7日目‐2
残りは一人。しかし、その一人の相手にクチナは戸惑っていた。
同じ月瞳の血を分けたはずなのに、まるで別種のアヤカシのよう。大将格の男はそれだけ異質な存在だったらしい。
戦いながら距離を取り、クチナはそっとネネを下した。
「そっちで……安全なところで待っていて!」
手早く言うと、そのまま再び男へと立ち向かっていった。
ネネはその様子を不安げに見つめていた。辺りはすっかり暗い。月明かりが岩生の森林をも照らしてはいるが、昼間のような良好な視界などあり得ない。そんな中で目立つのは月瞳男の輝く目玉。そして、それを相手に立ち向かうクチナの蛇斬の煌く光。
固唾を飲んで見守りながら、ネネは常に周囲に気を配った。
戦うクチナたちの傍では既に切られた月瞳たちが蠢いている。少しでも動いて己らの大将に力添えをということなのだろう。だが、クチナはそんな彼らも飛び越して、ただ一人男の相手だけに徹していた。
ネネもまた蠢く彼らに気を付けながら、戦いを見守った。決着はなかなかつかない。クチナが逃げようとしても、男は阻む。徹底的に勝敗を決しようという態度なのだろう。
一方、クチナは戦ううちに、段々と焦りを見せていた。戦いが長引くにつれ、自分と相手の体力の差に気づき始めたのだろう。
「クチナ!」
察知したネネがその名を呼ぶ。
その声に応じて、クチナはネネの元へと急いで戻ってきた。
触れるだけで力は与えられる。気休めにしかならなかったとしても、何もしないのとは天と地の差があるだろう。
差し伸べられる二人の手。
だが、ネネとクチナの指が触れるかどうかというその時、月瞳の男は夜風のように迫りきて、二人の間に割って入った。
「こらこら、戦いに背を向けちゃならんぞ」
からかうようにそう言って、短刀をもって斬りかかる。寸での処でクチナはそれを避けつつも、そのまま足を止めてしまった。一瞬の隙が命取り。戦いとはそういうもの。そう何度も聞かされながら稽古を受けただろうはずなのに、クチナはその瞬間、月瞳男の目を見つめたまま、固まってしまったのだ。
「クチナ……!」
呼びかけても、クチナの反応は鈍い。
その視線は目の前に立ちふさがる男の瞳に囚われて、避けるという単純な防御すらも忘れていた。
「残念だったね」
そんなクチナへ男が力任せに短刀をぶつける。
――大変。クチナが……。
震える足でネネがその場へ入り込もうとした、その時だった。
月瞳の動きが一瞬止まった。その目が戸惑うように辺りを見つめる。直後、周囲には青白い鬼火のようなものが浮かび上がった。鬼火はぐるぐると月瞳男を取り囲み、そして彼が何か言うより先に、一斉にぶつかっていった。
「な、なんだこれは……か、身体が……!」
力を失い膝より崩れる男の姿に、ネネもクチナも呆然とした。
だが、クチナはすぐに何かに気づき、兎のように飛び跳ねてネネの元へと駆け寄った。
「クチナ……これ」
「逃げよう。奴らだ」
「奴らって……?」
答えを貰うまでもなく、その姿は見えてきた。
青白い炎をもたらした者たち。苦しむ月瞳たちを見据えつつも、その意識はすでにネネとクチナに向いていた。
「危ない所でしたね、蛇姫様」
「キツ……」
睨みつけながら、クチナは刀を構えている。
冷気を伴う怪しげな声。
青白い鬼火に包まれていつの間にか彼は複数のキツを引き連れて立ち尽くしていた。白い狐の面をかぶった彼ら。ひと際目立つ容姿の男は表情のわからぬその顔は、何を考えているか全くわからない。
――確か仲間に司と呼ばれていた男。
ネネは静かに思い出しながら、差し伸べられたクチナの手を握りしめた。
警戒心を強める二人を見て、キツの司はそっとその手で面を取り、素顔をさらす。その顔を見て、ネネはさらに驚いた。
――狐の顔。
手は人間のものに似ているのに、その顔は面によく似た狐のもの。その顔で司は笑みを浮かべ、獣の口を開いた。
「この辺りはこの余所者のように、それなりの力を持つ乱暴な輩がうろついております。貴女方の身に何かあれば、大蛇様が悲しむことでありましょう。さあさ、どうぞ刀を収めください。我らと共にあるべき場所へ帰るのですよ」
赤い目が二人を見つめる。
微笑みを浮かべてはいるが、司の言葉には一切の容赦も含まれてはいなかった。ネネはただクチナに寄り添い、共に後ずさりをするばかり。
――ああ、せめて、わたしにも力があれば……。
そんなネネの嘆きを察してか、クチナの手にわずかに力が込められた。
「いやだね。今更、お前たちの説得に応じると思う? このくらいで諦めるのなら、最初からネネを攫ったりなんかしなかったさ」
クチナの言葉を受けて、司が声に出して笑いだす。
不敵なその笑みが辺りに響く。鬼火に包まれた仲間たちは冷たい仮面をかぶったまま。皆、司の指示を待つばかり。
そして、この場を掌握する司は、優雅に妖刀を抜いてから言ったのだった。
「我らが祖、狐神天狐様は仰せになった」
一歩、二歩と二人に迫りくる。
「蛇神大蛇様こそは蛇穴の全て。我らの力も信仰も、全ては恵みの上にある。その基盤を脅かすは大罪。言葉でわかって頂けぬのなら、いかに身分ある御方だとしても、これ以上の暴虐は見逃せません。天狐様より司の名を授けられし者として、相手して差し上げましょう」
脅しの言葉と共に、司は剣を振るった。
糸にでも操られるように、その動きに合わせて鬼火たちも揺らめく。彼が侍らすキツたちもまた、じっとクチナを睨みながらその指示を待っていた。
きっと彼らは強いだろう。
先ほど倒れた月瞳たちとは比べ物にならないかもしれない。クチナが戦うのを避けて逃げようとした泥人形のオニたちと変わらないかもしれない。
その証拠に、クチナの方はじりじりと後退し、逃げる機会を窺っている。ネネはその緊張を肌で感じながら、ただただこの蛇穴の大地の女神へ嘆きの言葉を心で捧げた。
――また、クチナを傷つけるつもりなの……?
