23日目‐2
姉と交わした会話は他愛のないものであった。
それでも、此処に連れ戻された時を忘れてしまうほど、今のクチナにとっては癒しとなる時間となった。
兄弟を失った悲しみと、蟲の効力の弱まりが、いつの間にか大蛇様に隠されてしまっていた本来の姉ミズチの姿を奪い返しているようだ。
――どうせなら、兄さんも一緒に……三人で落ち着いて話したかった。
(あなたが我が侭な行動などするから、時間も足らなくなってしまう)
少しでも願望を想えば、透かさず蟲たちがざわめき、面の少女の声を響かせる。
とるにたらない脅しだと流せたのは始めだけ。今やクチナの心は動揺を深めるばかりだった。その上、ミズチとの面会を遮断する大蛇様の訪問があるとなれば、尚更だった。
「ミズチ」
日の傾きが分からない地下室において、どのくらい長い時間話していたかは分からないが、大蛇様は入室するなり、ミズチに向かって声をかけた。
「筆頭代理に任せよとは言ったが、此処で長らく油を売るのも宜しいことではないな。此処に居てよいのは一時の間のみ。お前の事を七番目が探していたぞ。さっさと向かうがいい」
冷たいその言葉に、ミズチは無表情のまま頭を下げた。
言葉通りに去ろうとするその背中に、大蛇様は更に声をかけた。
「そうじゃ、ミズチ」
ぴたりと止まるミズチに向かって、大蛇様は含みのある眼差しを向けている。
「明日の昼、少し時間を頂こうか。お前に聞きたい事がある。男や老人共の前で少し落ち着かぬかもしれぬが、それなりに大事な話じゃ。大広間に来い。待っているぞ」
「分かりました。明日の昼、必ず参ります」
表情を変えずに答えるその姿は、クチナから見て蟲の働きが強かった頃とあまり変わらないように見えた。
だが、大蛇様は気付いているのだろう。
何となくだが、クチナにも分かった。
ミズチが去っていくと、大蛇様は大きく息を吐いた。座り込んだままのクチナを見下ろし、その頭にそっと手を置いて一撫でした。
「お前もあの女も飽く迄、姉妹のつもりなのじゃな。確かにその身体は妹だが、魂は我が一部。クチナよ、惑わされるでない。お前はあの女の妹ではない。妾と同じ。女神として蛇穴に全てを捧げる婢なのじゃ。我が子孫でありながら、妾と同等の姫である」
「……わたしは」
「口答えは聞きとうない。お前は妾に従っておればいいのだ。一つになれば妾の言っておることがよく分かるはず。今はまだ十五の少女として存在しておるから分からぬのだろう。クチナよ、それでもあの女を姉として大事に思うのなら、尚更、今の状況は好ましくないのだよ」
「姉さんを盾にする気ですか?」
思わず顔を上げようとしたクチナの頭を、大蛇様は強く抑えつけた。
「そうじゃない。ミズチの幸せを願うのなら、ミズチだけではなく八人衆も長老も、全ての鬼灯を含めた子孫を守るべく行動せよと言っておるのだ。あれの未来はもう決まっておる。妾は筆頭の女を引退後も大事にしてきたぞ。だが、お前があまりにも暴れまわれば、あれの立場も追いやられる。鬼灯の中には妾に問う者がおるのだ。黒の少女が外へ憧れたのは姉と兄のせいだ。その責任を取らせるべきではないのかと」
「姉さんに責任を……」
「ああ、そうじゃ。妾がどう思っていようが鬼灯の全ての動きを管理できるわけではない。見通せる力も曖昧じゃ。妾の知り及ばぬ場所で私刑が行われたとすれば、咎める頃には手遅れということもある。ああ、私刑といえば、お前が逃げだして間もなくもあったな」
大蛇様の不吉な言葉にクチナははっとした。心なしか、その表情は愉しいことでも思い出しているかのように見えたのは気のせいだろうか。
――私刑……わたしが逃げだした頃に……。
「被害にあったのは、船乗の少年」
その言葉に、クチナは小さな悲鳴を漏らした。
「生憎、死にはしなかったが、下男というものはどうも鬼灯の男共に必要以上に低く見られるよう。本来ならばその身分は若人よりも上なのだが、そうは思わぬ者も少なくない。特に過激な者どもの拳はなかなか止められぬのだよ。黒の少女に罪を唆したとして、襤褸切れのようにされてしまったのだ」
その光景が脳裏に浮かび、クチナは絶句してしまった。
大蛇様の表情を見つめるも、女神がこんな嘘など吐くはずもない。告げられた話が事実であるのだと理解すればするほど、クチナは息が詰まる思いになっていった。
――あの子が……そんな……わたしの所為で……。
