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23日目‐1

 翌日、目を覚ましたクチナが抱いたのは、悲しみと期待であった。

 此処に連れ戻されて初めて抱く希望のもとは、姉ミズチの存在である。兄ニシキが命を落としてしまった今、自分ではどうにもならないクチナにとって、一筋の光をもたらしてくれそうな者は、ミズチであった。その姉がネネに触れた事によって蟲の影響から免れようとしている。それは、暗闇で模索するクチナにとって、願ってもない光であった。


 しかし、その一方、クチナは恐ろしくもあった。

 兄はまた来ると言って来なかった。理由は鬼灯の男ならではの悲劇であったが、名ばかりはまだ筆頭であるミズチもまた、厳しい監視下にいるのには変わりない。まさかとは思えども、不審な事態が彼女を襲ったりしないだろうかと思う度に、クチナは落ち着けなかったのだ。


 大蛇様は蛇穴の事になれば、たとえ自分の子孫であっても情の薄い判断をすることがある。生贄や黒の少女の事だけではない。筆頭や八人衆どころか、長年鬼灯に尽くしてきた長老方であっても、大蛇様の言葉一つで粛清されることがあるのだ。

 滅多にある事ではないが、一切ないと言うわけではない。

 それをクチナは知っていたから、下手な言葉等口に出来なかった。


 ――もしも姉さんの中にいる蟲達が弱っている事が知られたら……。


 その身をはっきりと按じたのは初めてのことかもしれない。クチナはつくづく思い知った。これまでは自分の意志を大蛇様に分かってもらいたい一心で逃亡していた。困らせてでも分かってもらおうと思っていた。

 幼い頃の大蛇様であったならば、それでもよかっただろう。

 しかし、彼女は日に日に余裕を失くしている。蛇穴に吸われ尽くし、いつかは潰えてしまうだろう。そんな弱った女神の姿に、鬼灯の中にも怯える者たちがいる。女神が壊れてしまえば、鬼灯の終わり。そうなるくらいならば、女神の意思を妨げる者は取り払えという思想の者だっているのだ。


 クチナが従わないという事態を、大蛇様所縁の魂の所為とみなすか、その魂を宿している身体に流れる血の所為とみなすかもまた、人によって違うだろう。

 クチナが逆らい続けるということは、場合によっては、姉や里の何処かで静かに暮らしている母、幼い弟妹までも牙を剥かれる可能性があるということ。

 その事実を身近に感じる度に、身体の中で蟲達はざわついた。


 ――姉さん、約束通り、来るよね……?


 下女が食事を運び、清拭と着替えの為に訪れる際も、クチナの心はまだ見えぬミズチに向いていた。誰かが扉を開ける度に、姉だろうかと期待しては裏切られる。その繰り返しだった。

 だが、食事も終わり、着替えも終わった。

 次に開く事があるとすれば、クチナ自身に用があるものの訪問だろう。大蛇様の可能性も高いが、姉である可能性も高い。クチナは期待を膨らませながら、扉を見つめて座っていた。扉を見張っているだろう下女の話し声が聞こえてきた。それから間もなくして、扉は開かれた。


 ――姉さん?


 だが、引き戸を開けて入ってきたのはミズチではなかった。

 思いもよらぬその姿に、クチナは眉を顰めた。

 それは、男だった。高貴な衣服に身を纏い、腰には重たい刀を携えている。刀は若人が提げるものだが、その衣服は若人でもその長たる若大将のものでもない。


 ――八人衆?


 見覚えのない八人衆の身形をした青年。それが何者なのか、クチナはすぐに察した。戸惑う彼女を見つめると、彼は優雅に膝をつき、頭を下げた。


「突然の訪問をお許しください、クチナ様」


 その声は穏やかではあったが、腹に何か抱えているような不吉さもあった。


「大蛇様より御許しを頂きましたので、さっそく参りました」

「あなたは……」


 震えを抑えて訊ねてみれば、彼は顔をあげて狐か何かのように目を細めた。


「私はマムシ。この度、新たな八番目として認められたしがない男です」

「新しい……八番目」


 ――やはり、この男が……。


 年の頃は姉と同じくらいだろうか。

 彼の刃がニシキの命を奪ったのだという事実をクチナは忘れたりしない。だが、ニシキの持っていた得物は姉と同じ黒霧であったはず。このマムシとかいう男には、大蛇様直々に与えられたその力を、妖刀でもない若人の刀で制してしまったという実力があるということだ。それを思い出せば、怒りを覚えつつもクチナは動けなくなってしまった。


