焦ります。
そして、いつもの結論に戻ってきます。
自分に書けるものを極める、それでダメならしょうがないんだと。
自分と向き合って書くことは誰でもできる。でも、それが本になるかどうかは別の話。
しかしですね、書いたことに意味はあります。
そこで、最近テーマを選ぶ際に大切にしていること。
誰にでも起こりうる平凡なテーマを丁寧に書くことです。
そして、今回は、マリッジブルーでした。
家族との関わりをかなり書き込んだ作品です。そもそもが、家族をとるか好きな人をとるかという部分で悩む主人公が出てくる話ですので。
そして、玲香ちゃんという非常にいい子の心の奥の奥にある悪意が一瞬だけ浮かび上がる瞬間を書きました。
人が生きていくと言うのはどうしてこんなに切ないのでしょうね。
本能という生き物を飼い慣らして抑え込んで生きていく。本能だけでは人は生きられない。おそらく本能のみに人が従ったら、そこに待っているのは破滅なのだと考えています。
それでも嵐が来るような日には全てを捨てて駆け出していきたいこともある。
情熱というものを少しずつ削り取り、捨てながら皆、大人になっていくのだと思います。
理性はそれが正しいのだと言い聞かせてくる。
しかし、私は同時に知っています。それがそれだけが正しいのだというわけでもありません。
だから、歳をとっても人は時々、過去を振り返り、思い出に浸るのではないでしょうか。
2021年9月8日
汪海妹
有給を取って、遅めの朝食を取ったカフェより 二杯目のコーヒーを飲みながら




