10 羊の斉藤君
10 羊の斉藤君
文月玲香
京香の赤ちゃんを見た後、次の日用事があったのもあって野田には泊まらずに駅へと向かう。少し遠回りをした。土手をゆく。駆け足でかけていく部活道の学生達。のんびり散歩しているおじいさんと犬。ふと思い立って携帯を取り出した。斉藤先生に電話をかけた。
「玲香ちゃん?」
「先生、ごめんなさい。寝てた?」
先生は、京香の出産のために昨日の夜は深夜まで仕事だったはず。
「いや、起きてましたよ」
「あの、ありがとう」
「なに?」
「赤ちゃん。可愛かった」
「可愛かったって、玲香ちゃん今、こっちにいるの?」
「ああ、今はもう駅へ向かってるけどね」
「……」
先生は黙った。
「その、話を聞いたんだけど……」
「玲香ちゃん、もう、すぐ帰んないといけないの?」
「え、いや……」
「駅で待ってて」
一方的に電話が切れた。
……。
オッケーをもらっておいて、ノーリアクションもちょっと失礼かと思って電話をかけたのだけど……。
しょうがないな。
駅前の本屋に入って適当に立ち読みをしながら、斉藤先生が来るのを待っていた。
なんだか不思議な感じだった。斉藤先生と待ち合わせをしているのが。何度も会ったことがある人だけど、外で待ち合わせをしたのはこの前ご飯を一緒に食べた時が初めてで、今日が二度目。
正直、慣れない感じ。落ち着かない。不思議だな。この前ご飯を食べた時はこんな感じ何もなかったのにな。
推理小説の文庫本を何冊か引き出しては中身を走り読みする。文字が頭に入ってこない。
電話が鳴った。
「玲ちゃん、今どこ?」
「本屋にいます」
また切れた。出口のとこで待ってようと思って、本を棚に戻す。あ、でも、買おうかな?やめとこうかな?
「玲ちゃん」
「あ」
もう一度背表紙に手をかけたところで、斉藤先生に声をかけられた。
「それ、買うの?」
「どうしようかな……」
「やめときな。こっちにしときな」
「なんで?」
先生は笑った。
「僕が持ってるから、もったいない。貸したげるよ」
「じゃ、こっちは?」
こっちにしとけと言われた方を指さす。
「次読みたいなと思っててまだ買ってなかった本。読んだら貸して」
「わたし、読むの遅いよ?」
「待つからいいよ」
お会計で、斉藤先生はお金を出してしまった。
「これじゃ、先に読む権利ないじゃん」
「別に先に読んでいいよ。プレゼントしたかっただけだから」
「なんかプレッシャーだよ。速く読まなきゃいけない気になる」
「じゃ、頑張って速く読んでね」
「えー」
先生は楽しそうに笑った。
「行こう」
「どこへ?」
なぜだろう?その時ほんと唐突に、ホテルに連れ込まれたらどうしようと思った。だって婚約オッケーした相手じゃん?それは、そういうことをしてもいいですと言ったってことですよね?それで、今はまだやですと言って断っても連れ込まれる。この前提があっても、きちんと抵抗をして抵抗をしたという証拠がきちんと残っていたら、例えば監視カメラに嫌がるのを無理矢理連れ込んでる映像があったりしたら、レイプとして起訴できるんだろうか?婚約者にレイプされました!はて?
「コーヒーかお茶でも飲む?」
「……」
「だめ?」
「あ、いや、大丈夫」
そんなわけないか。あの、羊の斉藤君が。あなたの物になります宣言した途端に羊の皮を脱いで狼になる。背中にチャックついてました。
ぶっ
笑ってしまった。お店に向けて歩きながら。
「何を笑ってるの?」
「いや、思い出し笑い」
駅の近くにあるカフェなんて何軒もないから相談せずにそちらに足が向く。お店に入りながら店員さんのいらっしゃいませを聞きながら席についた。
「先生、ここ知ってるんだ」
「僕ももうここに住んで長いですから」
「前の彼女と来たの?」
「……」
「別に気にしないよ。だって、男の人が1人でこんなとこ来ないっしょ」
「ご注文お決まりですか?」
横を向くと若い小洒落た男の子がいる。ま、わたしも若いんだけどね。
「メニューもらってないんですけど」
「ああ、すみません」
タイミングの悪いガキだ。ま、わたしもそんな大人でもないけど。
「どうぞ」
「どうも」
しばらくメニューを真剣に見る。
「アイスコーヒー」
「そんなに真剣に見て、そんなもの頼むの?」
「そこ……、つっこみます?」
「なんかケーキとか食べないの?」
「女子大生はケーキとか食べなきゃダメですか?」
「玲ちゃん、でも、甘いもの好きでしょ?」
バレてるな。普通に好きです。甘いもの。
「全部美味しそうで迷った」
「うん」
「頑張って二つに絞った」
「なにとなに?」
「ブラウニーとこのやたら様々なナッツが載ったタルト」
「どっちも頼めばいいじゃん」
「……」
うちの家だとですね。こういうことはなしなんですよ……。別にそこまで貧乏なわけじゃないけど。そうか、他のお家だと選択肢にどちらも買うというものがあるのか。
世界って広いな。
「でも、二つを頼むと途中から残してはいけないという義務で食べることになって、美味しいと純粋に思えない」
「食べれない分は僕が手伝ってあげるから」
「……」
もう一度思う。世界って広いな。文月家では欲しいものを一つに絞るのは煩悩を抑える修行のようなものだと言われて育ってきたのだけれど。斉藤家ではそうではないらしいじゃないですか。
「すみません」
「はい」
「アイスコーヒー二つと、これとこれ」
「はい」
修行について思い馳せる横で、斉藤先生はさっさとさっきの小洒落た男子にオーダーを通した。
「暑くないのに、アイスコーヒー?」
「なんとなく」
それからしばらく黙って見つめ合った。
「なんか変な感じだね」
「うん」
お互いのことをよく知ってるくせに、なんか変な感じでした。そわそわした。
「あの、先生、わたしは受けてもらって嬉しいんですけど」
「うん」
「無理してません?」
そう言うと、先生は目を丸くした。
「無理って、結婚の話?」
「はい」
「どうして僕が無理をするの?」
「それは……」
ふと気づくと横にさっきの小洒落た男子が、アイスコーヒー二つとケーキを二つお盆に載せて、困ってました。
二人でじっと見る。この子多分……
「お待たせしました」
そそと飲み物とケーキとケーキ用のフォークをテーブルに載せる。くるりと回ってわたしたちから離れてキッチンの近くまで行ってから振り返ってわたしたちと目がバッチリあい、慌てて視線を外すと、なんかやってる。
「あの子、今、わたし達の話聞いてましたよね?」
「うん。聞いてたね」
先生は苦笑した。
「ちょっと年齢差があってカップルに見えないのに、先生とかいう単語が出て、その後結婚って言葉が出たから」
「うん」
「想像力を掻き立てちゃったのかな?」
「わたし達、カップルに見えない?」
「どうだろうね」
ちょっとだけ寂しそうな顔をしたように見えたのは気のせい?