青ざめたクチナの表情を見つめ、大蛇様は目を細め、ゆっくりとした手つきで頭を撫でた。
「どうやら彼がお前の脱走を手伝ったのは本当のようだね、クチナ。心配するな。既に保護し、しっかりと手当てしてやった。下男ごときがお前の命令に背けるはずもない。それもまだ年端もいかぬ少年よ。船乗として復帰するかはともかく、しばらくすれば前のように生活出来る事だろう」
「……そんなに酷い傷を」
震えるクチナを抱きしめて、大蛇様はその耳元で囁いた。
「お前の我がままの所為じゃ。今回は傷で済んだが、死人が出ることだってあり得る。妾とていざこざが起こるのは好ましくない。だが、これも鬼灯を守るためとなれば仕方ないこと。罪人を許してやる心得はあるが、妾には私刑を行う者たちを止める権限もない」
――ああ……なんてこと……。
謝りたくても相手は何処に居るかも分からない。そもそも、自分が逃げださなければこんな事にはならなかったのだろうか。まだ命を取り留めたからよかった。しかし、もしもこの先死人が出てしまったとなれば、どうなるのか。
クチナは大蛇様の腕の中で震え続けた。
「怯えているのか、クチナ。ああ、そうだろう。やっと自分の犯した過ちがいかほどのものであったのか分かったかな? ニシキ亡き今、残ったミズチを大事に思うのなら、心を入れ替えるべきではないだろうかね?」
「姉さんにも、害をなそうとする人がいるのですね……」
「ああ、いるとも。お前が逃げた時もそうだった。ミズチが、ニシキが、お前を逃がしたのだと疑い、審議を問うべきだと唱える息子共がいた。だが、そんなはずはない。我が息子ニシキの性格は妾もよく知っておる。我が娘ミズチには蟲がいると妾が告げれば、彼らも黙りこむしかない。これで妾がミズチに蟲を与えた理由が分かったか? ニシキのことは申し訳ない。だが、事故だった。決闘中の事故など、妾には私刑以上に止められぬ」
本当に、本当にすまなそうに、大蛇様はそう言った。
クチナは震えながら大蛇様に抱かれ、そして考えをまとめることも出来ぬまま、その感覚に浸り続けていた。
(あなたが黒の少女らしく振る舞わない限り、被害は広がるばかりでしょうよ。ひょっとしたらネネまで嫌な思いをさせられるかもしれないわね)
面の少女の声が頭の中でクチナを責める。
二つの存在に追い詰められながら、それでもクチナはふと昨夜見たミズチの姿を思い出した。震えたまままとまらなかった思いが、どうにか形を成していく。
「……それでも、わたしは納得できないのです」
抱きしめられたまま、クチナは大蛇様に向かって勇気を出して言った。
「大蛇様。いざこざを好まれないのなら、どうして私刑を御止にならないのですか? 仕方ないわけない。あなたの一言で治まるはずなのです。鬼灯というものはあなたを前提として存在するのですから」
「どうかな。鬼灯の全てを管理できるほど、妾は万能ではない。妾が手元に置くのはごく少数の子孫のみ。あとは自由気ままに暮らせばいい。その自由の中で、いざこざが起きてしまうのは避けられぬこと。だが、クチナよ。妾はお前を思いやっているつもりじゃ。家族を愛しておるのだろう? ミズチは蟲さえいれば守られる。お前が心配せずとも、お前さえじっとしていれば、あの娘は黒の少女の出た一族の女として大事にされる。いや、妾が大事にすると約束するぞ」
「……大事にするのなら、姉さんに蟲など与えないでください」
蟲を与えられたのはミズチを守るためだと大蛇様は言った。
だが、クチナは納得出来なかった。
「蟲など与えずとも、誰もがあなたの言葉に素直に従えるようにすればいいじゃないですか。どうして……どうして、あなたはそうしないのですか」
鬼灯を守るためだけならば、心を縛ったりせずともいいはずだ。蛇穴や鬼灯が本当に守りたいような場所であれば、そんなまやかしの術などに頼らなくたって誰しも自ずと力を貸そうと思うはずなのだ。
それを期待せずに、なぜ、始めから縛ろうとするのか。
「あなたには納得できない事がたくさんある。だからこそ、わたしはあなたになりたくない。ネネを食べることもそう、蛇穴に尽くす事もそう、数え切れないほど、あなたに対して疑問があふれてくる。だから、私は、器になんてなりたくないのです!」
「ほう、そうか」
急に冷めた声が聞こえ、クチナは我に返った。