伝わらずとも、嘆かずにはいられなかった。
血を流しながら道を切り開くクチナ。その傷を癒しながら奮い立たせるのが自分。クチナが苦しむたびに、ネネは罪悪感を覚えた。
――わたしにも、戦える力があればよかったのに……。
キツの司がさり気なく動く。その細やかで密かな支持を受けて、一斉に青白い鬼火と従者のキツ達が動き出した。それを見たか見ないかで、ネネはクチナに抱えられた。
「ごめんね、じっとしていて」
慌ただしく詫びを入れ、クチナは走り始めた。
「逃がしはしませんよ、黒の少女」
司の声が背後で響く。だが、ネネにはその姿が見えなかった。ネネに見えるもの、感じられるものは、目まぐるしく変わる周囲の景色と、自分のことを大事に抱えて守ろうとしてくれるクチナの姿だけだった。
そして、そんなクチナを捕らえようと追いかけてくる青い鬼火たちの揺らめき。ネネは息を飲んでその動きを見張った。
鬼火だけではない。
青白い光に紛れながら、キツの男女たちがクチナを狙って追いかけてきている。各々の持つ刀の輝きが、月光のように煌いていた。血を求めて輝くその光は、まるで化け物の眼光のよう。
獲物捕らえる猛獣のように、逃げるクチナに襲い掛かる。
「来た……」
「大丈夫。わたしに任せて」
クチナは全く動じずに、妖刀を振り払った。すぐに刃は鬼火をかき消し、同時にキツたちの悲鳴を生んだ。
――これで少しは……。
それでも残ったキツたちもまた動じなかった。傷つき動けなくなる仲間を飛び越えて、司の指示通りに彼らは走り続ける。
そんな彼らを背に感じながら、クチナは軽く舌打ちをした。
「しつこい奴らだ。この刀をまるで恐れていない」
「戦うの?」
「いや、やめておくよ。時間の無駄になりそうだからね」
ネネの問いに微笑みつつクチナは答える。
笑う余裕があるようだ。しかし、ネネの表情は優れない。まるで自分がクチナの足かせになっている気がして、それがとても悲しかった。
クチナのように自分の意志を貫く勇気と力が欲しい。
――自分の意志?
改めて、ネネはその言葉に疑問を覚えた。
これまで真面目に考えたことなんてなかった。考えようとすれば、赤の少女として生まれてきた責任や義務といったものが圧し掛かり、それ以上深く考えることなんてなかったのだ。
しかし、今はどうだろう。
雌鶏様の教え、大蛇様への信仰。そういった柵に囚われる赤の少女として生まれた自覚をネネはほとんどすべて忘れてしまった。代わりに生まれたのは、クチナに誘われるままに抱いた未来への希望と憧れ。
――これは、自分の意志なのかしら。それとも……。
ネネは分からなかった。
今の自分の抱く感情が自分自身のものなのか、はたまた、クチナに従っているだけのものなのか。
クチナは戦い続けている。
自分の望む未来を手に入れるために、それを阻むものたちの血の色に刃を染め、大地を汚し、数多の闇に包まれた道をも切り開いていく。そして、目的を忘れることなく、時にはこうして敵に背中を向けて走り続ける。
抗う牙を持ち、逃げる足も持つクチナ。
そのどちらも持っていないネネは彼女が羨ましかった。
だが、その一方で、やはり彼女が恐ろしかった。
血を流して大地を汚し続けるクチナは、時折、楽しそうに笑っている気がした。死の淵のぎりぎりのところを彷徨っている相手を見つめ、もがき苦しむその様で悦に浸っているような気がしたのだ。
――きっと、気のせいじゃないのかも。
殺気立ったクチナの姿。一度だけ自分にも向けられたことをネネは覚えている。
きっと攫ったばかりの頃は、本当にネネを傷つけることだってあり得たかも知れない。夕焼け色に染まる崖で一瞬だけ見た表情。そして、その直後に見た不安げなクチナの姿。不安定なその姿を思い出せば出すほど、ネネはクチナが心配になったのだった。
――このままクチナに頼ってばかりでいいのかしら……。
もはや自分は攫われているのではない。未来への希望、クチナと共に生きるという夢。これらが自分の意志の結果だというのなら、いつまでもクチナにばかり負担をかけるのは仕方ないで済ませていいのか。
――いいえ、そんなわけはないわ。
ネネはクチナに抱かれながら、強く思った。