 ――蛇斬が、此処にあれば……。


 その想いはクチナの目を赤く染めてしまったのだろう、マムシと名乗った八番目は、真っ先にその変化に気付いて溜め息を漏らした。


「おやおや、クチナ様。あなたは大蛇様の分身とお聞きしましたが、ミズチによく似ておられるようだ。お嫌いになられる所以はやはり、ニシキのことかな? 彼には申し訳ないことをした。黒霧相手に臆病さが顔を出して、ついつい手加減を忘れてしまったのでね」


 その言葉にクチナはむっとした。


 ――兄さんを馬鹿にしているのか……。


 だが、反抗的に言い返す事は出来なかった。目を赤くするに留めて、クチナは座っている場所から一歩も動かずに、ただじっとマムシの顔を睨みつけていた。

 マムシの方はといえば、クチナの睨みなんて全く堪えてはいない。武器を持たない少女一人を相手にしているのだから当然なことだった。


「なに、ご安心ください。これからは私がニシキの分まできっちり働きます。何なら、あっという間に六番目くらいまでは昇り詰めて見せましょうよ。そうなれば、斬られたニシキも浮かばれよう」

「あなたの目的は何? 大蛇様に言われて決闘を申し込んだの?」


 自分を追い詰めるために兄が斬り殺されたのだとしたら。

 そう思うとクチナは怖かった。マムシへの恨みは深まるばかりだが、それ以上に、自分に対しても恨みを覚えてしまう。抵抗への見せしめとして兄の命が潰されたのだとしたら、クチナは堪らなかった。


「違いますよ」


 だが、幸いな事にマムシはそう言った。


「私は私の力を信じて、ニシキに申し込んだまで。周囲の若人はつまらない媚を売っていたが、私はそんなことしない。神になるのはあなただけであり、同じ父母を持つ兄弟は違う。残念ですが、私に負けたということは、あなたをお守りするに足りなかったということ。黒霧も彼より私の方が相応しいはず」

「兄さんを馬鹿にするのはやめて」

「馬鹿になどしていません。ただ、奴は私よりも弱かったという事実を言ったまで。黒霧を与えられれば、私も正式に八番目として迎え入れてもらえます。そうなったらニシキの無念でも背負って、登れるところまで登ってみましょう。さすれば、大蛇様もミズチとの縁組を考えてくださるに違いない」


 同じ八番目でも、兄とは全く違う。

 クチナは深くそう思いながら、不快さに身を震わせていた。


 ――姉さんとの縁組だって? 兄さんを殺しておきながら。


 優しかった兄を奪い、姉にまで手を伸ばそうとする目の前の男が不快だった。その想いにぶつかり合うように、蟲たちはざわめいている。


(そんなに嫌いだったら、殺してしまいなさいな)


 いつか聞いた少女の声が頭の中で響いた。


(欲望を解き放つの。そうすれば、もっと楽になれるわ)


 ――兄さんの仇もとれるのかな。


 一瞬だけ、少女の言葉に耳を傾けた丁度その時、扉が再び開かれた。

 見れば、そこにはミズチの姿があった。マムシが来ている事はとうに知っていたのだろう。彼の姿にさほど驚かず、ミズチは静かに入室してきた。


「年頃の少女と密室に二人きりとは、あまり褒められた行動ではありませんね、八番目様」


 澄まし顔でミズチはマムシに向かってそう言った。


「あなたのように遠慮のない御方に大事な見習い子を傷物にされることがあって困るのです。たとえあなたにそのつもりがなくとも、疑われるということは心に留めておいて欲しいものです」

「ふん、オニの見習い子か。そんな趣味はないが一応、心得ておこう。だが、どんなに悪趣味な者でも、この姫児に手を出すような男がいるわけあるまい。クチナ様は黒の少女。お前の妹として生まれたが、お前とは違うのだ」


 見下すようなその言葉に、ミズチの表情があからさまに歪んだ。


「偉くなったものだな、マムシ。大蛇様が御許しになったとしても、私は許さぬぞ。今後、クチナに近づく際は、私を通すがいい。他の八人衆が同伴であるのなら、会わせてやらないでもない」