「外では先生って呼ばないほうがいいの?」
「うーん」
ちょっと考え込んだ。
「前はどうしてたの?」
「……」
「なんて呼んでたの?先生のこと」
「なんで玲ちゃんはさっきから、そういうことばっかり気にするの?」
「いや、だって、今までは一応気を使ってたから聞かなかったけど、先生のこと知りたいなと思って」
「……」
ストローでコーヒーを飲む。苦いのでミルクを入れてかき混ぜた。
「さっきの話はなんだったの?僕が無理してるって」
「ああ……」
結局はぐらかされてしまった。
「お世話になってる産院の院長からのお願いだからって無理してない?」
先生ははははと笑った。
「院長はお願いなんてしてないよ」
「え?」
「すごいイヤーな顔してたよ」
「だって、自分たちの病院のことなのに?」
「でも、早すぎるってずっといやーな顔してた」
「もう、お父さん……」
ちょっと呆れた。子供みたいだ。
「玲ちゃんこそ、無理してない?」
「え?」
わたしが顔を上げると先生は俯いてた。
「してないよ」
「本当に?」
「わたしの願いは、みんなが幸せになることだから」
「……」
「病院がうまくいくには斉藤先生が必要なんです」
微かに先生がため息をつく音が聞こえた。
「お願いします」
わたしは頭を下げました。
「僕にそんなことしないで」
先生は慌てた。
「だめ?」
「二度と、頭を下げないでください。そういうことで」
「どうして?」
「玲ちゃんと僕は同じ高さのところに立ってるんだから。あなたにそんなことされると心が痛みます」
少しだけ強張っていて、少しだけ怒ってるように見えた。
「ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。でも、もうやめて。このことで君が僕に恩義を感じる必要はないから」
「なんで?」
「え?」
「先生がそこまでいうからもう、頭下げたりはしないけど、先生はわたし達のためにわたしと結婚してくれるんであって、先生にメリットってある?」
「メリット……」
「どっちかっていうと情によって受けてくれたんでしょ?本当は先生、結婚とかめんどくさいと思ってる人じゃないの?」
「……」
「違う?」
「玲ちゃんから見て、僕はそんなふうに見えるの?」
「だって、長い彼女と結婚までいかずに別れたし、それからお見合いや紹介、なんだかんだ言って断ってきたでしょ?」
「……」
「ね、恩人の人の頼みだからって無理しないでもいいよ。先生がダメなら、わたしまた一から探すからさ」
「とにかく僕は無理なんてしてないから」
「……あ、そう」
よくわからないけど、そうなのか。
「ほら、食べなよ。ケーキ、冷めちゃうよ」
「いや、テーブルに置かれた時から冷めてるって」
何を言ってるんだ。この人は。焼きたてなんかではないだろ?突っ込まれて斉藤先生は幸せそうに笑った。どれどれフォークを取ってどっちから食べようか迷う。贅沢だな。二つ食べられるぞ。
「ねぇ、玲ちゃん」
「ん?」
「一つだけ約束してほしい」
「なに?」
「もう、僕以外の人探すの、やめて」
「え?」
また、俯いている。
「そりゃ、先生と問題なければ別にわざわざ他の人探したりしないよ」
「本当に?」
「よくわかったんだよ。わたしやウチの病院を大切にしてくれそうな人なんて、というか、大切にしてくれそうな医者?なかなかいない」
「運命の出会いで出会うかもよ」
はははははと笑った。
「ドラマではあるかもね」
先生はため息をついた。
……なぜ、ここでため息をつくのだろう?この人。
いや、意外ともしかして、結婚したいっていう願望があった?だから、破談になると困るのかな?
「うちがバンバン儲かってる病院ならドラマみたいなことあるかもだけどさ。うちはないない」
そう言って、手を振るとやっと少し笑いました。
さて、どっちから食べようかな。もう一度最初の課題に戻った。