戦う力がないのなら、せめてクチナに力を与えたい。傷を癒すだけではなく、傷を作らぬように守る力を与えたい。日頃、ネネと触れ合うだけで何も食わずとも力を発揮するクチナ。彼女が力尽きぬよう、支える力は自分にあるのだ。
――わたしの『気』を出来るだけクチナに。
念じた心が通じたのだろう。
クチナの体がぴくりと震えた。
「ネネ……!」
驚きつつ様子を窺うように一言だけその名を呼び、やがて、その反応を待たずにすぐに誓ったのだった。
「有難う。絶対に逃げ切ってみせるよ!」
そして、接近していたキツ二人を一度で切り伏せてしまうと、再び一心不乱に走り出した。夜風のように進むクチナにしがみつきながら、ネネは静かに脱力を感じていた。
――よかった。ちゃんと……ちゃんと力を渡せた……。
目眩に見舞われながら、ネネはその達成感に安堵した。
一度覚えてしまえば、そして達成してしまえば、それは自信につながるのだろう。ネネはもはや恐れてはいなかった。自分の気を渡せばクチナには頼もしくも力が芽生える。それは、ネネにとってこの上ない支えでもあった。
そして、その信頼に応えるかのように、ネネを背負い、目を赤く光らせることもなく、妖刀を片手に軽々と振るい、道を塞ごうとするキツたちを次から次へと切り伏せ、強引に逃げ道を作っていったのだった。
「待て、待ちなさい、黒の少女!」
従者たちが斬られていくその光景に、司が飛び出し、クチナの前へと躍り出る。だが、ネネの気を吸い取ったクチナの動きは鬼灯とも逸脱したものだった。青白い鬼火すらも斬り消すと、地位ある神の使いを前に、恐れも遠慮も持つこともなくその妖刀をぶつけていったのだった。
ぶつかり合う刀の音が響き渡る。ネネには遠い世界であるはずのその音は、意識の狭間でさまよう彼女の傍にて子守歌のようにまとわりつく。
――クチナ……。
苦戦は無縁ものだった。
ネネが力を渡して以降、クチナはこれまで以上に軽々と動き回り、弓矢そのもののように司へと迫りいく。
「そんな……司様が……!」
先に斬られて動けないキツ達が嘆く声がした。
クチナはいつもの通り、命までは奪わない。奪わずとも、その尊厳は容赦なく踏みにじられているのだろう。
――戦う人とはそういうものだと聞いているわ。
特に、人でない者たちにとってはなおさらのこと。それも、神の血を引き、神の使いとして生まれ落ちた者ならば。そして、そんな者たちを取りまとめる長の座に就いている者ならば。
けれど、クチナは切り開いた。
立ちふさがる司のその尊厳ごと、逃げ道を作り上げたのだった。
「……黒の少女」
大地に血まみれの手と膝を付きながら、司が絞り出すような声で呼んだ。クチナは答えず見つめるだけ。ネネを背負い、血を弾き傷一つない妖刀を片手に提げたまま、じっと倒した相手を見ていた。
「何故、あなたは……あなたのような御方が……。この国がどうなっても……いいというのですか……」
見上げるその切なげな視線に、ネネは思わず目を逸らした。彼の訴えは蛇穴の多くの人の訴えでもある。真正面から受け止めきれる自信がなかったのだ。
「別に蛇穴に害をなしたいわけじゃない」
クチナは妙に冷めた声で答えた。
「ただ納得できないだけだ。あれほどの女神ならば、生贄等いなくたって問題なく蛇穴を守れるはず。人間たちを守る方法があるはず。口で言っても考えてくれないのなら、無理やり考えさせるまで」
「戯けたことを……そんなわがままでこんな真似を……ぐうう……」
雑草を握りしめ、キツの司はクチナを睨む。
もう立って戦う力はないらしい。他のキツも同様だった。皆、いつの間にかクチナの刃に倒れ、その血で大地を穢していた。
「もう喋らないほうがいいよ、司様」
見下ろしたままクチナは言った。
「この国の人間たちを本当に想うのなら、わたし達を追いかけて貴重な時間を潰すよりも、新しい生き方を考えた方がいいと思うよ」
そうして名残も惜しまずに背を向けて、立ち去ろうと歩みだす。そんなクチナと背負われるネネに向かって、司は消え入りそうな声で呟いた。
「大蛇様の宝物よ……今に悔やむことにな……る……」
だが、クチナは一切振り返らず、そのまま歩き出していった。