「おや、この俺が偉そうだと? どっちの台詞だろうな。俺はお前の弟にとって代わってこの名を得たのだ。その意味が分からないわけではないだろう」

「祝い酒を飲み、黒霧を得るまではまだ正式な八番目ではない。その権威を振り回したいのなら、まずは黒霧を得るまでじっとしているがいい」

「へえ」


 嫌悪感をあらわにするミズチに対し、マムシはゆっくりと近づいて行く。その様子を見ながら、クチナはうろたえていた。

 マムシは何も宿らぬ刀、ミズチは黒霧を持っている。得物ではミズチの方が上だが、マムシは同じ黒霧を持っていたニシキを討ち破ってしまったのだ。万が一、ぶつかり合うような事があればと思うと、クチナは怖かった。


「随分と威勢がいいようだな。ならば、俺が黒霧を受け取れば、お前も認めざるを得ないということか。ミズチ、正式だろうがなんだろうが、俺はもうお前より位の高い存在なのだ。今はまだ八番目だからと甘く見ているな? 今に七番目、六番目、それ以上へと登り詰めてやろう。そうなれば、もうお前も逆らえぬなあ?」

「偉くなるのが愉しいか? どんなに昇り詰めても此処にいるクチナよりは格下のもの。お前だって大蛇様がお決めになった範囲でしか動けないままだ」

「勿論、それは分かっているさ」


 その手が伸び、ミズチの顔へと触れる。

 クチナは更に嫌悪を抱いた。姉は動じていないが、クチナは動揺した。兄の無念と相まって、このマムシという男がますます腹立たしいものに感じたのだ。


(じゃあ、その怒りを解き放ちなさい)


 面の少女の声が響く。


(あなたが大蛇様になればいいの。そうすれば、八人衆なんて怖くはないわ。お姉さんを守りたいのなら、力を貸してあげる。蛇斬なんてなくても、あなたならやれる)


 ――そんな事をしたら、わたしはどうなるの?


(感情を解き放ちなさい。欲望に身を委ねるの)


 怒りに任せて動くことが出来れば、さぞ気持ちいいだろう。

 兄の仇をとれるのなら、心もすっきりするだろう。

 だが、そうやって感情や欲望のままに動けば、きっと歯止めはきかなくなる。感情は暴走し、欲望も深まる一方で、ネネへの食欲を止めきれなくなるだけだろう。


 ――ああ……いけない。……ネネ。


(解き放ちなさい。苦しむくらいなら、開き直ってしまえばいい)


 クチナは両耳を塞いだ。

 それで、頭の中で広がる面の少女の声が治まるはずもない。だが、少なくともマムシとミズチの会話を聞かずに済む。それだけでもましだった。

 逃れるように耳を塞いで蹲るクチナのその様子に気付き、ミズチはすぐさまマムシに向かって告げた。


「クチナはお疲れの様子。もう行ってくれませんか? 姉妹だけにして欲しいのです」


 そう言われてマムシもクチナの様子に気付き、深く溜め息を吐いた。


「仕方ありませんな。今日のところは去るとしよう。だが、ミズチよ。この事は忘れずにおこう。今日の態度を後に悔やんでも知らぬぞ」

「御勝手にどうぞ。私は所詮、オニの筆頭。大蛇様の傀儡。けれどそれは八番目様、あなたも同じ事。それを忘れてはなりませんよ」


 軽くあしらわれ、マムシは不満そうな面持ちのまま部屋を後にした。

 マムシの姿が見えなくなっても、クチナの怯えは治まらなかった。


 新人とはいえ、八人衆は末端であっても筆頭より格が高いはず。以前のミズチならば鼻につく相手であっても、年下であっても、その上下をきっちりと守っていたはずだった。血を分けた弟にはさすがにそうはいかなかったが、それでも公の場ではきちんと振る舞いを正していたのが姉の姿だった。

 感情を押し殺し、無益ないざこざを産まぬのがオニの筆頭であったのに、すっかり変わってしまった。この変化を大蛇様は見逃すのかどうか、クチナはそれが不安だった。


(大蛇様はすべてお見通しよ)


 面の少女の声がクチナの頭の中で響く。


(それだけは覚えておいて)


 蟲が蠢くその感覚が気持ち悪い。

 クチナは閉ざされた部屋の外を警戒する姉の後ろ姿を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

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