見上げてみれば、大蛇様は無表情のままクチナを見つめていた。蛇の目に見つめられ、クチナは恐怖を思い出した。自分が置かれている状況はどんなものだったか。せっかく溢れていた勇気さえも萎んでいく。圧倒的な大蛇様の眼光を前に、クチナは怖気づいてしまった。
そんなクチナを見つめたまま、大蛇様は言った。
「お前の心も必ずや屈服させてやろう。妾がいつまでもお前を楽にさせていると思っておるのか? もう妾にも余裕はないのじゃ。お前の悲鳴を聞くのが愉しくて堪らない」
「――大蛇様?」
不吉なものを感じて窺おうとするも間もなく、クチナの背を大蛇様の右手の爪が引っ掻いていった。簪はもう片方の手にしっかりと握られている。紐で縛ることも煩わしいのか、逃れようとするクチナを力で抑え込み、大蛇様は簪を大腿部へと突き立てた。
悲鳴を上げるクチナの声を味わいながら、床へと流れて行く血を指でなぞり、大蛇様は女神とも思えぬ形相で笑みを漏らした。
「いつ見ても美しい色じゃ。竜神殿がかつて暴れておった理由が今になって良く分かる。悲鳴を産み、嘆きを産み、血と肉を貪るその暮らしは、さぞ愉しかったのだろうな」
痛みを堪えるクチナの姿を見つめ、その血を舐めてから大蛇様もまた身体を震わせた。
「ああ、クチナ。妾はこうも穢れておる。蛇穴を浄化しただけ、妾は汚らしい者となってしまう。長老と共に儀式を早めるべきか悩んでおるのじゃ。このままでは、妾は怪蛇になってしまう。蛇穴を守るべくして存在しておったはずの妾が、いつかは蛇穴の人間を虐げる者になってしまう! それが怖い……」
声を荒げながら、大蛇様は簪をさらに突き刺した。
――い、痛い……痛い。
「お前がネネを食わぬのなら、生意気なことばかり言って従わぬのなら、今ここでお前の身体を奪ってもいいのだぞ。選べ、クチナ。妾にネネを奪われるのと、諦めて自らの口で食らうのとどちらがいいか選べ」
傷を更に抉られ、クチナは呻いた。
返事など出来るはずもない。それでも、大蛇様は自我を失っていた。そこにはかつていた優しい女神様などいなかった。蛇穴という大地にありったけの力を注いだ分、そして瘴気をその身に移した分、すっかり狂ってしまっていた。
――痛い……痛い……。
言葉すら漏らせず泣きだすクチナの姿を見て、大蛇様はその手を少し休めた。
「勿論、決まっておろうな。お前は黒の少女。赤の少女は誰にも渡したくないはず。その恨みは百年経っても消えぬだろう。妾とて自分に恨まれては堪らない。お前の迷いを取り払ってやろう。受け取れクチナ。これが素直になるための薬じゃ」
大蛇様がそう言った途端、簪の刺さる足が勢いよく脈打った。うねうねとした何かが傷口よりクチナの体内へと入りこんでいく。
――蟲……。
暴れたところで大蛇様の力には敵わない。簪が勢いよく抜かれるまで、クチナはもがくことしか出来なかった。
「さあ、可愛い蟲たちよ。高潔な少女の心を蝕んでおやりなさい。弱った仲間を支えるのじゃ。そう難しくはないはずだよ」
優しそうな大蛇様の声色とは裏腹に、クチナの身体には苦痛ばかりが与えられた。
体の中で何かが這っている。巡る血潮に交じって、うねうねとしたものが自分の身体を侵食している。そんな感触がこの上なく気持ち悪くて、クチナは呻きだした。
(この痛みから解放されるには、あの子が必要)
蟲が蠢き、面の少女の声がクチナの頭の中で響き渡る。これまでよりもずっと身近に聞こえた気がして、クチナは焦りを強めた。
(認めなさい、クチナ。あなたの感じている事全てを。偽っては駄目。あなたは段々と感じてきているはず。あの子を自分だけのものにするの)
「……いやだ……いや」
それでも、クチナは屈したくなかった。ネネへの想いは手放せない。大蛇様への疑問は晴らせない。だが、蟲と自分の心とのぶつかり合いは苦痛しか産まない。
汗ばみながら蹲るクチナを床に置いて、大蛇様は澄ました表情で立ち上がった。
「受け入れるといい」
気だるそうなその声は張りもなく床へと落ちていく。
「無駄に苦しむことはないぞ、クチナ。妾は決してお前の敵ではないのだから」
言い残し、大蛇様は部屋を去っていく。
その姿を目で追うこともままならず、クチナはただひたすら身を焼くほどの熱さと痛み、そして囁く声に苦しみ、しまいには吐いてしまった。しかし、いくら吐いても、蟲の感触は身体から消えそうにない。耐えることも、屈服することも苦しくて、クチナはただ泣いていた。




